SSブログ

あなたのとりこ 550 [あなたのとりこ 19 創作]

 まあ、また次の仕事を探さなければならないと云うのは厄介ではありますが、しかし次の仕事がなかなか見つからないかも知れない事に不安は然程無いのでありました。これ迄だって結局何とかなって来たのでありますし、いざとなったら新宿辺りの職安の前で立ちん坊でも何でもすれば、その日暮らしながらも飯にはありつけるでありましょう。
 ただ、夕美さんをまたもや失望させて仕舞うかも知れないと考えると、そこは些か気が引けるところではありますか。頑治さんのたつきの道がちゃんとしていないと、二人の将来像なんと云うものもちゃんとは描けないと云うものでありましょうし。
 さて、全体会議は一週間後に、社長も出席して終業時間の一時間前から社内の応接スペースで開かれるのでありました。終業時間の一時間前と云うのは土師尾常務から云い渡された事で、つまり社長と土師尾常務は一時間程度で全体会議を終わらせる心算なのであろうと推察されるのでありました。役員であるから残業手当が付かない土師尾常務が、終業時間後に居残って迄得の無い会議を長引かせる気なんぞは先ずないでありましょう。
 その日の朝、那間裕子女史から会社を休むと云う電話が入るのでありました。朝寝坊とか病気とかの欠勤理由ではなく全体会議をボイコットするためだと、偶々電話を取った袁満さんにはっきり宣したようでありました。
 勿論、団体交渉ではなく全体会議と云う形になったのでありましたから、これは団結破りとかの組合への裏切り行為とは認定出来ないのでありました。まあ、会社従業員としての、至ってけしからぬ行為には屹度なるでありましょうけれど。
 気が優しくて、大切な仲間であると見做している那間裕子女史の不届きを、態々全く以って仲間ならぬ土師尾常務に論う行為を袁満さんとしては潔しとしないのでありました。依って、止むを得ない病気扱いと云う事で土師尾常務に報告するのでありました。
 選りに選って大切な全体会議の日に欠勤するとはどう云う心算なのだと、ただ報告をしただけの袁満さんに一くさり土師尾常務は云い掛かりを付けるのでありました。袁満さんは体がつらくてこれから多分病院に行くのであろうし、そんな那間裕子女史に無理を強いて敢えて出社を強要する訳にはいかないだろうと、嘘と云うのか、余計なお世話的辻褄合わせと云うのか、そんな事迄云って那間裕子女史を弁護するのでありました。
 袁満さんはこの那間裕子女史からの電話と、その後の、ただ自分は欠勤すると言付かった事を報告しただけにも拘らず、土師尾常務に悪態を吐かれた一連のこの件を、仕事に託けて倉庫に下りて来て頑治さんに向かって縷々愚痴るのでありました。
「ふざけんじゃないよ」
 袁満さんは舌打ちして不快感を示すのでありました。「何で俺が文句を云われなきゃならないんだよ。それに那間さんにしても、何で今日会社を休むんだよ、全く」
「土師尾常務は例に依って陰険で歪んだあの性根からここぞとばかり、ガタガタ云って袁満さんをへこませる好機到来だと見当外れに勘違いして、調子に乗ったんでしょう」
「俺としても謂れの無い文句にはちゃんと抗議したいところだけど、那間さんが病欠だと嘘を云った手前、ちょっと後ろめたいところもあったからなあ」
 袁満さんは悔しそうにまた舌打ちするのでありました。
(続)
nice!(10)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 551 [あなたのとりこ 19 創作]

「病欠と云わないで、ちゃんとボイコットと云っても良かったんじゃないですかね」
 頑治さんのその言を配慮不足、あるいは非情と取ったようで、袁満さんは目を剥いて少し驚いたような表情をして見せるのでありました。
「そんな事を云ったら、明日以降の那間さんの立つ瀬がないじゃないか」
「多分、そんな事もありませんよ」
 頑治さんは静穏に云うのでありました。「那間さんの思惑としてはこの反抗的な行動が土師尾常務にその儘伝わる事を、端から承知の上だったんじゃないですかね。若しそれを不都合と思うなら、態々袁満さんにボイコットだとは云わなかったでしょうから」
「いやでも、それは電話に出たのが偶々俺だったから、敢えて、本当はボイコットのために休むんだと秘かに打ち明けたという事じゃないのかな」
「でも、例えば土師尾常務には欠勤の理由をボイコットとは云わずに、適当に誤魔化して置いてくれとか何とか、そんなお願いをした訳じゃないんでしょう?」
「それはそうだけど。・・・」
「那間さんとしては全体会議をボイコットする意志で会社を休むんだと、皆に向かってはっきり公言する心算でいたんだと思いますよ」
「つまり俺が那間さんの真意を測れないで、気を遣い過ぎたと云う事かい?」
「まあ、袁満さんも悪気があっての事では決してないでしょうけれど」
 袁満さんは顎に指を当てて考え込むような仕草をするのでありました。
「そんな那間さんの意志も知らずに、頓珍漢にも俺は野暮な事をしたと云う訳か」
「俺はそう云う風に那間さんの態度を理解しますけど」
「でもそうだったら、つまり那間さんは土師尾常務や社長に喧嘩を売る心算だと云う事になるよなあ。那間さんは、会社に見切りを付けたのかな?」
「見切りを付けたのかどうかは、このボイコット一事だけでは判断出来ませんけど。例えば単に後先は考えずに、土師尾常務と社長に自分の態度を断固表明して、動揺させて猛省を促す事が出来れば、と云う風に考えたのかも知れないし」
「社長と土師尾常務の事だから、猛省なんか絶対しないぜ。寧ろ那間さんを憎んで、しめしめとばかり抜け目なく待遇を悪くしたり、とことん虐めようとするんじゃないかな」
「まあ、そうでしょうかねえ」
 頑治さんは口をへの字にして一応頷くのでありました。「気持ちが社長や土師尾常務に伝わらないとなったら、その時は那間さんも何かしらのけじめを付けるでしょうね」
「つまり、結局は会社を辞める事になる、と云う事だよな」
「那間さんも相当の意地っ張りですから、そうなればおめおめとは引き下がらないでしょうね。感情が激して、じゃあ会社を辞める、と云い出すかも知れませんけどね」
「結局は要するに、そう云う事になるじゃないかなあ」
 袁満さんは顔を顰めるのでありました。「だったら、那間さんは病欠だと云う風にして置いて、なるだけ穏便に処理する方が得策だと云う事だよな」
「でも那間さんは、端から穏便な処理なんかを望んではいないと思いますけどねえ」
(続)
nice!(12)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 552 [あなたのとりこ 19 創作]

「しかし、ここで那間さんに会社を辞められたら、組合としても痛手だし」
「矢張り団交を全体会議に変容させたと云うのが、気に入らなかったんでしょうね」
「でも殊更経営側と対立する必要も無いし、穏やかな方が話しもし易いし」
「那間さんとしては穏やかでない方が、余計な配慮がいらない分、或る意味で話しがし易いと考えていたんじゃないですかね」
「そうかなあ」
 袁満さんは、穏やかならざる方が話しがし易い、と云う辺りが全く判らないようでありました。まあ、那間裕子女史が本当に穏やかな話し合いを求めない方を良しとしているかどうかは、確かめた訳でもないので頑治さんにも実は判らないのではありますが。
「で、結局今日の全体会議には、こちらとして打ち合わせとか意見の擦り合わせとかは何もしないで臨むと云う事になるのですか?」
「まあ、団交と云う訳じゃないから、今日のところはそうなるかなあ」
「申し入れみたいな事も当面しないんですね?」
「向こうの話しを、先ずは聞くと云うスタンスかな」
 成程これは大したトーンダウンであるなと、頑治さんは顔には出さないけれど些か失望するのでありました。話しを聞く、と云う態度で臨むだけなら、今日の全体会議は頑治さんか甲斐計子女史の馘首に対する何らの対処もないと云う事でありましょう。
「先ずは話を聞いて、それから後日、向こうが狙っている従業員の誰かを辞めさせると云う謀の対処をする、と云う事になるのですか?」
「そう云う順序かな」
「それは全くの後手で、向うのペースにすっかり乗ると云う事になりませんか?」
「いやまあ、向こうの企みがはっきりした上での方が、こちらの具体的な対処法が練り易いんじゃないかな。その上で、組合の団体交渉と云う次の手段も取り易いし」
「そうですかねえ」
 頑治さんは首を傾げるのでありました。これはどうやら那間裕子女史に連動して頑治さんもボイコットに加担すべきだったかも知れないと、竟々思って仕舞うのであります。
 袁満さんは倉庫に来た時よりももっと憂鬱そうな顔をして、上の事務所に引き上げて行くのでありました。今後の那間裕子女史の取り扱いと云う点も、会社の将来とか自身の仕事の進捗とかに加えて、また一つ頭の痛い事態が増えたというところでありますか。

 新宿の件の洋風居酒屋のカウンター席に隣り合わせに座る頑治さんに、一口飲んだモスコミールをコースターの上に置きながら那間裕子女史は喋り掛けるのでありました。
「結局全体会議は、こちらから何も云い返さないで無様に終わったのね」
「そうですね。まんまと社長と土師尾常務に主導権を奪われたと云う感じでしたね」
 頑治さんは自分のジントニックをコースターから取り上げるのでありました。
「心配した通り、矢張り外部の人が入らないとウチの連中はしおらしいだけね」
 那間裕子女史は舌打ちするのでありました。
(続)
nice!(13)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 553 [あなたのとりこ 19 創作]

 全体会議のあった次の日にその首尾を聞きたいと云う事で、那間裕子女史は頑治さん一人を仕事が終わった後で新宿の何時もの居酒屋に誘うのでありました。その日那間裕子女史は全体会議を自分一人ボイコットした手前、傍目には何と云う事もなく何時も通りに振る舞っている心算でありましょうが、どことなく居心地悪そうで屈託有り気に軽口も云わないで、必要な事以外は誰とも口を利かないようにしながら過ごすのでありました。
 しかし全体会議がどのように進められたのか、そこで社長と土師尾常務からどのような突拍子も無い話しが出たのか、それに誰がどのような受け応えをしたのか、その辺りは当然ながら大いに気になっていたようでありましたから、それを頑治さんに訊き質す心算で居酒屋に誘ったのでありましょう。朝から会社の中で何となく、誰彼となくつんけんしていたから、その話しを聞き出す相手は頑治さんしかいなかったという事でありますか。
「その辺を狙って、土師尾常務は団交ではなく社内の全体会議と云う形をとろうとしたのでしょうしね。まあ、土師尾常務の思う壺、と云う事になりますかね」
「まんまと術中に嵌った訳ね。ま、肚の中は疾うに知れていたけど」
 那間裕子女史はモスコミールをまた一口飲むのでありました。「疾うに判っていて、それでも態々それに乗って仕舞うんだから、ウチの会社の連中もお人好しと云うのか頓馬と云うのか、策が無いと云うのか頼りないと云うのか。・・・」
「まあ俺も、その頓馬の一人ではありますが」
 頑治さんは頭を掻いて見せるのでありました。
「で、会議の席で唐目君は名指しで会社を辞めてくれって、また乞われたの?」
「いや、殊更俺を標的にするような事はしませんでしたよ」
「じゃあ、甲斐さんはどうだったの?」
「俺が云われないんだから、甲斐さんも当然そんな事を云われませんでしたよ」
「じゃあ、誰か会社を辞めたい人は居ないのかと、手でも挙げさせられたの?」
「そんな具体策に話しを持って行くんではなくて、社長と土師尾常務はこの儘だと年末を待たないで会社を畳む事になるとか、只管脅す事に専念していましたね」
「会社を存続させるためにどうすべきか、とかの話しは何も無かったのね」
「お前達どうする心算だ、とか云うトーンでしたね」
「そう云うのは役員として、全くの無責任と云う以外ないじゃない」
 那間裕子女史はグラスを取り上げて、口元で止めて憤慨するのでありました。
「袁満さんがその点を指摘しましたけどね」
「で、指摘されてあの二人は何と云ったの?」
「社長は会社を畳む方向で検討する心算だと只管鸚鵡のように繰り返すだけだし、土師尾常務は他の対処があるなら従業員側からそれを示せと逆挑発するような始末でした」
「経営として無責任も窮まったわね」
 那間裕子女史は口の中の液体を喉に流し込んだ後鼻を鳴らすのでありました。「袁満君以外誰も、そんな二人の云い草に対して何も云い返さなかったの?」
「そうですね。会社解散と聞いて、皆意気消沈と云った様相でしたか」
(続)
nice!(10)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 554 [あなたのとりこ 19 創作]

「やれやれ、皆さんやけに殊勝でいらっしゃる事」
 那間裕子女史は憫笑するのでありましたが、さて女史なら、若しボイコットしないでその場にいたとしたらどのような反応をしたでありましょう。社長と土師尾常務の怠慢と無責任に対して、大いに食ってかかったでありましょうか。それとも食ってかかる機を逸して、皆と同様意気消沈してダンマリを決め込んだでありましょうか。
 日頃からの生意気と血気盛んに照らして、一種の義務感のようなものに駆られて、ここは自分が何か云い返さなければと恐らく那間裕子女史は沈黙を破るでありましょう。そういう意味で確かに女史は頼りになる存在でありますか。社長の、会社を清算する心算だと云うと云う恫喝に屈せず、喧嘩腰を貫けるのは女史以外には居ないでありましょう。
「唐目君も何も云い返す事はしなかったの?」
 那間裕子女史は頑治さんの顔を覗き込むのでありました。
「そうですね」
 頑治さんはちょっと恥じ入るような笑いをして見せるのでありました。
「唐目君は最初に馘首するターゲットにされたんだからここは、黙っていればいい気になりやがって、とか何とか声を荒げて怒りを爆発させても良い場面じゃない?」
「結局、俺が会社を辞めれば、当面は何とか会社消滅の危機は凌げるのかしらとか、そんな事を考えていましたね。それで他の人の首が繋がるのなら、ま、仕方が無いかと」
「諦めが早いのね」
 那間裕子女史は半眼になって、その頑治さんの考えには大いに批判的であるような視線を投げて寄越すのでありました。「それとも唐目君は面倒臭がり屋さんなのかしら」
「万事に面倒臭がりの傾向は。確かにありますね」
 頑治さんはジンフィズを一口飲むのでありました。
「駄目よ、会社を辞めちゃ」
 那間裕子女史の口調ははっきりしていると同時にどこか懇願調でもありましたか。「唐目君が辞めれば会社の中であたしが魅力を感じるような人は誰も居なくなっちゃうわ」
「まあ、そんな事も全然ないでしょうけど」
 頑治さんはそう云って女史の言葉を否定した直後に、ひょっとしたら自分はこの場面に於いて、あまりに無造作で無神経で、鈍くて頓珍漢な言葉を今ここで返したのではないかしらとふと思うのでありました。会話中の返答の言葉としての妥当性と云うだけではなく、那間裕子女史の思わず吐露したようなしないような心根に対しても。・・・

 袁満さんが社長の言に思わず息を飲んで、次の句が告げなくなった様子であるのを見てから、均目さんが代わりに受け答えするのでありました。
「つまり社長は、会社がどん詰まりの窮地に陥る前に会社を解散させた方が良いと、今そう云うような提案をされたと受け取って良いんですね?」
「まあ、未だ多少の余力のある内にそう決断した方が、辞めていく皆さんにも少しは手厚く出来るだろうから、より良い方策じゃないかとは考えているよ」
(続)
nice!(11)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 555 [あなたのとりこ 19 創作]

 社長は自分が口にした会社解散と云う言葉のインパクトが、思った通り甚大である事に大いに満足して、如何にも勿体付けたような口調で云うのでありました。
「手厚く、と云うのは退職金を手厚く、という事ですか?」
「まあ、そう云う事にも、なるかも知れないだろうね」
 社長の言はどこか歯切れが悪いのでありました。
「規定額よりも多く出せると云う事ですね?」
 均目さんがここで食い下がるのでありました。
「今はっきり保証しろと云われても困るが、まあ、そう云う事も可能だと。・・・」
社長は語尾を曖昧にするのでありました。いざそうなった時、期待されていた程増額出来ない、或いはしない点をここで早々に弁解しておこうち云う肚でありましょう。
「会社の現状はそこ迄差し迫っているんですか?」
 日比課長が社長に向かって心配そうに聞くのでありました。
「まあ、予断を許さない、と云うところではあるかな」
 社長がこれに関してもここでトーンダウンしたような曖昧な云い方をするのを、頑治さんは得心がいかないのでありましたが、それは均目さんも同じようでありました。
「あれ、会社解散と云うのは差し迫った現実ではないのですか?」
「もうにっちもさっちもいかないと云う訳じゃないし、明日にも、と云う事でもない」
 ここで社長が俄に、社員の受けた衝撃を一先ず少しばかり和らげるような事を云い出すのは、一体全体どう云う考えからでありましょう。大袈裟に如何にも深刻ぶって見せたけれど、実情としてはそれ程でもない事に少しの良心の呵責を感じたのでありましょうか。いや、そんな可愛気のある社長でもないようにも思えるのでありますけれど。
「事態は少しも油断出来ないところに来ているよ」
 土師尾常務が横から口を挟むのでありました。「ここに来て売り上げが相当減っているし、資金繰りもなかなか思うようにいかない」
「矢張り片久那制作部長が居なくなったのが原因と云う事ですかね、会社がそんな風に、一層左前になって仕舞ったのは」
 均目さんが土師尾常務の顔を見ながら云うのでありました。
「それは関係無いよ!」
 土師尾常務はムキになって不快感を表するのでありました。矢張り土師尾常務ではどうにも頼りにならないと云う事かと、均目さんにズバリ指摘されたと感じたのでありましょうが、均目さんは別に土師尾常務の会社運営の無能さ加減をここで論う意図は特に無かったのかも知れません。しかしそうであってもここは常務取締役としてのプライドに関わる問題でありますし、片久那制作部長へのずっと抱き続けていた陰火のような嫉妬や引け目もあって、土師尾常務としてはここは竟逆上して仕舞ったと云う事でありましょう。
 いやまあ、土師尾常務の無能ぶりを論おうと云う意図を、均目さんは暗にしっかり持っていたのかも知れません。人の悪さでは均目さんもなかなかのものでありますから。
「当面の売り上げの落ち込みは、土師尾君の器量とは関係ないと思うよ」
(続)
nice!(12)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 556 [あなたのとりこ 19 創作]

 社長が土師尾常務に代わってまた話し出すのでありました。
「じゃあ、何処に原因があると云うんですか?」
 袁満さんが少し気色ばんで社長に訊き質すのでありました。袁満さんが気色ばむと云う事は、袁満さんとしては売り上げの落ち込みの責は、全く以って偏に土師尾常務の好い加減な仕事振りにあると思っているのでありましょう。
「まあ、そこは様々な原因があるんじゃないかと思うよ」
 社長はあやふやに応えるのでありました。
「そこをちゃんと分析していないんですか?」
 袁満さんが詰め寄るのでありました。
「一応思い当たる要因は、幾つかありはするよ」
「つまりちゃんと分析出来ていないと云う事ですよね。ちゃんとした分析もしていないで、どうして社長は土師尾常務の器量とは無関係だとここで断言出来るのですか。何となく社長と土師尾常務で結託して、危機を演出しているような疑いがどこかしますね」
 ここで均目さんが首を傾げて見せるのでありました。
「僕と社長で何を結託するんだ! けしからん事を云わないでくれるか」
 土師尾常務が先程の袁満さんに代わってやおら気色ばむのでありました。
「そうやってすぐにカッカとするところが、全く怪しいですね」
 均目さんも負けていないのでありました。「若し会社を解散した方が良いと云うのなら、ちゃんと数字を出て、是々こう云う訳でそうする方が良いんだと、筋道立てて説明して貰わないと納得出来る訳がない。そう云うきちんとした説明もなく、ただ業績が悪いとか売り上げが伸びないとか云い募られても、その儘信用も出来ないし、何か別の効果を狙って危機を煽っているんじゃないかって、そんな疑いも湧いてくると云うものですよ」
「何のためにそんな事をする必要があるんだ」
 土師尾常務が均目さんを、目を怒らせて睨むのでありましたが均目さんは全く怯む様子はないのでありました。日頃からその人間性を見縊り切っている土師尾常務如きの威迫なんぞは、均目さんにとっては笑止千万で屁の河童、と云うものでありますか。
「まあ、何かしらの布石を打つ心算で一生懸命危機を演出しているんだろうし、そんな邪な肚の中のは口が裂けても云えないでしょうけれど」
「それは失礼だろう均目君。どうしてそんな邪推をするんだ!」
 土師尾常務は顔色を変えるのでありましたが、眼鏡の奥の黒目が例に依ってそわそわと微動しているのでありました。単細胞で尚且つ小心者が一生懸命に凄んだり怒ったりして見せるのもなかなか骨が折れるのだろうと、頑治さんは内心で笑うのでありました。
「まあまあ、落ち着いて」
 社長が土師尾常務を宥めるのでありました。土師尾常務のように何か云われたらせっかちにいきり立って対抗するよりも、ここで余裕のあるところを見せておかないと、益々均目さんだけではなく、対面する従業員全員に増長されるばかりだとの判断でありましょう。まあ、社長の方が土師尾常務より少しは細胞の数が多いと云う事でありましょうか。
(続)
nice!(11)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 557 [あなたのとりこ 19 創作]

「要するに均目君は、私等が危機を煽って昨年の暮れのボーナスみたいに、出さずに済ませられるのならそうしようと企んでいると思っている訳かな?」
「そうですね」
 均目さんは何の屈託も遠慮もなく頷くのでありました。「それに春闘で妥結した我々の新賃金やら賃金体系も、あわよくば反故にしたいと考えているんでしょうし」
「何だ、社長に対するその失礼なもの云いは!」
 またここで土師尾常務が大変な剣幕でしゃしゃり出て来るのでありました。「それに勝手な憶測で、妙な云い掛かりを付けられるのは大いに心外だ」
「そんな風にすぐにムキになるところが益々怪しいですね」
 土師尾常務が幾ら凄んで見せても、この人物に針の先程も心服していない均目さんには端から利かないようであります。寧ろ益々鼻で笑われるのがオチでありますか。

 社長が土師尾常務を手で軽く押し退けて背凭れから身を起こすのでありました。「春闘での約束は原則的にはこちらとしても誠実にしっかりと守りますよ。その辺は変に疑り深くならないで、信用して貰っても別に良いんじゃないかな」
「ここに至って会社解散なんかを仄めかして我々を脅しに掛かる人に、春闘の時の妥結事項を誠実に守ろうとする気なんか果たしてあるんでしょうかね」
 均目さんは社長に猜疑の目を向けるのでありました。
「脅してなんかいないよ。会社の現実を、誤魔化さずに話しているだけだよ」
 社長はさも誠意のあるところを見せようとしてか静謐に云うのでありました。
「裏付けとしてちゃんとした数字が出てこないと、今のその、社長の云う会社の現実を素直に信用する事は出来ないじゃないですか」
 袁満さんが口を挟むのでありました。
「数字を出してもそれが君達に判るのか、甚だ疑問だが」
 袁満さんが均目さんと社長の会話に口を挟むのだから、自分も遠慮なく喋っても構わないじゃないかと云う道理からか、ここでまた土師尾常務が横から、袁満さんを露骨に見縊って、からかうような語調で茶々を入れるのでありました。
「数字はちゃんと読めますよ。馬鹿にしないでくださいよ」
 袁満さんは憤然とするのでありました。
「まさか全総連に持ちこんで、判断して貰おうと思っているんじゃないだろうね?」
「そう云う手もありますね」
「それはダメだよ。労使の団体交渉で出す数字ではなくて、社内の全体会議での数字なんだから、それを社外の人に教えるなんてルール違反だ」
「未だ数字は出ていませんけど」
 頑治さんが土師尾常務のお先走りの危惧に冷笑を向けるのでありました。
「つまり、数字はちゃんと我々に出すと云う事と受け取って良いんですね?」
 均目さんが土師尾常務の言質を捉えるのでありました。
(続)
nice!(12)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 558 [あなたのとりこ 19 創作]

「それは、・・・」
 土師尾常務はここでちょっと口籠もるのでありました。「・・・君達が、全総連にその数字を洩らす恐れがある以上、おいそれと出す事は出来ないじゃないか」
「別に洩らしませんよ、そんなもの」
 袁満さんが小さく舌打ちするのでありました。
「そんな如何にも慎重そうな躊躇いなんかここで披露して見せて、要するに会社の現状をはっきり示す数字を出す気なんか元から無いと云う事でしょう」
 均目さんが見透かしたような笑いを片頬に浮かべるのでありました。
「君達が社外にその数字を洩らさないと云う保証がないなら、それは当然会社の経営に責任を持つ者として出す事は出来ない、と云っているんだ」
「だから数字を洩らしたりしないと、さっきから云っているじゃないですか」
 袁満さんが言葉を少し荒げるのでありました。従来から社員としても人物の出来の具合としても、遥かに自分よりも劣ると見下している袁満さんなんぞが食って掛かって来たとしても、そんなものに端から負けはしないぞと云うところを見せ付ける心算か、土師尾常務は袁満さんを睨む眼鏡の奥の目の表情を思い切り凄ませるのでありました。
 まあ、元来童顔もあり、体躯も細くて片久那制作部長とは比べ物にならないくらい迫力に欠けているし、何時もどこかおどおどしている目付きの御仁が、どんなに怖そうに凄んで見せても、本人が思っている程大した威迫効果は生まれないと云うものでありであります。この辺の自己分析が全く足りない人だと頑治さんは改めて思うのでありました。
「いやまあ、数字は出しても別にちっとも構わないですよ。その方が君達に会社の現状をはっきり判って貰えるだろうからね」
 社長がまた土師尾常務の無用な警戒心が満ちているらしき細っこい腕を掌で制して、顔の表情も特に歪めないで、もの分かりの良いところを示して見せるのでありました。
「じゃあ、お願いしますよ」
 袁満さんが社長の気が変わらない内に、また土師尾常務の社員に対するむやみな対抗心が発露される前に、せっかちに数字の提出を社長に確約させようとするのでありました。社長はそれに頷いて、背凭れに上体を沈めるのでありました。
 結局その会社の窮状を示す数字なるものが出て来ない限りは、この後の話は進まないだろうと云う事で、この日の全体会議は終了となるのでありました。社長に依れば二三日でそれは用意出来るであろうから、そうしたら近々追って全体会議を招集すると云う段取りになるのでありました。まあつまり、この日の会議では何も事態は進展しなかったのでありました。その事が袁満さんとしては甚く気に入らないような素振りでありましたか。

 頑治さんは自分のジンフィズと那間裕子女史のモスコミールのお代わりをカウンターの中の中年のウェイターに頼むのでありました。
「俺よりも、ひょっとしたら那間さんの方が、ここのところの一連の出来事で会社に魅力を全く失って、辞めようと考えているんじゃないかと俺は心配しているんですけどね」
(続)
nice!(13)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 559 [あなたのとりこ 19 創作]

「会議の様子を聞いていると、どの道会社の命脈はそう長くはなさそうね」
 那間裕子女史は前を向いた儘少し考えるような表情をするのでありました。
「社長の会社解散の話しは俺達をビビらせる目的だけで口にしたのではなくて、実は結構本気でそう考えているのかも知れませんね」
「組合が出来て、苦手でも会社の中で唯一頼りにしていた片久那さんも辞めて、何だかすっかり悲観的になって仕舞ったのかも知れないわね」
 那間裕子女史は前を向いたまま同意の頷きをするのでありました。
「土師尾常務は始めから頼りにならないと見做しているのですかね」
「それはそうでしょう。片久那さんとは比べものにならないくらいショボいと云うのは、ウチの社長に限らずどんな盆暗な経営者でも判るでしょう」
「まあ、確かにそれはそうですかね」
 頑治さんが二度程頷いたタイミングで丁度、注文したジンフィズとモスコミールが夫々の前のコースターに載せられるのでありました。
「唐目君に云われるまでそんなに深刻には考えていなかったけど、でも本当に、あたしもそろそろ会社を辞める潮時かも知れないわね」
 那間裕子女史はモスコミールをグビと一口飲むのでありました。
「ケニア旅行の話しはどうなっているんですか?」
 頑治さんも自分の新たなグラスを持ち上げるのでありました。
「後一年後かなあ。一緒に行く計画の学校の友達とはそんな予定を立てているんだけど、まあ、お互い仕事をしている身の上だから、何となくもたもたしている感じ」
「ああ、三鷹のアジアアフリカ語学院、ですか?」
「そう。お互いの資金の溜まり具合とか、色々な調整がちゃんと付いているという訳じゃないから、はっきりと行く時期は今の段階では未だあやふやかな」
「どのくらいの期間行ってくる予定なんですか?」
「まあ様々な都合で多分二週間程かしらね。もっと長い期間で行ってみたいんだけど、金銭的な事情からなかなかそうもいかないでしょうね」
「ふうん、二週間ですか。それは有給休暇で消化する心算ですかね」
「前に片久那さんにそれとなく訊いたことあるけど、まあ、手抜かりなく仕事の区切りを付けられるなら大丈夫だろうと云う事だったけど、土師尾さんが、例えば夏休みの三日間とかを入れても、そんなに長い有給取得を許可するかどうか、大いに疑わしいわね」
 那間裕子女史はもう一口モスコミールを飲むのでありました。この二口でグラスの半分くらいが女史の胃の中に消えるのでありました。
「確かに土師尾常務は片久那制作部長程話しの判る人じゃないですかね」
「自分以外の人間にはまるで理解が無くて、寧ろ平気で酷な要求をする人だからね」
 那間裕子女史は小鼻に皺を寄せて見せるのでありました。
「土師尾常務が有給休暇の取得を認めなかったら、どうしますか?」
「その時は会社を辞めるしかないわね」
(続)
nice!(15)  コメント(0) 
共通テーマ:

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。