SSブログ

あなたのとりこ 661 [あなたのとりこ 23 創作]

 土師尾常務はと云えば、昼を過ぎてもなかなか会社に現れないのでありました。
「屹度夕方頃電話して来て、得意先回りがまだ残っているので今日は直接帰る、と云う段取りなんじゃないのかな。と云う事は要するに今日一日会社をサボったと云うことになるけど、また内緒のアルバイトで檀家回りにでも行ってお布施をタンマリ稼いでいるんじゃないのかな。これ迄も朝に電話をしただけで、終日出社しない日は時々にあったしね」
 袁満さんがさも忌々しそうに云うのでありましたが、この袁満さんの推察は見事に当たって、土師尾常務は午後五時丁度頃、直帰するとの電話を寄越すのでありました。電話を取ったのは甲斐計子女史で、女史は極めて事務的な口調で、と云う事は如何にもぶっきら棒に、袁満さんに向かって顔も見ないで報告の声を張り上げるのでありました。
 序に云えば日比課長からも五時半頃に直帰の電話が入るのでありました。こちらは土師尾常務のようにサボりではなく、辞表提出四人組に対して何となく屈託があって、会社に帰って顔を合わせるのが気重だったからでありましょうか。
 終業後、辞表提出記念と云う訳ではないけれど、四人は誰云うともになく、会社を出た後に神保町駅近くに在る居酒屋に立ち寄るのでありました。
「まあ、これで清々したな」
 袁満さんがビールグラスを口元に運びながら云うのでありました。
「全く。あんな陰気で不愉快極まりない会社とこれで綺麗さっぱり縁が切れると思うと、妙にウキウキしてくるくらいだわ」
 那間裕子女史がこの日は珍しく日本酒の熱燗を注文して、それを手酌で自分の猪口に注ぎながら頷くのでありました。女史は自分の猪口に注ぎ終えると今度は、付き合えと云われて従った横に座る頑治さんの方に向かって徳利を差し出すのでありました。頑治さんは両手で猪口を捧げ持って、その酌を恭しく受けるのでありました。
「唐目君はそんなに長く会社に居た訳じゃないけど、でも清々したでしょう?」
「まあ、清々とかウキウキとかはしないけど、かと云って後悔はないですけどね」
「考えたら、変な会社に入ったものだと云う感じよね、唐目君としては」
「そう云う風にも云えますかね」
 頑治さんは返杯の心算で、那間裕子女史の一口で空けた猪口に日本酒をなみなみと注ぎ入れるのでありました。
「袁満君はどうよ? 屹度不安で一杯なんでしょうけどね」
 那間裕子女史は袁満さんの方を上目で見るのでありました。
「いやあ、そうでもありませんよ」
 袁満さんはビールをグイと煽るのでありました。
「何だかその飲み方は、自棄酒と云った雰囲気だけど」
 那間裕子女史はからかうのでありました。
「そんなんじゃありませんよ、別に」
 袁満さんはビールが苦いのか、それともそう云われたのが気に入らないのか、眉間に皺を寄せて上唇に付いた泡を掌底で一拭いするのでありました。
(続)
nice!(12)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。