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あなたのとりこ 654 [あなたのとりこ 22 創作]

「ところでお母さんの具合はどんな感じなんだろう?」
 頑治さんはそんな話しを始めるのでありました。話しの間を持たせようとしてこんな話題をうっかり出したのでありましたが、ちょっと選んだ話題が重かったかしらと秘かに気が引けるのでありました。何ともはや、もたもたした仕業でありますか。
「ここのところ体調は落ち着いているかしら。相変わらず食欲はないみたいだけど」
「ああそう。でも体調が落ち着いていると云う事なら、まあ、一先ず安心かな」
「でも殆ど食事らしい食事を摂らないから、げっそり痩せて仕舞って、何だか見るのが辛くなっちゃう時があるわ。本人も気にしていて偶に無理にでも食べようとするんだけど、すぐに箸を置いちゃうの。そんな時はこっち迄気が滅入ってくるわ」
「病院には定期的に通っているんだろう?」
「退院してから週に一度検査に通っているわ」
「週に一度と云うのはなかなかしんどいかな」
「そうね。捗々しく良くなっている感じがないものだから本人もげんなりしているわ」
「まあ、そうだろうなあ」
 頑治さんは陰鬱そうな声でそう云ってまた頷くのでありました。「でもまたその内に気分が変わって、万事に意欲的になる事もあるさ」
「有難う。そうなら良いけど」
 夕美さんは力ない声で謝意を表するのでありましたが、その後にまた重苦しく沈黙するのでありました。何だか話題がしめやかになった儘電話を切るのは気が引けるから、別の話題を探しているのでありましょう。頑治さんも同じくもう少し明るい話題に移ろうと色々考えるのでありましたが、どう云うものかこういう時に限って他の話題が何も思い付かないのでありました。他の話題なんか様々ありそうなものでありますけど。
「それじゃあこのくらいにして、また近くあたしの休暇がはっきりしたら電話するわ。その時に夏休みの件は打ち合わせしましょう」
 夕美さんはどうやらここでこの電話を仕舞いにする事にしたようであります。
「ま、改めて云うけど俺は夕美の都合にどうにでも合わせられるからね」
「判った。夏に逢えるのが今から楽しみだわ」
「俺もね。また近い内の電話を待っているよ」
「うん。それじゃあバイバイ」
 頑治さんはその夕美さんの声を聞いて静かに受話器を架台に戻すのでありました。夕美さんとの電話を終える時の何時もの寂しさよりも、何故かその寂寥感にこの時は尚一層心がざわざわと立ち騒ぐのでありました。別に取り立てて理由はないのでありましたが。

 明くる日に出社すると扉を開けた頑治さんを、自席に座って妙に緊張した面持ちでじっと見つめる袁満さんの視線に早速出くわすのでありました。袁満さんは無言で頑治さんに小さく頷いて見せるのでありました。これは愈々これから辞表提出の儀式が始まる事を頑治さんと相互確認するための、やや大仰とも云える仕草なのでありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 655 [あなたのとりこ 22 創作]

 頑治さんが自席に座って向かい合う席の甲斐計子女史に朝の挨拶をすると、甲斐計子女史からは何も言葉が返ってこないのでありました。女史の机の前にある書類とか印鑑ケースの棚に邪魔されて、その表情ははっきり窺えないのでありましたが、屹度無愛想な顔でなるべく頑治さんと目を合わさないようにしているのでありましょう。
 すぐにマップケースの横から均目さんが現れるのでありました。
「土師尾常務からは例によって得意先に直行すると云う連絡が入ったよ」
「じゃあ、朝一で揃って辞表を出すのはなしになったんだね」
 頑治さんは座った儘横に立つ均目さんを見上げるのでありました。
「ま、仕方がないな」
 均目さんは舌打ちをするのでありました。
「じゃあ辞表の提出は午後になるのかなあ」
 袁満さんも頑治さんの傍に来るのでありました。「肝心の土師尾常務が居ないんだからどう仕様もないけど、何だか肩透かしを食ったようで調子が狂うなあ」
 そこへ日比課長が出社して来るのでありました。日比課長は袁満さんと均目さん、それに頑治さんが雁首揃えて深刻そうに何やら話している様子に不穏を感じてか、手持ちのバッグを机の上に置くとそそくさと、トイレにでも行くと云う体裁を装ってまたすぐ外に出て行くのでありました。昨日の全体会議の経緯から頑治さん達に対して親近感を棄てたのでありましょうし、少なからずの屈託をも感じているのでありましょう。
「那間さんは未だ来ていないのかな?」
 頑治さんは均目さんに目を向けるのでありました。
「連絡は入っていないけど、例に依って朝寝坊だろう」
 均目さんは苦った笑いを頬に浮かべるのでありました。
「未だ社長は出社していないだろうしなあ。社長がもう居るのなら、皆で社長室に行って社長に直接、辞表を手渡すと云う手もあるんだけど」
 頑治さんはそう云って均目さんから目を離すのでありました。
「土師尾常務を吹っ飛ばして、いきなり社長に手渡すと云う事かい?」
「まあ、土師尾常務が来ないんだから止むを得ず、と云う事だよ」
「成程。土師尾常務を無視すると云う点で、それも痛快かも知れないなあ」
 均目さんは今度はさも面白そうに笑うのでありました。
「しかし社長もいないし那間さんも未だ来ないとなると、その手もダメか」
 頑治さんは腕組みして俯くのでありました。
「全く、土師尾常務も那間さんも、勝手気儘だよなあ」
 袁満さんは憤るのでありましたが、しかしそれは袁満さんと均目さんと頑治さんの儘ならなさであって、仕事サボりと朝寝坊と云う横着者連中の肩を持つのではないけれど、単に間が悪い、と云うところであろうと頑治さんは思うのでありました。
「まあ、那間さんが未だ来ないんだから、土師尾常務も未だいないと云うのも、考えように依っては好都合だとも捉えられない事もないか」
(続)
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あなたのとりこ 656 [あなたのとりこ 22 創作]

 袁満さんは妙な非生産的理屈を考え出すのでありました。「じゃあまあ、那間さんが現れたら辞表を出すタイミングを相談しよう」
 その袁満さんの言葉を潮に、均目さんはマップケース向うの制作部スペースに退散するのでありました。袁満さんも自席に帰り、頑治さんも伝票入れを覗いて、そこに発送伝票が何も無い事を確認してから一階の倉庫に下りて行くのでありました。
 駐車場の前に日比課長が如何にも手持無沙汰そうに、両手をズボンのポケットに入れて煙草を口に銜えて立っているのでありました。
「もう相談は終わったのかな?」
 頑治さんを見付けて日比課長はそう声を掛けるのでありました。
「相談と云う程の事はないですが、もう話しは終わりましたよ」
「じゃあ、上に行っても邪魔にはならないかな」 
「別に居て貰っていたとしても邪魔にはしませんでしたよ」
 頑治さんがそう応えると日比課長はどう云う心算かニヤリと笑って、銜えていた煙草を道に捨てて靴で吸殻を踏みつけてから三階の事務所に戻っていくのでありました。つまり先程は、三人の話し合いが自分とは無関係で、寧ろ自分が居ない方が何かと好都合なのであろうと気を利かせたのか、或いは気まずかったからは別として、事務所を出て行ったのでありましょう。で、所在なく駐車場の辺りで暇を潰していたのでありましょう。
 頑治さんは日比課長の思惑をそう判断してから、ふと駐車場内に停車している車に目を遣るのでありました。そこには社長の白いクラウンが停まっているのでありました。と云う事は、先ず間違いなく社長はその日はもう会社に来ていると云う事であります。頑治さんは急いで三階の事務所に引き返すため階段を駆け上がるのでありました。
「社長はもう出社しているみたいですよ」
 頑治さんは袁満さんに急くような口調で告げるのでありました。
「そうなの?」
 袁満さんは少しの驚きを見せるのでありました。「こんなに早く来るのは珍しいな」
 この頑治さんと袁満さんの遣り取りを漏れ聞いて、均目さんがまたマップケースの陰から押っ取り刀で姿を見せるのでありました。
「何だ、社長はもう来ているんだ」
「車が駐車場にあるからね」
 頑治さんが頷きながら云うのでありました。
「でも那間さんの方がまだ来ていない」
 袁満さんが顔を顰めるのでありました。
「全く、肝心な時に困ったものだな、那間さんも」
 この会話に日比課長が、無関心を装いながらも聞き耳を立てているのでありました。
 そうこうしている時にグッドタイミングなのか全くそうではないのか、那間裕子女史が扉を開けてこそこそと事務所に入って来るのでありました。
「あら、そんなところで三人揃って何をしているの?」
(続)
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あなたのとりこ 657 [あなたのとりこ 22 創作]

 那間裕子女史は怪訝そうに頑治さんと袁満さん、それに均目さんを順番に見るのでありました。「ひょっとして、どうやってこれから辞表を出すかの打ち合わせかしら?」
 この女史の言を片耳で聞いて、日比課長が顔を上げるのでありました。
「例に依って土師尾常務が未だ来ていないから、出すにも出せないよ」
 均目さんがもの憂そうに応えるのでありました。「それに那間さんも遅刻だし」
「ああそうか。それはそれは、あたしとした事が慎に申し訳ない」
 那間裕子女史はあっけらかんと笑うのでありました。均目さんは女史に横目を呉れて小さく舌打ちするのでありました。その舌打ちが気に入らなかったのか、女史は均目さんを険のある目で見返すのでありましたが、特に何も云い返さないのでありました。
「揃って会社を辞める事にしたの?」
 日比課長が椅子に座った儘目を見開いて遠慮がちに訊くのでありました。件の四人は一斉に顔を日比課長の方に向けるのでありました。
「そうだよ。でも別に日比さんに同調してくれとは云わないよ」
 袁満さんが皮肉を込めたような云い草をするのでありました。日比課長はそれに対して引き攣ったように笑うのでありましたが、その後は無言で、決まり悪そうに体ごと机に向かい直して下を向いて、手にしている手帳にまた目を落とすのでありました。
「さあ、ここで四人揃った訳だから、社長に辞表を渡す事にしますか?」
 頑治さんが日比課長を見下ろしている袁満さんに訊くのでありました。
「まあ、土師尾常務を吹っ飛ばして社長に直接、と云うのは組織内の順序としては問題があるかも知れないけど、でも当の土師尾常務が来ていないのだから、仕方がないか」
「土師尾常務を敢えて無視すると云うところで、ある種のメッセージにはなるし」
 均目さんが謀を目論むような目をするのでありました。
「土師尾さんが例によって来ていないから、社長に辞表を手渡すのね」
 自分以外の三人の話を聞きながらそうと覚って、那間裕子女史が一応確認するのでありました。それに三人は夫々頷きを返すのでありました。
「勿論、那間さんも辞表は書いてきたんですよね?」
 袁満さんが質すのでありました。
「書いてきたわよ、当然」
 態々そんな確認なんぞは不要だ、と云うように那間裕子女史は不快気に顔を顰めるのでありました。その表情から袁満さんはおどおどと目を逸らすのでありました。
「じゃあ、俺の辞表を取って来るよ」
 そう云って均目さんが一端マップケースの向こうの制作部スペースの方に引っ込んで、右手に白い封筒を持ってすぐまた戻って来るのでありました。こうして四人は互いに自然に頷き合ってから二階の社長室に揃って向かうのでありました。

 社長室のドアを袁満さんがノックすると、すぐに社長の声で返事が返って来るのでありました。袁満さんはやや躊躇いながらドアノブを回すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 658 [あなたのとりこ 22 創作]

 社長は頑治さん達四人の姿を認めると少し驚いたような顔をするのでありました。
「何かね、朝っぱらから?」
「いきなりこう云うものを社長に手渡すのは僭越だとは思いますが、なにせ土師尾常務が何時もの事ながら、未だ出社されていないものですから」
 袁満さんはこの科白の中の、何時もの事ながら、と云うところを敢えて強調して云いながら、四人分の辞表を纏めて社長の机の上にそろりと置くのでありました。
「何かね、これは?」
 社長は四通の白封筒を手に取り上げながらその表書きに見入るのでありました。
「我々四人は会社を辞めさせていただく事に決めました」
 袁満さんはゆっくりと社長に向かって深めにお辞儀するのでありました。頑治さんと均目さん、それに那間裕子女史もやや遅れてそれに倣うのでありました。社長は四人を交互に見渡しながら、暫し言葉を発しないのでありました。それからふと気が付いたように手で四人を傍らの応接ソファーの方に誘うのでありました。
「まあ、ちょっと座って話しをしよう」
 促される儘、右から頑治さん、那間裕子女史、それから袁満さんに均目さんの順でなかなか豪勢な応接ソファーの、四人掛けの長椅子の方に窮屈に並んで腰を下すのでありました。向いあって社長は、三脚並べてあるソファーの真ん中の一人掛けに座るのでありました。前もそうでありましたが、会社の応接スペースに置いてあるチンケなソファーよりは深く腰が沈んで、このソファーの方が返って座りづらいと頑治さんは感じるのでありました。まあ正確に云うなら、座りづらいと云うよりは立つ時に立ちづらそうであります。
「全体会議をした昨日の今日だと云うのに、どう云う事かね?」
 社長は袁満さんに少し首を傾げて見せるのでありました。
「昨日の今日だから、こうして辞表を提出するのですよ」
 袁満さんはやや不機嫌な口調で云うのでありました。
「昨日の全体会議で、愈々会社に愛想が尽きたと云う事かね?」
「社長も良くそう云う事が聞けますね」
 均目さんが皮肉な笑いを片頬に浮かべるのでありました。「我々を辞めさせようと云う魂胆で、全体会議をあんな風に持って行ったくせに」
「まさか。そんな心算は更々ないよ。そう云う云われ方は心外だね」
 社長は不満そうな表情を浮かべて恍けるのでありました。
「まあ良いですよ」
 均目さんは片頬の皮肉な笑いを増幅させるのでありました。「社長や土師尾常務の思う壺に嵌ったと云う事で、それはそれで今更別に何も云う事はありませんから」
 均目さんの云い草を聞いて、社長は如何にも狐に摘まれたような顔等して見せるのでありました。なかなかの犬、いや、ネコ被り振りであります。
「土師尾君は未だ出社していないのかね?」
 社長は話題を変えるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 659 [あなたのとりこ 22 創作]

「例に依って得意先に直行だそうです」
 袁満さんは先程の均目さん同様皮肉な笑いを片頬に浮かべて見せるのでありました。
「前の団交の時も会議の時にもそう云う話しは聞いたような気がするが、土師尾君は屡、得意先に直行する場合があるのかね?」
「屡、と云うのか、ほぼ毎日、と云うのか」
 袁満さんはそこで眉根を寄せるのでありました。
「そんなに朝から仕事熱心なのかね、土師尾君は?」
「さあ、どうでしょうかね」
 袁満さんは聞えよがしに鼻を鳴らすのでありました。社長としても素で先の質問をしたのではなく、多少の疑いの気持ちを込めてそう訊き質したのでありましょう。
「そんなに熱心に仕事している割に、お得意さんから発注の電話がちっともありませんけどね。まあ、熱心に仕事をしている振り、と云った方が良いかしらね」
 これは那間裕子女史が矢張り片頬に笑みを浮かべて云う科白でありました。
「つまり偽装だと那間君は疑っている訳だね?」
「さあ、それは社長が直接土師尾さんにお聞きになれば良いでしょう」
 那間裕子女史はそっぽを向きながらつれなく云うのでありました。
「率直に言って貰いたいんだが、土師尾君は制作の知識も均目君や那間君ではてんで頼りないから、自分が何もかも指示しているし、紙の発注や印刷の細かい指示や製本の事にしても、それに商品作りのセンスにしても、何から何まで自分が助けてやらなければならないと常々私に零しているが、実際のところはどうなのかね?」
「ほう、とことん見縊られたものですね、自分も那間さんも」
 均目さんは頬に余裕の笑いは浮かべているものの、その頬がやや引き攣っているのでありました。那間裕子女史も少し大きめの舌打ちの音を立てるのでありました。
「じゃあ試しに、上質紙とか色上質紙とか、コート紙とかマットコート紙とか紙の種類の事や発注の仕方の形式、それに、一連、と云う言葉の意味とか、キロ単価の事なんかを土師尾さんに訊いてみれば良いんじゃないですか? 屹度簡単に云える筈ですよ」
 那間裕子女史は社長の目を見据えるのでありました。
「幾ら何でもそのくらいの知識は持っているだろう。何せ土師尾君は、始めは地図や地名総覧の編集要員として入社してきたんだから」
「まあ、すらすら云うか、あたふたするか、それとも別の話しをしながらはぐらかしたり誤魔化そうとしたりするか、ちょっと見ものですがね」
 均目さんがその偽物振りはとっくに見抜いている、と云うような云い草をするのでありました。「社長の専門の紙の事もそうですが、色の掛け合わせの事とか、それに中学校で習う程度の基本的な地図の知識とか、或いは製本の事とか、大凡編集や製作に関わる事を、あやふやな云い草を許さないでどうぞ土師尾常務にじっくり訊いてみてください。それであの人がとんでもないインチキ野郎だと云う事が、社長にも判るでしょうから」
 均目さんは云った後一つ頷くのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 660 [あなたのとりこ 22 創作]

「そこ迄インチキ臭いヤツに会社を任せておく社長も社長ですよ」
 袁満さんが話しを引き取るのでありました。「どうせ社長は紙商事の方は兎も角、贈答社の方は大して思い入れもないでしょうから、仕方がないですけどね」
 そう云われて社長はムッとした顔をするのでありましたが、まあここは敢えて聞き流しておこうと云う風に、袁満さんから目を逸らせて口をモグモグさせながら、抗弁を堪えている様子をそれとなく伝えようとするのでありました。
「じゃあ、序に聞いておきたいんだけど、他には土師尾君に対して何か不満に思っている事とか、まあ、私に知らせておきたいような事はないのかな?」
「今更あれこれそれを云っても、会社を辞めるんだから云い甲斐もないですけどね」
 袁満さんはソファーの背凭れに背を引くのでありました。
「まあそう云わずに、今後の参考に聞かせてくれないか」
「辞めていく自分達が土師尾常務の事を色々告げ口する行為は、潔くないですからね」
 袁満さんは背凭れに背を避難させた儘で云うのでありました。
「そんな風には思わないから、是非聞かせてほしいな」
「ああそうですか」
 袁満さんは無関心そうにつれなく遣り過ごそうとするのでありました。
「どうしてまた、社長は土師尾さんの事をそんなに知りたいのですか?」
 那間裕子女史が社長の土師尾常務の出鱈目振りを聞き出したい魂胆に、ちょいとばかり興味を示すのでありました。恐らく社長も土師尾常務に全幅の信頼を置いている訳ではなくて、何となく判ってはいた事ながらどこか胡散臭く感じているのでありましょう。この社長と土師尾常務の間の隙間風に、那間裕子女史も興味をそそられたのでありますか。
 それにひょっとしたら社長は土師尾常務の弱みを握る事で、彼の人に向後遣りたい放題をさせないで、その給与や待遇にも渋ちんに対応しようと云う目論見があるのかも知れません。まあ、土師尾常務に対する様々な牽制の材料としても、ここは一つ、彼の人のこれ迄の遣りたい放題振りを是非にも聞いておきたいところでありましょうか。
 何だかんだで、四人は一時間以上社長室に引き留められていたのでありました。その間四人も土師尾常務の社員に対する酷い遣り口やら、自分だけが得をするような無軌道な労務管理振りやら、その人徳のなさとか、前に会社にいた片久那制作部長に対する卑屈なまでの頭の上らなさとかを、この際だからと縷々社長に告げ口するのでありました。
 でありますから、四人は辞表を提出したと云う重苦しい陰鬱な心持ちと云うよりは、多少晴れ々々とした気持ちで社長室を後にするのでありました。鬱積していた愚痴をようやくここで吐き出すことが出来たと云うところでありますか。

 三階の事務所に戻ると、甲斐計子女史だけが居るのでありました。土師尾常務は未だ出社してこないし、日比課長は早々に営業回りに出たようであります。甲斐計子女史は四人が戻って来るのをチラと見て、別に話しかけるでもなく、全く無愛想な顔でまた下を向いて、自分の仕事に没頭している風を装うのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 661 [あなたのとりこ 23 創作]

 土師尾常務はと云えば、昼を過ぎてもなかなか会社に現れないのでありました。
「屹度夕方頃電話して来て、得意先回りがまだ残っているので今日は直接帰る、と云う段取りなんじゃないのかな。と云う事は要するに今日一日会社をサボったと云うことになるけど、また内緒のアルバイトで檀家回りにでも行ってお布施をタンマリ稼いでいるんじゃないのかな。これ迄も朝に電話をしただけで、終日出社しない日は時々にあったしね」
 袁満さんがさも忌々しそうに云うのでありましたが、この袁満さんの推察は見事に当たって、土師尾常務は午後五時丁度頃、直帰するとの電話を寄越すのでありました。電話を取ったのは甲斐計子女史で、女史は極めて事務的な口調で、と云う事は如何にもぶっきら棒に、袁満さんに向かって顔も見ないで報告の声を張り上げるのでありました。
 序に云えば日比課長からも五時半頃に直帰の電話が入るのでありました。こちらは土師尾常務のようにサボりではなく、辞表提出四人組に対して何となく屈託があって、会社に帰って顔を合わせるのが気重だったからでありましょうか。
 終業後、辞表提出記念と云う訳ではないけれど、四人は誰云うともになく、会社を出た後に神保町駅近くに在る居酒屋に立ち寄るのでありました。
「まあ、これで清々したな」
 袁満さんがビールグラスを口元に運びながら云うのでありました。
「全く。あんな陰気で不愉快極まりない会社とこれで綺麗さっぱり縁が切れると思うと、妙にウキウキしてくるくらいだわ」
 那間裕子女史がこの日は珍しく日本酒の熱燗を注文して、それを手酌で自分の猪口に注ぎながら頷くのでありました。女史は自分の猪口に注ぎ終えると今度は、付き合えと云われて従った横に座る頑治さんの方に向かって徳利を差し出すのでありました。頑治さんは両手で猪口を捧げ持って、その酌を恭しく受けるのでありました。
「唐目君はそんなに長く会社に居た訳じゃないけど、でも清々したでしょう?」
「まあ、清々とかウキウキとかはしないけど、かと云って後悔はないですけどね」
「考えたら、変な会社に入ったものだと云う感じよね、唐目君としては」
「そう云う風にも云えますかね」
 頑治さんは返杯の心算で、那間裕子女史の一口で空けた猪口に日本酒をなみなみと注ぎ入れるのでありました。
「袁満君はどうよ? 屹度不安で一杯なんでしょうけどね」
 那間裕子女史は袁満さんの方を上目で見るのでありました。
「いやあ、そうでもありませんよ」
 袁満さんはビールをグイと煽るのでありました。
「何だかその飲み方は、自棄酒と云った雰囲気だけど」
 那間裕子女史はからかうのでありました。
「そんなんじゃありませんよ、別に」
 袁満さんはビールが苦いのか、それともそう云われたのが気に入らないのか、眉間に皺を寄せて上唇に付いた泡を掌底で一拭いするのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 662 [あなたのとりこ 23 創作]

「でもその顰め面と合わせて、如何にも自棄酒と云った雰囲気だけど」
「いやもう、会社にいても何の将来像も描けないと云う事がはっきりしましたよ、あの全体会議で。社長も土師尾常務もてんで頼りにならないし、それに経営者としての気概も能力もないという事が判明しましたからね。そんな会社にこの先残ってあくせく働いていても甲斐がありませんし、ここでパッと考えを切り替えないとどうにもなりません」
「現状変更に臆病な袁満君がそう決心したと云うのは、大した進歩じゃない」
 那間裕子女史が猪口をテーブルに置いて、拍手しながらからかうのでありました。
「あそこ迄無茶苦茶な二人が、会社をこの先率いて行こうとしている訳だから、それは袁満さんに限らず誰だって嫌気が差すに決まっているよ」
 均目さんが自分のビールグラスを傾けるのでありました。
「何だか臆病で頓馬な俺ですら嫌気が差すんだから、他の普通の人は全く当然の事として嫌気が差すに決まっている、と云う風に云われているみたいだなあ」
 袁満さんが苦笑するのでありました。
「いやそんな意味で云ったんじゃないですよ」
 均目さんが慌てて云い繕うのでありましたが、まあ多少はそう云う人の悪い謂いも、均目さんは頭の片隅に浮かび持っていたのかなと頑治さんは疑うのでありました。
「それにしても散々土師尾常務の悪辣さと陰険さと、好い加減さと無能さを社長に捲し立てて、本人のいないところで悪口を思いの丈吐いてきたようで、何だかちょっと後味が悪いところもあるけど、幾らあんな酷い社長でも俺達の事を逆に軽蔑したかな」
 袁満さんが午前中の社長室での事を振り返るのでありました。
「いやあ、社長は寧ろ真顔で土師尾常務評に聞き入っていましたよ」
 頑治さんが徳利を取って自分の猪口に熱燗の酒を注ぐのでありました。
「そうね。嫌な顔はしていなかったかしらね。初めて聞く土師尾常務の悪評に、返ってあたし達に同調するような表情をして聞いていたかしらね」
 那間裕子女史が猪口を煽るのでありました。
「まあ、同調はしないでしょうし、熱心に耳を傾けていても、だからと云ってあの社長が俺達に何かしてくれる筈はないでしょうしからね」
 頑治さんは那間裕子女史の空いた猪口に空かさず酒を注ぎ入れるのでありました。
「それはそうだけどね」
 那間裕子女史は溜息を吐いてから猪口を口元に運ぶのでありました。
「要するに今後土師尾常務に遣りたい放題を遣らせないために、その首根っこを押さえる材料を色々仕入れようと大いに熱心に聞いていた、と云う事だろうな」
 均目さんが手酌でビールを自分のグラスに注ぐのでありました。「俺達に対して共闘している筈の社長と土師尾常務の間にも、猜疑と嫌悪の風が渦巻いているからなあ」
「なんだかおぞましいわね」
 那間裕子女史がまた一気に猪口の酒を飲み干すのでありました。「だから袁満君、安心して良いわよ。会社に辞表を出したのは丸っきり正解よ」
(続)
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