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あなたのとりこ 537 [あなたのとりこ 18 創作]

「那間君はどうして何時も、僕に反抗的なんだ?」
 土師尾常務が口を尖らせるのでありましたが、これは疑問と云う形を取っているけれど、一種の不満か繰り言として結構素直に発せられた言葉でありますか。
「だって片久那さんと違って、云う事が一々信用出来ないんだもの」
 那間裕子女史はあっさりと、尚且つきっぱりと云うのでありました。これは前の上司だった片久那制作部長との比較に於いてと、云うだけではなく、根本的に土師尾常務を虫が好かないヤツだと思っているからでもありましょう。勿論那間裕子女史に嫌われるだけの実績(!)が土師尾常務にある事は、頑治さんも大いに認めるところではありますが。
「それは確かに、前に居た片久那君に比べれば、僕は如何にも頼りなくて無能に見えるかも知れないが、僕だってそんなに棄てたものではない心算だけど」
 これは謙遜を匂わせているような云い草ながら、しかしもう愚痴そのものと云った按配でありまあすか。それに一種の自惚れの表明でもありますか。
「若し本当に捨てたものじゃないのなら、会社がこんな風になる筈がないじゃないの」
 那間裕子女史は片頬に憫笑を浮かべるのでありました。
「そんな無礼な云い方があるか!」
 土師尾常務は声を荒げるのでありました。早々の本領発揮のようであります。
「そうやってちょっと何か云われると、うっかり即座に反応して、単純に腹を立てるところなんかが、あたしが如何にも頼りなく思う所以よ」
 これは正確さを欠くもの云いであると頑治さんは秘かに考えるのでありました。片久那制作部長も結構すぐに怒りや不快感を顔に出すタイプでありましたが、しかし那間裕子女史は片久那制作部長に対してはこう云う不謹慎な事は決して云わないのでありました。それはつまり片久那制作部長の剣幕には、那間裕子女史すらも納得させて仕舞うだけの妥当性と厳めしさが備わっていたからでありますか。片久那制作部長に比べると土師尾常務に対して那間裕子女史は尊崇の念なるものを、欠片も持っていないと云う事であります。
 でありますから、先の言のような軽々しい程の率直さで土師尾常務に対して暴言も吐けるし、それを申し訳無いと寸分も感じないで済むのでありましょう。ま、那間裕子女史は端から、土師尾常務を全人格的に侮って止まないところがあるのでありますか。
「まあまあ那間さん、そんな事を云ったら話しが先に進まなくなるよ」
 均目さんが那間裕子女史を窘めるのでありましたが、那間裕子女史にしたらこの一方的にこちらに非があるような云い草が、これまた気に入らないところのようであります。
「話しを進まなくしているのはあたしじゃないわよ」
 那間裕子女史は均目さんに険しい顔を向けて、しかし視線は土師尾常務の方に流すのでありました。要するにそれを云いうなら、自分にではなくこの判らず屋の単細胞の方に云ってよ、と云うような不満を均目さんに表して見せているのでありました。
「兎に角、どうなんだろう、団体交渉と云う形じゃなくて社内の全体会議と云う形式にすると云う案を、他の人はどう思うのかな?」
 均目さんは苦慮の笑みを口の端に薄く湛えて、一同を見渡すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 538 [あなたのとりこ 18 創作]

 一同は顔を見合わせて一様に困じたような表情をするのでありました。
「特定の人を狙った解雇勧告に対して話し合いを持つんだから、あくまで組合と経営側の団体交渉として行うべきだと思うわ」
 那間裕子女史は均目さんを睨むのでありました。
「しかしそれでは話し合いそのものが持てないとなると、入り口で紛糾して仕舞って、それから先の具体的なところに話しが全く及ばなくなくなる」
「兎に角、話しは前に進めないとどう仕様もないか。その目的でこうして申し入れをしているんだから、この際形式には拘らなくても構わないのかも知れない」
 袁満さんが不承々々そうに土師尾常務の妥協案に身を寄せて行くのでありました。
「袁満君はもう早速懐柔されて仕舞ったの?」
 那間裕子女史が憫笑を片頬に浮かべて云うのでありました。
「そう云う訳じゃないけど、話しの取り掛かりとしては、全体会議と云う形式でも良いかとも思うんですよ。土師尾常務がそれなら乗ると云うのならば。・・・」
「要するに全総連の関係者を排除したいと云う思惑からそんな事を提案するのよ。こんなの典型的な、組合の気組みや団結を取り崩そうとする経営側の常套手段よ」
「あたしも団体交渉の方が道理だと思うわ」
 甲斐計子女史が土師尾常務と目を合させないようにしながら、多少のおどおど感を滲ませて控え目な物腰で云うのでありました。その云い方に土師尾常務は不快感剥き出しの視線を投げるのでありました。目を合わせてはいないけれどその強い眼光を感じて、甲斐計子女史は肩を竦めて下を向いて意ならずも狼狽を表して仕舞うのでありました。
 甲斐計子女史も袁満さんも、それにこの場には居ないけれど日比課長にしてもそうでありますが、営業部スペースで仕事をしている連中は、土師尾常務に面と向かうと何故こうも腰砕けになって仕舞うのか、頑治さんは少々奇異にも感じるのでありました。この土師尾常務なる仁は、それ程迄に厳めしくも恐ろしい存在でありましょうや。
 頑治さんには、これは万事に畏れ入る事の多かった片久那制作部長との比較に於いてでありますけれど、威厳でも強面振りの迫力でも、頭の回転の速さや思考の閃きや話しの緻密さでも、どう転んでもその足下にも及ばない全く以ってなまくらな人物のように思われるのであります。ひょっとしたらこの三人は土師尾常務に何か弱みでも握られているのでありましょうか。まあしかし、弱腰ながらも団体交渉の方が良いと意見表明する甲斐計子女史の方が、袁満さんに比べれば未だ気丈であるとは云えるでありましょうか。
「そうよ、甲斐さんの云うように団体交渉として話し合うのが筋よ」
 那間裕子女史は未だ甲斐計子女史に対して敵意丸出しの目を向けている土師尾常務に向かって、何倍か増しの敵意を込めた視線を突き刺すのでありました。
「唐目君はどう思う?」
 均目さんが順番と云うところからか、頑治さんに訊くのでありました。
「俺も今回は全総連の人も入れた労使の団体交渉の方が良いと思うよ」
「ああそう、団体交渉の方が良い、と云う側ね」
(続)
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あなたのとりこ 539 [あなたのとりこ 18 創作]

 均目さんは少々がっかりしたような声音で頑治さんの言を繰り返すのでありました。
「均目君は全体会議側かな?」
 頑治さんがすぐに均目さんに問い返すのでありました。
「俺としては、さっき迄は労使の団体交渉と云う心算でいたんだけど、今は、ここはそう云う対立構図を最初から取らないで、少し穏便な形で話し合いをした方が賢明かも知れないと云う気がしている。その方が、必要以上に問題が拗れないで済むんじゃないかと」
 頑治さんは均目さんのその言葉を聞きながら目の端で袁満さんをチラと窺うのでありました。袁満さんは目立たないように小さくではあるけれど、均目さんの意見に頷いているのでありました。どうやら袁満さんも全体会議派に宗旨替えのようであります。
「土師尾さんの云う事を聞いていたら、急に気持ちが変わったと云う事?」
 那間裕子女史がこれもきつ目の眼容で均目さんを睨むのでありました。前以ての組合員間の打ち合わせを勝手に脇に置いて、何の前触れもなく俄かに裏切りみたいな真似を働く気か、と云う叱責がその視線に籠っているようでありました。
「まあ、そう取るならそれでも構わないよ」
 均目さんは対抗上、開き直るような云い草をするのでありました。
「何よそれ!」
 那間裕子女史が目を剥くのでありました。「急に態度を豹変させて、皆の合意を勝手にここで裏切るなんて、あたしには信じられないわ」
 那間裕子女史は怒気で嵩じた声で吐き出すのでありました。意ならず急激に怒気を発したためか、途中で声が裏返るのでありました。まさかこの期に及んで、均目さんがそんな弱気な日和見を働くとは無念遣る方無い、と云うところでありましょう。

 土師尾常務が、何だか面白そうな具合になってきた、と云ったような目をして那間裕子女史と均目さんの遣り取りを見上げているのでありました。こうして仲間割れをしてくれるのは思う壺と云うところでありますか。まあ、始めから仲間割れを狙って謀をしていた訳ではないけど、偶々そんな推移になって、しめしめ云ったところでありましょう。
 那間裕子女史と均目さんの云い合いを見ながら、甲斐計子女史もそわそわしてくるのでありました。甲斐計子女史も気質としては闘争的な方では決してなく、万事、態々角を立てるよりは柔らかに事態が推移するのを好むと云うタイプなのでありましょう。
 こうなると頑治さんがあくまで団体交渉派に留まるとしても、こちらは那間裕子女史と二人と云う事になり、穏健派の三人には数に於いて及ばない訳であります。しかしここで頑治さん迄日和見すると、那間裕子女史の立つ瀬が無くなるでありましょう。あくまでも団体交渉と云う線で意見集約してこの申し入れに臨んだのでありますから、思い込んだらとことん一直線タイプの那間裕子女史としては意地でも譲れないところでありますか。
 当初の意気込みに反して、何とも無様な申し入れになったものだと頑治さんは眉根を寄せるのでありました。一方で均目さんは団交派二対全体会議派三の形勢を睨みながら、この何とも頓馬な展開を収拾すべく皆に向かって強引に決を迫るのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 540 [あなたのとりこ 18 創作]

「何だか取り留めなくこうしていると午後の仕事にも差し支えるから、どうだろう、全体会議として話し合いを持つと云う線に合意の人は挙手して貰えますかね?」
 均目さんは袁満さんと甲斐計子助女史を交互に見るのでありました。しかし頑治さんと那間裕子女史の方には視線は向けないのでありました。
 やや間を空けてから、先ず袁満さんがおずおずと片手を肩の高さ迄挙げるのでありました。それを見て今度は甲斐計子女史も同じく躊躇いがちに、均目さんの方にのみ顔を向けて、と云う事はつまり頑治さんと那間裕子女史とは全く目を合わせないようにしながら、ごく控え目な風情で片手を挙げて見せるのでありました。
「全体会議に賛成の人が俺を入れて三人と云う事ね」
 均目さんはそう念を押して頑治さんと那間裕子女史を見るのでありました。「まあ、ここに来て当初の打ち合わせとは違った様相になって仕舞ったけど、手を挙げなかった那間さんと唐目君は、矢張り労使の団体交渉と云う線を崩さないのかな?」
「そうね。矢張り団体交渉の方がこういう場合の話しの形式としては、しっくりいくように思うな。まあ、どう云う意図からか、多数決と云う手段をここで急に持ち出した均目君の遣り方にはちょっと疑問もあるけど、五人の内の三人が全体会議で話し合う方が良いと云う意見なら、結局それに従うしかないとは思うけど」
 頑治さんは天敵を見るような目で自分を睨む那間裕子女史の威圧を、頬のあたりに強く感じるのでありました。頑治さんの後半の云いようが如何にも優柔不断で、全体会議派に何時でも転ぶ心算だと判断したのでありましょう。その視線に籠められた逆上具合から見ると、那間裕子女史は頑治さんにも裏切者認定の判を押したのでありましょう。
「那間さんはどう?」
 そう訊かれて那間裕子女史は均目さんを一睨みして、その儘無言で土師尾常務を囲む輪からプイと抜けるのでえありました。自分はこんな馬鹿げた茶番劇には加わりたくないと云う、当て付けがましくて喧嘩腰で、慎みのない意志表示でありますか。
「それじゃあ、社内の全体会議として話し合うと云う事で良いんだね?」
 那間裕子女史の不貞腐れたような脱落を止めもしないで見ていた土師尾常務は、女史の姿がマップケースの向こうに消えてから、均目さんに不愉快そうに聞くのでありました。勿論この不快感は不貞た態度の那間裕子女史に対するもので、均目さんに向けたものではないのでありました。寧ろ労使の団体交渉と云う形を回避して社内の全体会議と云う線に話しを纏めた均目さんには、よくぞやってくれたと云う思いがあるでありましょう。
「俺と袁満さんと甲斐さんはそれで構わないとして、唐目君からははっきりそれで良いと云う言質を貰っていないけど?」
 均目さんは頑治さんに明確な諾の返答を迫るのでありました。
「俺は矢張り、労使の団体交渉として話し合う方が未だベターだと思っているから、ここは、扱いとしては棄権と云う事にして貰いたいね」
 頑治さんは全く潔くない云い草だと、云いながら思うのでありました。これなら那間裕子女史の方が遥かに、きっぱり態度表明していると云うものでありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 541 [あなたのとりこ 19 創作]

 結局社内全体会議をその週の金曜日修業時間後に設定して、組合員だけではなく日比課長も入れて開催すると云う段取りが調整されるのでありました。出来れば社長の出席も請うと云う事で、これは土師尾常務が声掛けを引き受けるのでありました。
 しかし労使の団体交渉よりは社内の全体会議でと云う案は、恐らく土師尾常務の頭からではなく社長から出た謀で、これは今更社長に招請をかける必要もないと云うところでありましょう。土師尾常務が社長に出席のお伺いを立てると云うのは、まあ、不要な手順、と云う以上の意味は何も無いと云うものでありましょうか。
 社内全体会議の議題は当面の会社存続策と将来像に関して、と云うものでありました。そのために経営側だけではなく従業員の意見も広く聴取して、全社的に納得のいくものを見出すと云う、尤もらしい意義のあるもののようでありながらも、何だか曖昧模糊とした通り一遍の議題に変容されて、従業員の雇用を守るための交渉と云う元々の議題の方は、何処かにこっそり隠れて仕舞ったような感じになったと云う風でありましたか。これはもう土師尾常務の、と云うよりは社長の思惑通りに運んだと云うところでありますか。

 その日午後五時の終業時間になるとすぐに、頑治さんは隣の机の那間裕子女史に一杯やっていこうと誘われるのでありました。団体交渉派の二人で誰彼を罵りながら事前の組合員間の申し合わせを反故にして、ぬるい全体会議の形式に落ち着いて仕舞った事態に対して、酒でも飲みながら大いに鬱憤を晴らそと云うところでありますか。
 先の経緯から、那間裕子女史は均目さんに声は掛けないのでありました。それに那間裕子女史の頑治さんへの声の掛け方なんと云うものは、自分を真ん中に頑治さんと反対側の隣の席に座っている均目さんは端から無視して、誘う気も更々無いと云う仕方でありましたか。均目さんにしても、那間裕子女史と頑治さんの遣り取りをまるで無視するかのように、未だ片付かない仕事に没頭していると云う風を装っているのでありました。
 今日の飲み会は屹度、那間裕子女史は自棄になってへべれけに酔っぱらうのであろうと頑治さんは推測するのでありました。そうなると神保町とか御茶ノ水駅の近辺なんかではなく、なるべく那間裕子女史の居所に近い飲み屋街の方が場所としては良いだろうと判断するのでありました。そう云う処なら若しへべれけに酔っぱらったとしても、タクシーに押し込んで手を振って見送って仕舞えば何とかなるでありましょう。そうなると新宿辺りの、時々立ち寄る洋風酒場なんぞが好適だと考えてそこを提案するのでありました。
 那間裕子女史はそんな頑治さんの危惧を知ってか知らでか、その方が均目さんや袁満さんや甲斐計子史と云う罵倒の対象たる全体会議派が宴会を催すとしても、パッタリ出くわす確率は低いだろうと云う判断で、何度か頷きながら同意するのでありました。
「片久那さんが居なくなった後の均目君を、唐目君はどう見ているの?」
 酒とチョロッとしたつまみ物を注文してから、カウンター席の横に並んで座っている頑治さんに、顔を横に向けて那間裕子女史が訊くのでありました。
「まあ、仕事だけじゃなく、会社の仲での立ち位置も何とか片久那制作部長に近付こうと頑張っている、と云った印象ですかね、好意的に見ると」
(続)
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あなたのとりこ 542 [あなたのとりこ 19 創作]

「好意的な目で見なければ?」
「従業員側から微妙に経営側の方に、少し立ち位地をずらしたようにも感じますかね」
「そうよね、向こうから頼まれた訳じゃないだろうけどね。でも自分の方から従業員側を離れようとしているみたいな感じがするわよね」
 那間裕子女史は一つ頷くのでありました。「ひょっとしたら片久那さんが会社を辞める時に、そうしろって秘かに云われていたのかしら?」
「いや、それはないでしょうね。あくまで自分の考えからじゃないですかね」
 片久那制作部長にはそんな指示ではなく、自分が会社を立ち上げた暁にはそちらに来いと誘われている訳でありますから、片久那制作部長は辞めた後の会社の在り様なんかには然程の関心は無いでありましょう。依って均目さんの態度の変容に関しては、片久那制作部長の関与は先ず以て無い、と考えるのがしごく妥当でありましょうか。
「じゃあ、あの二人の歓心を上手く買って、将来役員にでもなる心算なのかしら?」
 那間裕子女史はカウンターの内側から、丁度自分の前のコースター上に置かれたスクリュードライバーに手を伸ばすのでありました。
「そう云う気も均目君にはないでしょうね。均目君は社長や土師尾常務を大して買ってもいないだろうし、寧ろ人間的な在りようとしてもあの二人には批判的でしょうね。だからあの二人の側に擦り寄っていくと云う気は先ず無いでしょう」
「でも役員になれば報酬は上るでしょう」
「均目君の報酬が上る以上に、あの二人、と云うか社長の方は良く了見が読めませんが、少なくとも土師尾常務の方は姑息に、もっと自分の取り分を増やそうと秘かに企むでしょうから、屹度均目君の報酬アップ分は申し訳程度だと、もうちゃんと均目君自身が端から判っているでしょう。均目君にはそんな期待は初めからないんじゃないですかねえ」
「まあ確かにあの二人の側に居ても、ろくな事が無いのは判っているでしょうね」
 那間裕子女史は口を尖らせて得心の頷きをするのでありました。「でもそれならどうして組合員間の申し合わせを無視して迄、あの二人の方に擦り寄るのかしら」
 均目さんは別にあの二人の歓心を買っても何のメリットもなく、それ以前に、信頼を寄せている片久那制作部長との密約の方を第一番目に考えている筈であります。
「片久那制作部長が居なくなって仕舞って、そのために従業員と役員との間をつなぐ人間が居なくなるのは何かと拙いから、均目君としてはそれなら今後は自分が、代わりにその役を引き受けようと云う心算なのかもしれませんよ、片久那制作部長の後釜として」
 頑治さんは均目さんの目論見をそう解説して見せるのでありましたが、これは如何にも話しの体裁を整えるためだけの解釈と云うものでありますか。片久那制作部長との密約がある以上、均目さんにはそんな役割を積極的に担う気概は無いでありましょうから。
「それは烏滸がましいと云うものよ」
 那間裕子女史は鼻を鳴らすのでありました。「均目君に片久那制作部長の後釜に座るだけの器量と、社員と役員両方からの信頼があるとは、あたしには到底思えないわ」
「いやまあ、能力的なものではなく、あくまでも均目君の気持ちとして、ですけど」
(続)
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あなたのとりこ 543 [あなたのとりこ 19 創作]

「能力の無い人間が、妙な自信と思い違いから自分の器量以上の役割を担おうとすると、決まって破綻するのがオチね。それは寧ろ滑稽と云うものよ」
 那間裕子女史はスクリュードライバーを一気にグラス半分くらいの量口に含んで、頬を幾らか膨らませるのでありました。
「しかし片久那制作部長が居なくなって、その仕事を代わって担う事になった均目君がそのような役割意識を持つのも、あながち不自然でもないと思いますけど」
「己の限界をちゃんと知っていれば、そんな不遜で無謀な考えは持たない筈よ」
「それはあまりに、均目君を見縊っているんじゃないですかね」
 頑治さんは成り行きから、何やらここで均目さんの肩を持つような役割になっているのでありましたが、考えてみれば、片久那制作部長との密約を秘めている均目さんを弁護する謂れは何も無いというものでありましょう。寧ろ、適当なところで会社を出て行く心算の均目さんを擁護するなんと云うのは、心外な事だとも云えるのであります。
「もう、あたしも会社を辞めようかな」
 那間裕子女史は捨て鉢に云って、これまた一気にグラスの残り半分のスクリュードライバーを口内に流し込むのでありました。これはなかなかのハイピッチであると、頑治さんは那間裕子女史に覚られないように、内心冷や々々とするのでありました。未だ店に来て一杯目ではありますけれど、適当な頃合いでこの酒宴を切上げないと、後々面倒な事になりそうな気配であります。頑治さんは自分のジンフィズを一口嘗めるのでありました。
「那間さん迄辞めるとなると、会社が瓦解する一歩手前と云う感じになりますね」
「でもここに至ったらあたしの存在なんか、会社にとって殆どどうでも良いんじゃないかしら。出張営業は無くなったし、特注営業でも他社製品への依存が増えて自社製品の製作は減っているし、だから均目君と唐目君が居れば当面どうにかなるだろうし」
「俺はもう、制作の方の仕事は何もしていませんよ」
「でもあたしが居なくなれば、制作の仕事もせざるを得ないでしょう。多分均目君だけでは手が回らないから、均目君が土師尾常務に唐目君の製作仕事復帰を願い出るわよ」
「ひょっとしたら土師尾常務はこの儘他社製品の依存度を高めて、均目君一人でも何とか制作部を回していけるような業態を、秘かに企んでいるかも知れませんよ」
 こう云う事を云うと自分の意に反して、那間裕子女史の慰留には全くならないではないかかと、頑治さんはうっかり口を滑らせた事を云った後で悔やむのでありました。
「だったら余計、あたしは会社に必要の無い人間と云う事でしょう」
 当然、那間裕子女史はそう云うに決まっている事を口の上にのぼせるのでありました。そうら云わんこっちゃない、であります。
「そう云えば前に袁満さんが、日比課長と均目君だけを会社に残して、俺と那間さんと袁満さん、それに甲斐さんを馘首にする心算なんじゃないか、とか云っていましたねえ」
 嗚呼、これもここであっけらかんと云う必要の無い頓馬な言でありますか。
「それは案外当たっているかも知れないわね」
 那間裕子女史は頷くのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 544 [あなたのとりこ 19 創作]

「まあ、ひょっとしたらそう云う風に、社長としては秘かに企んでいるのかも知れませんが、そうなると会社の規模縮小と、その縮小した中で更に利益率の相対的に高い自社製品割合が減る分、場合によっては土師尾常務の報酬の減額があるかも知れないから、土師尾常務はおいそれとその社長の方針には乗らないんじゃないですかね」
「でも内々に社長が土師尾さんの報酬の現状維持を保証していれば、土師尾さんは会社の規模縮小なんて大した思慮もなく、簡単に飲むんじゃないかしら。あの人の事だから、規模縮小した方が常務としての色んな煩わしさも減るから、自分には都合が好いと屹度考えるだろうし、それでも立ち行かないとなると日比さんを切ると云う手もあるし」
「しかし土師尾常務は、性質として激変よりは現状維持を只管願うタイプだと思うから、本心のところでは単に一人だけの人件費節約で、現状を乗り切りたいと思っているんじゃないですかね。ま、つまり俺だけを辞めさせたら御の字、だったんじゃないですかね。若し俺がダメな場合は、甲斐さんとかをターゲットとして考えているんだと思いますよ」
「確かに土師尾さんは肝っ玉の小さい、如何にも小者と云った人だから、会社の急激な変化みたいなものは、気持ちの上では実は望んでいないかも知れないわね」
 那間裕子女史はお代わりしたスクリュードライバーを、またもや先程と同様、グラス半分程グイと口の中に流し込むのでありました。

 口の中のスクリュードライバーを数度に分けて咳込まないように気を付けながら喉に流し込んでから、那間裕子女史は頑治さんの方に首を曲げるのでありました。
「唐目君もぼちぼち会社を辞める心算でいた方が良いかもよ」
「まあ、是が非でもしがみ付くと云う気はないですけど」
 頑治さんはジンフィズをほんの少し口の中に含むのでありました。
「どだい土師尾さんでは、この先上手く会社を運営していけるとは到底思えないし、景気の良い時だったらどんなボンクラ役員でも何とかなるかも知れないけど、不況下で会社存亡の危機と云う事なんだから、どう贔屓目に考えても土師尾さんじゃ無理よ」
「社長と土師尾常務の間で、ちゃんと将来の展望が共有されているんでしょうかね」
「それも怪しいものよね」
 那間裕子女史は溜息を吐くのでありました。「土師尾さんは只管社長頼みだろうし、社長には社長の、まあ、付け焼刃みたいなものだろうけど、願望に近い思惑があるだろうし、でもそれをちゃんと土師尾さんに説明してなんていないだろうし、土師尾さんも説明されても、自分で何とかする気が更々無いからさっぱり頭に入っていないだろうし」
「那間さんの云う事を聞いていると、全く絶望的ですね」
「だってどう考えても明るい将来像なんて見えないでしょう」
 那間裕子女史はまたもやグラスの中身をすっかり空けるのでありました。頑治さんはこっそり左手首の腕時計を見るのでありました。未だ終電には間があるから、時間をお開きの口実としては使えないでありましょう。那間裕子女史がこの儘のペースでグラスを干していれば、間もなくへべれけになるのは間違いないところであります。
(続)
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あなたのとりこ 545 [あなたのとりこ 19 創作]

 均目さんなら那間裕子女史を家に送って行けるでありましょう。それどころかひょっとしたら、均目さんと那間裕子女史は半同棲に近い間柄だと秘かに頑治さんは疑ってもいるのでありましたが、それは兎も角、頑治さんの方は那間裕子女史が何処に住んでいるのか知らないのであります。荻窪駅の近くだとは聞いた事があるのでありましたが。
 だとしたらへべれけの那間裕子女史を一人タクシーに押し込んで、それでさようならと云う訳にもいかないでありましょう。結局同乗して自分がアパート迄送り届ける羽目になるのであります。それより何よりタクシーの運転手が良い迷惑で、那間裕子女史を一人うっちゃってそれで遁走しようとする頑治さんの無責任を許さないでありましょう。
 そうやって否が応でも頑治さんが那間裕子女史を何とか家に送り届けたとして、その後はもう放ったらかしで退散するとしても、今度は頑治さんの帰路は一体どうなると云うのでありましょうか。那間裕子女史のへべれけがすんなり早い段階で完了したなら良いけれど、時間が掛かって仕舞ったら、頑治さんの帰路と云う段になって未だ電車が動いていると云う保証は無いのであります。勿論那間裕子女史の家に泊まる訳にはいかないし、そうなればまたタクシーと云う事になって、これはもう全く、弱り目に祟り目であります。
 ああそれから、那間裕子女史と均目さんが半同棲状態だと云う頑治さんの勘繰りが若し当たっているとしたら、ひょっとしたら送って行った那間裕子女史のアパートで均目さんと出くわすかも知れないと云う事であります。そうなると、それはそれで何だか別のところで、また妙にややこしくて気の重い事態の推移と云う訳であります。
 送っていく前に試しに那間裕子女史の家に電話を入れてみた方が好いでありますか。その電話に均目さんが出ないなら頑治さんが送って行くとして、若し均目さんが出たら、如何にも唐突の感を均目さんが抱くとしても、均目さんに迎えに来るように依頼すると云う手もありますか。その方が渋ちんながら頑治さんの散財は無くなるのであります。
「均目君に電話を入れて、ここに呼び出して、会社の将来像とか、これから先のあたし達との関係をどう云う風に考えているのか、聞き質してみたいものね」
 頑治さんの取り越し苦労と云えなくもないお先走りの思念の流れに、那間裕子女史が横からグイと竿を差し入れるのでありました。
「え、もう均目君に電話するのですか、未だへべれけになってもいないのに?」
「何の事、へべれけって?」
「いや、その、何でもないです、別に。・・・」
 頑治さんはまごまごしながらジンフィズを一口飲むのでありました。
「均目君は未だ会社にいるんじゃないかしら」
「そうですね、このところ連日残業しているようですからね」
 仕事に未だ慣れないせいもあって、均目さんの残業はここに来てかなり増えているのでありました。尤も残業代を払いたくない土師尾常務は、均目さんの仕事不慣れに依る自主的な居残り、と云う扱いしたいようでありましたが、これは流石に組合に認めさせる事は出来ないのでありました。まあ、土師尾常務としてはあわよくば、と云うところで提案した迄で、そんな事は認められないのは最初から判っていた筈でありましょうが。
(続)
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あなたのとりこ 546 [あなたのとりこ 19 創作]

 いやしかし、土師尾常務がその辺の事を本当にちゃんと理解していたかどうかは、これまた疑わしい限りであります。あの判らんちんの土師尾常務の事でありますから、しごく当たり前の要求として、正々堂々と均目さんの残業代不払いを宣したのかも知れません。その慎に以って堂々たる要求を組合が邪険に断ったと、そう云う手前勝手な解釈になるのかも知れないのであります。まあこれは、充分にあり得るところでありますか。
 さてところで、均目さんを呼び出すと云うのは、頑治さんとしては大いに賛成でありました。そうなれば恐らく、これ迄の経緯とか慣例から、均目さんが那間裕子女史のへべれけの面倒を見るのが妥当でありましょうからから。つまりお先走りではあるものの頑治さんのこれまでの那間裕子女史のへべれけに関する懊悩は、最終的に安堵すべき杞憂と云う事になる訳でありますから、これはもう、しめしめと云うものであります。
「ちょっと、会社に電話してみましょうか?」
「そうね、ここで待っているから仕事が片付いたら来いって誘ってみてくれる」
「判りました。じゃあ、ちょっと」
 頑治さんは椅子から立ち上がって、店の出入り口近くの棚に花瓶と並べて置いてある緑色の公衆電話の方へ行くのでありました。

 席に戻って来るなり、頑治さんは首を横に振って見せるのでありました。
「会社に掛けても誰も出ませんね」
「珍しく、今日はもう帰っちゃったのかしら」
「それで家の方にも掛けてみたんですが、こっちも出ませんね。拍子の悪い事に、丁度帰っている途中の電車の中なのかも知れませんよ」
「ふうん。あま、掴まらないのなら仕方が無いわね」
 那間裕子女史は然程の執着を見せないで、あっさりそれで均目さんを呼び出すと云う計画を放擲する心算のようでありました。
「また少ししたら、もう一回電話してみますよ」
 そう簡単に諦めきれない頑治さんとしてはもう一度、と云うか、均目さんが掴まるまでしつこく電話を掛けてみる心算なのでありました。
「まあ、タイミングが悪くて掴まらないのなら、今日はもう良いんじゃないの」
「いやまあ、折角思い付いてそうつれなく諦めるのも何と云うか、心残り、ですから」
「ふうん。そんなに均目君をここに呼び出したいの?」
「いやまあ、是が非でも、と云う訳ではないですが、まあ、でも、何となく。・・・」
「あたしと二人きりで飲むのは、厄介だと考えているの?」
 那間裕子女史が頑治さんの顔を覗き込みながら訊くのでありました。
「いや、そんな事は全くありませんけど」
 頑治さんは数度顔の前で掌を横に振って見せるのでありました。
「あたしは均目君抜きで、偶には唐目君とこうして二人だけで飲むのも悪くないと思っているんだけど、あたしと二人きりじゃしっくりこないと云う事?」
(続)
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あなたのとりこ 547 [あなたのとりこ 19 創作]

「いやあ、そんな事は全くありませんけど」
 頑治さんはしどろもどろにならないように気を付けながら、先程と同じ科白を吐いて笑うのでありました。必要以上に性急に打ち消して見せれば、返ってそうだと云っているようなものでありますから、ここは注意が要るところであります。
「あたしが例に依って、酔い潰れたら面倒だと思っているのかしら?」
「ああそうか、確かにそれは面倒ですね」
 これはおどおどするくらい図星でありますが、まさかそう云って仕舞う訳にはいかないから、頑治さんは那間裕子女史に云われて初めて気が付いて、成程そう云えばそんな面倒もあるかな、と云うような芝居気交じりの真顔をして見せるのでありました。
「唐目君にあたしの家まで送って貰うと云うのも、悪くはないわね」
 那間裕子女史が意地悪そうに笑い返すのでありました。
「勿論そうなれば、俺は責任を持ってちゃんと送りとどけますよ」
「無理しなくて良いわ。絶対嫌だ、と云う色が目に現れているわよ」
 那間裕子女史は頑治さんの目を覗き込むのでありました。思わず那間裕子女史の顔が接近してきたので、頑治さんは少しどぎまぎするのでありました。
「いや、喜んで送りとどけの任に当たりますよ」
「そんな風に目をパチパチしながら云われても、信用で出来る訳ないじゃない」
 那間裕子女史は苦笑いを頬に浮かべるのでありました。「それに第一唐目君にそんな事をさせたら、唐目君の彼女さんに悪いしね」
「いやまあ、そんな事もないでしょうけど」
 そう首を横に振りながら、頑治さんは夕美さんの顔をふと思い浮かべているのでありました。勿論例え夕美さんが知る由もないながらも、夕美さんに対する忠義に於いて、那間裕子女史を介抱しつつ家に送りとどけるなんと云う、経緯の上での不可避な事態であり、且つ止むに止まれぬ義務であり、何ら疚しい魂胆も妙な下心も絶対抱いていないと間違いなく正々堂々云い切れるものながら、しかしそれでも何となく夕美さんにちょいと後ろめたいような気分になるところの真似は、これはもう避けるに如かず、ではありますが。
「そんなに心配しないで大丈夫よ」
 那間裕子女史は頬の苦笑いを濃くするのでありました。「明日のスワヒリ語の授業の宿題と予習を少しだけどしなくちゃいけないから、今日はそんなにへべれけになるまで深酒しないで、日を跨がない内にちゃんとアパートに帰る心算よ」
「ああ、三鷹のアジア・アフリカ語学院、ですか?」
「そう。この前先生が代わって、宿題が出たりして最近色々大変なの」
「先生、と云うのは、向こうの人ですか?」
「そう。ケニアの人」
「ケニアにも宿題と云うのがあるんですかね?」
「ケニア一般、は知らないけど、その先生は出すわね。まあ社会人相手だからそんなに大量に出す訳じゃないけど、でも、負担は負担よ」
(続)
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あなたのとりこ 548 [あなたのとりこ 19 創作]

「宿題、なんと云うのは高校を卒業して以来、全く縁遠くなった言葉ですね。まあ、高校生の時だって、部活の疲労にかこつけて適当に片付けていましたけど」
「そうね、宿題があると気が滅入るのは小中学生や高校生の時と同じね」
 那間裕子女史は頷くのでありました。「で、そう云う訳だから後一二杯飲んだらお開きにする心算だから、唐目君もそんなに気を揉まないで安心して大丈夫よ」
「ああそうですか」
 頑治さんは内心の気色を隠して極力無抑揚に云うのでありました。「じゃあ、均目さんを呼び出すと云うのは、もう無しで良いんですよね?」
「元々あたしは、均目君を呼び出して会社の将来像とか組合員との関係を訊き質したいと云うのは、是非ともそうしたいと云う事じゃなかったんだから。寧ろへべれけとか何とか云って唐目君の方が、均目君を呼び出すのに乗り気になったのよ。多分酔い潰れたあたしの介抱を均目君に押し付けようと云う肚からなんだろうけど」
 那間裕子女史は頑治さんの心の内なんかすっかりお見通しだと云う笑いを浮かべて、やや目を細めて頑治さんの様子を窺っているのでありました。
「いやまあ、そんな心算で均目君を呼び出そうとしたんでは、別にないんですけどね」
 頑治さんは少し小声で抗弁して見せるのでありました。「今迄は何時も三人で飲んでいたから、その方が那間さんも楽しいだろうと思っての事ですよ」
 頑治さんはさも、終電後に泥酔した那間裕子女史を介抱しつつタクシーでアパートに送り届ける仕事がほぼなくなった事を、案外と残念に思わないでもないようなちょっと有耶無耶な口振りで申し開きするのでありました。しかしこれはあくまでも那間裕子女史への一種の愛想とヨイショなのであって、実のところは残念に思うどころか、女史のお見通し通りホッとしていると云うのが偽りのないところでありましたが。
 でありますからもう一度均目さんにこちらに合流するように電話を入れる、と云うのはこの際無しにするのでありました。頑治さんとしても那間裕子女史の介抱と云う難題が無いのなら、このところ交流の冷えた均目さんを呼び出すのもどこか気持ちの上でしっくりいかないところでもあったから、心残りも何もさっぱり無いのでありました。
 まあ、この後アパートに帰った那間裕子女史を均目さんが恒例に依り訪問すると云うのも、ひょっとしたら那間裕子女史の方が頑治さんと別れた後均目さんのアパートの方に帰ると云うのも、何れにしてもそれは頑治さんの知った事ではないのであります。それにそう云う事であるから、那間裕子女史は頑治さんとの飲み会を適当に切り上げて、ほろ酔いくらいで押さえて、無難な時間中に帰路に就くと云う心算なのかも知れません。
 まあこれは、確たる裏付けの無い事であります。あくまでも二人のなさぬ仲らしきを秘かに濃く疑っている、頑治さんの憶測の域内のものでしかないのでありますけれど。
 と云う訳で、この後那間裕子女史が二杯のスクリュードライバーと、頑治さんが一杯のジンフィズを飲み干したところで、飲み会はお開きとなるのでありました。何と云う事もない飲み会でありましたが、要は均目さんの残業が終わるまでの那間裕子女史の時間潰しのための飲み会であったような気も、頑治さんはしない事もないのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 549 [あなたのとりこ 19 創作]

 要するに頑治さんはそれに付き合わされただけと云う訳であるのかも知れませんが、しかし昼間の土師尾常務への申し入れの時に那間裕子女史が見せた、均目さんの態度に対する失望したような態度はどのように勘定したら良いのでありましょうや。那間裕子女史は団体交渉と云う従業員間の申し合わせを、社内の全体会議と云うものに変質させたいとの土師尾常務の提案に擦り寄った均目さんにがっかりして、申し入れの途中でその場を離れたのであります。それを鑑みれば、均目さんに好い感情は持てないでありましょう。
 依って、この後二人がそう云う経緯をすっかり脇に置いて、あっけらかんと逢瀬を楽しむとは到底考えられないのであります。となると頑治さんのこの推察てえものは、何だか随分見当外れで機微に目の届かない粗いものだと云えるでありましょうか。
 まあ、今日の昼間の土師尾常務への団交申し入れ以前はなかなかのなさぬ仲振りであったとしても、今日この後も続けて、二人が何時ものようななさぬ仲振りでいるとは限らないでありましょう。特に那間裕子女史の好悪のはっきりした頑な迄の潔癖性と、一端敵と見做したらとことん攻撃を貫く徹底性からすれば、少なくとも今日頑治さんと別れた後に均目さんと、何食わぬ顔して逢おうと云う気持ちには到底ならない筈でありますか。
 ところでしかし、那間裕子女史と均目さんの関係を頑治さんが縷々思い巡らす野暮なる謂れは、これは何も無いと云えば全く無いのであります。それは頑治さんにすれば知ったこっちゃない問題であり、二人からすれば余計なお世話と云うものでありまあすか。

 一人減り二人減り

 労使の団体交渉が社内の全体会議と云う形式になったから、袁満さんは全総連の横瀬氏にその経緯を説明して、恐縮ながら出席に及ばずと云う連絡を入れるのでありました。横瀬氏の方からは、これは体良く経営側に丸め込まれたのではないか、と云う危惧が発せられたのでありましたが、当該組合がそう合意した以上労働組合の上部団体としては、敢えてしゃしゃり出るべき事ではなくなったというところでありますか。
 袁満さんは横瀬氏への連絡を終えて、まんまと経営側の策略に乗って仕舞ったかも知れないと云う不安に駆られたのでありますが、もう既に遅いと云うものであります。ひょっとしたら自分達は頑治さんか甲斐計子女史か、それとも他の誰かの馘首を阻止出来ないかも知れないと、袁満さんは倉庫に来て頑治さんにその不安を漏らすのでありました。
 その公算は大であると頑治さんも考えるのでありましたが、経営側の誘導に乗って仕舞ったらしき事を組合の委員長として秘かに責任と後悔を感じているであろう袁満さんを、今頃遅いと詰る心算は全く無いのでありました。まあ、何となく事の経緯からすると、最初に馘首要員として土師尾常務に目を付けられた自分が辞める事になろうと頑治さんは観測するのでありましたが、そうなったらそうなったで仕方がないでありましょう。年季も社内で一番短いのでありますし、かけ替えも利く業務要員でもありますから。
 ま、この会社とは元々大して縁が深くはなかったと云う事でありますか。そう考えるとここで会社を辞める事に、怒りも絶望も未練も然程には感じないのでありました。
(続)
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