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あなたのとりこ 415 [あなたのとりこ 14 創作]

「どうも済みませんっス」
 出雲さんがさっきと同じ事を云って今度はやや丁寧にお辞儀するのでありました。
「出雲さん、会社を辞めるんですか?」
 注文したコーヒーが来る前に頑治さんは出雲さんに聞き質すのでありました。出雲さんはその問いに対して、笑って見せるだけで敢えて言葉では応えないのでありました。
「昨日の水戸での営業で何かあったんですかね?」
 頑治さんのその問い掛けに今度も出雲さんは首を縦にも横にも動かさないで、口を形だけ引き攣るように笑いに動かすのみでありました。この問いにも言葉では応えないのかと思いきや、出雲さんは少しタイミングを遅らせて喋り始めるのでありまあした。
「仕事が終わって帰りの列車の中で、ちょっと許せないような事を云われまして、もうこの人の下で働くのは限界だと悟ったんスよ」
「何を云われたんですかね?」
 頑治さんが畳みかけると出雲さんは出ようとした言葉を口の中に押し止めるためか、巾着の紐を絞るように口を窄めて発声を少し躊躇するのでありました。その代りか、頑治さんの横に座っている袁満さんが口を開くのでありました。
「この仕事でこの先何の成果も上げられないのなら、のほほんと会社に居座って給料をもらっていても人間として仕方が無いんじゃないか、てな感じの言葉みたいだよ」
 自分の事はさて置いて土師尾常務なら他の人に向かってそんな事くらい平気で口にすると云うのは、昨日今日に限った事でないのは出雲さんだけではなく会社の誰もが知っている事であります。だから出雲さんにもそんな土師尾常務に対して一種の耐性が出来ている筈で、さらっと聞き流す事も易く出来ただろうにと頑治さんは思うのでありました。
 頑治さんは出雲さんの会社を辞めると云う重い決断と、土師尾常務のこれ迄にも屡聞いた事のあるこの軽率な難癖との振り合いが、何となく取れていないような気がするのでありました。だから慮ってみると、一日中、面白く思っていないヤツの監視付きで、大した目途も無く飛び込み営業に歩き回ってほとほと疲れ果てて、その上に帰りの列車の中でも延々と、言葉遣いやらお辞儀の仕方とか、向後の身の置き所とかに関して小言を云われ続けていれば、遂に堪忍袋の緒も切れる限界を迎えたと云うところなのかも知れません。
 何時もなら上の空に聞き流す類の土師尾常務言葉も、急に出雲さんの気持ちの堰に引っかかって仕舞ったのでありましょう。まあ、そのように推察出来るのであります。
「で、列車の中で、出雲さんは土師尾常務にきっぱり歯向かったんですかね?」
 頑治さんは出雲さんの顔を遠慮がちに覗き込むような目付きで聞くのでありました。
「この儘会社に居て給料を貰っていても仕方が無い、とか云う言葉を聞いた時には、カチンと来て迂闊にも土師尾常務の顔を睨み付けましたけど、まあ唐目さんも知っての通り、俺はそんなに気が強い方では無いから、すぐに目を外したっスけどね」
 出雲さんは面目無さそうな笑いを頬に浮かべるのでありました。しかし出雲さんは、背はそんなに高くはないけど体格はがっちりしている方で、土師尾常務の貧相な体格と比較すれば、遥かに押し出しは強そうな印象と云えるでありましょうけれど。
(続)
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