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あなたのとりこ 410 [あなたのとりこ 14 創作]

「それは重畳」
 そう云い終るタイミングで店のウェイトレスが近寄って来たので、頑治さんは訊かれる前にコーヒーを注文するのでありました。この、頑治さんとウェイトレスの遣り取りが間に挟まったものだから、頑治さんとの会話のテンポが微妙に乱れたような具合になった夕美さんは、何となく居心地悪そうに頑治さんに黙した儘笑って見せるのでありました。
「旅行カバンが横にあるって事は、ホテルの方も引き払ってきたと云う事だよね」
 頑治さんは仕切り直すような感じでそう質問を発するのでありました。
「そう。まあ今日の分の宿泊費迄は自前でなくても構わないんだけど、だからと云って、仕事はもう片付いたんだから、今日の夜も律義にホテルに泊まる必要なんかないもの。あたしとしてもさっさと頑ちゃんのところに転がり込みたいんだし」
「ああ成程。それはそうだ」
 頑治さんとしては夕美さんのその思惑が嬉しいと云った顔で頷くのでありました。
「じゃあ時間が勿体無いからここで愚図々々していないで、さっさと腰を上げて何処かで手早く夕食をやっつけて、なるべく早い目に俺のアパートに辿り着く事にするか」
 頑治さんは早速腰を上げるような素振りをするのでありました。
「未だ注文したコーヒーが来ていないわよ」
「そんなものはキャンセルすれば良いし」
「でももう出来上がっているんじゃないかしら。だとしたら店に悪いわよ」
「それもそうだけど」
「まあ、コーヒー一杯飲むくらいの時間はここでまったりしても良いんじゃない」
「うん。別に早く帰って観たいテレビがあると云う訳でもなし、それはそうだよな」
 頑治さんは改めて椅子に腰を落ち着けるのでありました。しかしコーヒーが来ると急かされるように、頑治さんは熱いコーヒーを早急に喉の奥に流し込む作業に四苦八苦するのでありましたか。それを見ながら夕美さんは笑っているのでありました。

 その日の夜、既に十時を回った頃電話のベルがけたたましく鳴るのでありました。頑治さんも夕美さんももう風呂から上がって、帰りがけに買ったワインのコルク栓を開けて、寝る迄の時間を久方ぶりに二人差し向かいで寛いでいる時でありました。
 電話の主は袁満さんでありました。
「ああ、遅い時間に申し訳無い」
 袁満さんは先ずそう謝るのでありました。しかし何となくただならぬ気配が受話器から聞こえてくる袁満さんの声に籠っているのでありました。
「何かありましたか?」
 これから袁満さんの口から陰鬱で面倒な事件が語られるのではないかいかと、頑治さんは聞く前からうんざりした気分になるのでありましたが、それを声に表わさないように気を遣いながら、寧ろやや呑気そうな語調で訊ねるのでありました。
「出雲君から今電話があって、会社を辞めると云うんだ」
(続)
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