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あなたのとりこ 646 [あなたのとりこ 22 創作]

 袁満さんは那間裕子女史を見ずに目線を下に落とした儘云うのでありました。「勿論上司としては史上最低だと思っているし、小狡い事ばかりして会社から金をくすねているくせに、そんな自分はさて置いて何故か俺達社員を無能呼ばわりして見下している、そんな土師尾常務が俺は大嫌いだし、入社以来嫌悪の感情しか持っていないですからね」
「それは判るけどね」
 那間裕子女史はここで頑治さんをさて置いて自分が先に不躾な相槌を入れて、また不愉快に思われないかと気遣うような目を頑治さんに向けてから、どこかおどおどした様子で云うのでありました。この殊勝らしき態度は一体どういう了見からでありましょうか。
「でも考えてみたら」
 袁満さんは目線を落とした儘で続けるのでありました。「こう云う好き嫌いの感情が労働者の権利を守るとか、不当な扱いに対する抗議とかの如何にも正義らしい闘争を支える背骨として、ちゃんと成立するのかどうなのか、ひょっとしたら脆弱だし不純でもあるんじゃないのかとか、そう云う風にも考えられるんで、俺としては実は闘争に邁進するだけの確信が、この期に於いても未だ今一つ持てないと云うのが正直なところだし、・・・」
 そう云った後、袁満さんは溜息を以って語の締め括りとするのでありました。
「そう云う事なら、労働争議と云う選択肢はこの際諦めた方が良いですかね」
 しばらくの沈黙の後で頑治さんが無抑揚な云い草で云うのでありました。「土師尾常務に対する私怨を晴らすためにと、つまり袁満さんは考えているんですね?」
「まあ、社会的な正義か不正義かと云うよりは、土師尾常務が好きか嫌いかと云う感情の方が先走っていると云うのが、俺の正直な気持ちかな。これではこの先の一定期間、収入の面でも生業と云う面でも、不安定な立場になる事を覚悟して、意欲的に闘争に打ち込む動機としてはかなり脆弱な気がするし、そう云う気持ちである以上、早晩屹度挫折するような気がする。それよりは綺麗さっぱり会社との縁を切る方が良いかも知れない」
 なかなか正直な袁満さんの理屈であります。
「まあ確かに、この先の一定期間を犠牲にして迄、取り組むような事なんかじゃないかも知れないわね、ウチの会社の労働争議なんて」
 那間裕子女史が袁満さんに同調するのでありました。
「この先長く社長や土師尾常務と関わり合っていくと云うのも、まあ確かに、下らないと云えば下らない事かな、実際のところ」
 均目さんも袁満さんに頷きを返すのでありました。「と云う事は、闘争をあくまで積極的に支持するのは、唐目君だけと云う事になる」
「別に積極的に支持している訳じゃないよ」
 頑治さんは少し憮然とした口調で云うのでありました。「第一、一番新参者で入社して未だ間もない俺が、一人で会社と労働闘争すると云うのも、何か妙な按配だし」
「それは確かにそうだわね」
 那間裕子女史が肯うのでありました。「まあ、別に入社して間もない新人が、労働闘争してはいけないと云う道理はないとしても」
(続)
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あなたのとりこ 647 [あなたのとりこ 22 創作]

「無責任な事を云わないでください」
 頑治さんは那間裕子女史を睨むのでありました。ほんの軽口の心算でものしただけ、と云う那間裕子女史の思いと、この頑治さんの睨みの強さの不釣合いにまごまごしてか、那間裕子女史はまるで土師尾常務のように眼球を微揺動させるのでありました。
「ええと、袁満さんは敢えて労働争議に持って行く気は、実はないのですね?」
 均目さんが話しを整理するような口調で云うのでありました。
「争議を長く続けていく自信がない、と云うところかな」
「唐目君は自分だけで争議をしていく気はないんだよね?」
「繰り返すけど、入社間もない、この中の誰より新参者の俺が、一人でそんなに尖がる謂れはないよ。そんなに身の程知らずの独善家ではない心算だし」
「と云う事は、誰も労働争議を引き受ける人間はこの中にはいないと云うことになる」
 均目さんは袁満さんと頑治さんを交互に見るのでありました。
「何か、これで結論が出たみたいね」
 那間裕子女史がカップに残ったコーヒーをグイと飲み干すのでありました。
「どうにかして土師尾常務に、一泡吹かせてやりたい気持ちはあるんですけどね」
 これは云ってみれば袁満さんの、敗色濃厚者の無念の科白みたいなものでありますか。これを聞いて頑治さんは、これで一先ず労働争議と云う目はなくなったと思うのでありました。そうしてまた、秘かにホッとしている自分がそこに居るのでありました。

 那間裕子女史がお代わりのコーヒーを注文したいのか辺りを見回すのでありましたが、生憎近くにウェイターの姿はないのでありました。那間裕子女史は小さな舌打ちをしてコーヒーのお代わりを諦めて、それから袁満さんの顔を見るのでありました。
「それじゃあ明日にでも、皆で一緒に辞表を出す?」
「その方が手っ取り速い」
 袁満さんではなく均目さんが第一番に賛意を示すのでありました。
「皆がそう云う心算なら、俺も明日辞表を出すかな」
 袁満さんも会社を辞める事に、もう迷いはないようでありました。先程の全体会議の様子から、会社を見限る決心がここでどうやらついたようであります。
「唐目君はどうする?」
 均目さんが頑治さんを上目で窺うのでありました。
「皆がそう云う意志なら、勿論俺も同調するよ」
 頑治さんも無表情で頷くのでありました。
「あたしは一緒に会社を辞めると云った覚えはないわよ」
 甲斐計子女史が不愉快そうな声で異を唱えるのでありました。
「ああ、甲斐さんは会社に残るんだよね。それは構わないよ。こう云うのは組合とは無関係で、全く以って個人の意志だから。俺達に一緒に辞めろと云う権利もないし」
 均目さんが取り成すように云うのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 648 [あなたのとりこ 22 創作]

「あたしは会社に残るかどうか、ここでは未だ決められないと云っているの」
 甲斐計子女史は眉間に皺を寄せて懊悩の表情をして見せるのでありました。
「何れにしても俺達に同調する必要はないよ。じっくり考えてから決めれば良いし」
 袁満さんも甲斐計子女史のご機嫌を損なわないように、大いに気を遣いながら云うのでありました。まあ、本当に同調を強要する気もないのでありましょうし。
 しかし皆と行動を一緒にしない場合、後に会社を辞めると決めたとしても、甲斐計子女史は屹度、辞意を表するタイミングを失って仕舞うのではないかと頑治さんは思うのでありました。そうなるとズルズルと社長や土師尾常務の云いなりに、酷い待遇に甘んじて会社に残る羽目になるでありましょう。或いは社長や土師尾常務の方の任意で、結局会社を辞めさせられるかも知れません。これは日比課長にも云える事でありますか。
 それにしても、何事にも悲観が先に立って決心に手間取る袁満さんが、ここに到って会社を辞める決断をしたと云うのは、社長や土師尾常務の横暴にほとほと呆れ果てて、竟にこの二人に決定的な愛想尽かしをしたのでありましょう。勿論拗れた労働争議の当事者として、長々と会社と向き合わなければならない面倒を回避しようとしたのもあるでありましょうが、何れにしてもここで綺麗さっぱり縁切りする方が妥当だと思い定めたのでありますか。向後を考えれば、それはそれで貴重な決断であると云えるでありましょう。
「じゃあ明日、揃って土師尾常務に辞表を提出するか」
 袁満さんが再度確認するように均目さんと那間裕子女史、それに頑治さんをグルっと見渡すのでありましたが、甲斐計子女史には視線を向けないのでありました。
「俺は異存ないですよ」
 均目さんが頷くのでありました。
「あたしも右に同じね」
 均目さんの左隣に座っていながら那間裕子女史がそう云うのでありました。「唐目君もあたし達と行動を共にするのよね?」
「ええ、そうします」
 頑治さんは頭を少し前に傾けて同意を示すのでありました。
「じゃあ、・・・あたしがここに居るのは無意味なようだから、先に帰るわ」
 何となく一人取り残されたような按配の甲斐計子女史が、居心地悪そうに小さな身じろぎしながら遠慮がちに云うのでありました。
「ああ、いや、こうと決まったら俺達も、もう帰りますよ」
 均目さんが立ち上がった甲斐計子女史を見上げるのでありました。その均目さんの言を聞いて那間裕子女史が、急いで自分のカップにほとんど残っていないコーヒーをすっかり飲み干す真似をするのでありました。袁満さんも財布を内ポケットから取り出して自分のコーヒー代をテーブルの上に置いて、手提げカバンを脇に抱え込むのでありました。
「じゃあ、明日辞表を書いてきて、午前中に土師尾常務に四人揃って出す事にしよう」
 袁満さんが再々度の念のための確認か、そう云いながら残る三人をゆっくり見回すのでありました。三人もまた夫々小さく頷いてそれに応えるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 649 [あなたのとりこ 22 創作]

 揃って喫茶店を出て御茶ノ水駅に向かって歩いている時、袁満さんの顔を窺うとどこか気も漫ろな表情をしているのでありました。勢いで、或いは引き波に浚われるような感じで均目さんと那間裕子女史の辞意に引き摺られた事に、未だどこか釈然としない思いを持っているのでありましょう。それにそう云った経緯で会社を辞めると、或る意味うっかり表明して仕舞った事に大いに不安でもあるのでありましょう。この先、ここで会社を辞める事が吉と出るか凶と出るか、袁満さんの心は大いに取り乱れているようであります。
 迂闊なおっちょこちょいの決断が将来を棒に振るかも知れないし、しかしここで決断を鈍らせると、返ってそちの方が将来の好機を逸する契機になるのかも知れません。どちらを取るかと云う賭けは、袁満さんにとっては大困惑と云うところでありましょう。
 袁満さんは悲観が先に立って、何につけ決心に手間取るタイプの人であるとは前に云った事でありますが、じっくり考えて納得した上での決心ではなく、どこか流れの勢いに乗って為した決断である以上、袁満さんには今一つしっくりこないのでありましょう。まあしかし自分でも、じっくり考えてもそうそう納得出来る決心が獲得出来ない性質であるのは、袁満さん自身も自分でちゃんと判っている事でありましょうが。・・・
 頑治さんは四人と駅の改札口で別れて、一人お茶の水橋を渡って本郷一丁目の自分のアパートに向かって、暗くなった道を歩いて帰るのでありました。道中、何となく敢えて流れに逆らう事なく均目さん、那間裕子女史、それに袁満さんの辞意に賛同したような具合でありましたが、袁満さん同様、頑治さんとしてもどこか釈然としないものを感じているのでありました。まあ、将来の不安なんと云うものはあんまりないのでありましたが。
 将来の不安なんぞより、色々込み入った、或る意味で面白い体験をするチャンスを逸したような気がしているのでありました。労働争議に巻き込まれるなんと云う体験は、袁満さんがそうであるように出来れば忌避したい体験ではあるだろうけれど、しかい余人にはなかなか体験できない稀なものでもあるかも知れないではありませんか。
 そこで繰り広げられるであろう様々な事件や人間劇と云うものには、まあ、興味がないと云えば嘘になりますか。退屈凌ぎ、と迄は云わないとしても、ちょっと当事者になってみたい心持ちではあります。まあしかしこう云う類の秘かな興味なんと云うものは、世間的には全く以って無責任且つ不謹慎の誹りを免れないでありましょうが。

 その日の夜遅く、久しぶりに夕美さんから電話がかかって来るのでありました。受話器を取り上げる時に、おそらく明日起こすべき行動が甚く不安で、行動を共にする誰かの声を聴きたいと思った袁満さん辺りからの電話だろうと推察したのでありましたが、意外や意外夕美さんの声が流れて来た時には、頑治さんは慌てて仕舞って受話器を取り落とすところでありました。その頑治さんの慌てぶりが夕美さんにも伝わったようで、夕美さんは低い語調に改めて、何かあったのかと不安そうな声で尋ねるのでありました。
「いや、久しぶりの夕美の声に驚いたんだよ」
 頑治さんはそう云い繕うのでありました。
「ふうん。あたしが電話してきたと云うのはそんなに驚くべき事かしら?」
(続)
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あなたのとりこ 650 [あなたのとりこ 22 創作]

「いやね、直前にふと閃いた人からじゃなかったから、ちょっと驚いたんだよ」
「その、閃いた人、って誰?」
「会社の袁満さんだよ」
「ああ、労働組合の委員長をしている人ね」
 受話器の向こうから夕美さんの頷く気配が伝わってくるのでありました。「その袁満さんに、何か大変な事件でも起こったの?」
「いやまあ、実は袁満さんだけじゃなくて、社員全員に、と云った方が良いけど」
「何、何、どうしたの?」
 夕美さんは頑治さんの思わせぶりな云い方に焦れたように先を促すのでありました。
「実は社員全員、と云うのか六人中四人が、明日会社に辞表を出す事になったんだよ」
「六人中四人が会社を辞めるのね?」
「そう云う事になる」
 今度は頑治さんが受話器の向こうの夕美さんに頷く気配を伝える番でありました。
「その四人の中に頑ちゃんは入っているの?」
「行きがかり上、入っているんだよ」
「つまり頑ちゃんも明日会社に辞表を提出するのね?」
「うん、そう。提出する」
 最初頑治さんは無意識で無言で頷いたのでありましたが、それでは伝わらないので慌てて後でそう云い足すのでありました。その言葉の後にちょっとした言葉の途切れる時間が流れるのでありましたが、それは夕美さんが、多少か或いは多大かその程度は良くは判らないものの、頑治さんが会社を辞めると云う言に衝撃を受けたためでありましょう。
「ふうん、頑ちゃんも辞めるんだ、会社を。・・・」
「うん。行きがかり上。・・・」
「行きがかり上?」
 今度は夕美さんがまた首を傾げる気配が感じられるのでありました。
「ちょっとあれこれ面倒な経緯があって、俺も行動を共にする事になったんだよ」
「頑ちゃんは、本当は会社を辞めたくはなかった訳?」
「まあ、あっさりと辞めたいと云う事じゃなかったけど、でも、かと云って何が何でも残りたい、と云う気持でもなかったかな」
「何かどことなく曖昧な感じね」
「曖昧と云うのか、優柔不断と云うのか、ね」
 頑治さんは多少自嘲的な云い草をするのでありました。
「その辺が、行きがかり上、と云うところな訳ね?」
「そう云う事になるかな。それともう一つ、下手をするとげんなりするくらい大袈裟な労働争議に発展する可能性があったし、それは何とも叶わないから、と云う事もある」
「大袈裟な労働争議?」
「裁判沙汰もあるかも知れない労働争議、だよ」
(続)
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あなたのとりこ 651 [あなたのとりこ 22 創作]

「それは大変ね」
 夕美さんは溜息を吐いて見せるのでありました。「ところで抑々、何で労働争議だとか裁判沙汰だとか、そう云う大変な事になって仕舞ったの?」
「前に話した労働組合結成と春闘と、それに依る大幅な賃上げ獲得と、年齢別同一賃金と云う観点での不平等是正とかそんな、云って見れば労働組合の獲得した成果を、世の中の不景気とか売り上げ不振なんかから、数か月もしない内に再度見直したいと云う、提案と云うよりは一方的な通達みたいなものが経営側からあって、おまけに姑息な人員整理の謀なんかもあって、それはないだろうと組合が反発したのが発端かな」
 頑治さんは何とか簡潔にこれまでの事を要約しようと、ゆっくり考えを回らしながら言葉を継ぐのでありました。「まあ思えば、前にも話した役員の片久那制作部長と云う、なかなか男気のある、もの事の筋道を頑固にちゃんと通そうとする人が会社を辞めたのが、向こうが平気で無茶苦茶な要求を俺達に突きつけてくるようになった切っ掛けかな」
「頑ちゃん達と会社側の対立は、話し合う余地が全くないものだったの?」
「いや、話し合ったんだよ会社の全体会議と云う形式で。でも全くの平行線と云うのか、向こうは何が何でも考えを押し付けようとするし、こちらはこちらで端から聞く耳を持たないと云う態度だから、纏まる筈もないしね。で、行きがかりから組合の上部団体も巻き込んだ労働争議だと、組合として最初は大袈裟に息まいていたんだけど、そう云うのもしんどいし、正直な話し解決を見る迄闘争を継続する気力も覚悟もこちらにはないし」
 そこ迄云って今度は頑治さんが溜息を吐くのでありました。
「それで、それなら辞めて遣る、と云う事になったの?」
「まあ、そう云う感じかな」
「何だか、結局頑ちゃん達が経営側の強情に屈したような按配ね」
「まあ形から云えばそうとも云えるかな。こちらにこちらの正義を貫くべく、肚を括って対抗しようとする胆力がなかった訳だな」
 確かに自分達のひ弱さがこう云う、遁走、と云う結論を選んだのだろうと頑治さんは思うのでありました。要はこの件に於いては敗北したと云う事であります。しかしさっさと遁走して仕舞う方が、向後の事を考えると寧ろ、無茶な意地を通すより後々良かったと云える場合だってあるでありましょう。どちらが正解だったかなんと云うのは、今の時点で迂闊に判断出来ないところであります。こう云った辺り頑治さんは厳格主義者でも頑固一徹主義者でもなく、どちらかと云うとちゃらんぽらんな人間だと云えるでありますか。
「でもあたしとしても、頑ちゃんに先の見えない労働争議にのめり込まれるのは、ちょっと叶わないかな。何だか益々あたしから遠くなっていくようで」
「まあ、労働争議に巻き込まれてあたふたしなければならなくなったとしても、夕美から遠ざかるなんて云う了見は更々ないけどね、俺は」
「でも頑ちゃんがそう云う心算でも、屹度現実では忙しさにかまけて、そうはいかなくなるんじゃないかしら。そんな気がするわ」
「いやまあ、労働争議はもう、ない事になったけどね、実際」
(続)
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あなたのとりこ 652 [あなたのとりこ 22 創作]

 頑治さんは少し笑うのでありました。「それにどだい、俺は暫くの間だとしても労働争議なんかで、気の毒さを売り物にしながら飯を食う気は更々ないし、そんなのは全くイカさないと思っているし、まっぴらご免蒙るよ」
 そう云いながらも、寸でのところで労働争議になりかけたのを自分は別に強硬に忌避しようともしなかったのでありましたか。寧ろ袁満さんや他の組合員に対して、そちらの流れに乗るのが自然なような発言をしたんじゃなかったかしらと考えるのでありました。
 どちらが本気だったかと云えば、それはまっぴらご免の方でありますか。まあ、行きがかり上、労働争議も辞さないと云う姿勢を示したのであります。しかし心根の底の方で、屹度そんな事にはならないだろうと云う読みも確かにあったのでありました。
 日々無難で平穏が何よりを身上とする袁満さんや、全総連の後ろに控えている政治政党がむやみに嫌いな均目さん。それに労働運動なんて本来毛先程も似つかわしくない那間裕子女史。社長や土師尾常務の無体に対抗するために便宜的に組合に入ってけれど、こちらも那間裕子女史同様如何にも組合活動が似合わないし、何に付け事が大仰になるのは叶わないと思っている甲斐計子女史。それにちゃらんぽらんの自分でありますから、これはもう、労働争議を引き受けるべき人材とは全く以って云えないでありましょう。
「まあ、それじゃあ、また就職活動をすることになるのね、頑ちゃんは?」
 夕美さんが訊くのでありました。
「そう云う事になるかな」
「大儀ね、それは」
「いやそうでもないよ。慣れているから」
 頑治さんは然程うんざりだと云った調子ではなく返すのでありました。しかしまあ、こうやってやっと見つけた定職を不本意ながら放り投げる事態に立ち至ったのは、夕美さんに対して申し訳ないような心持ちにもなるのでありました。夕美さんは頑治さんがアルバイトではなくちゃんとした正社員として就職した事を、大いに喜んでくれていたのでありましたから。その夕美さんの喜びをこうして裏切るのは何とも面目ない事であります。

 夕美さんはここで少し話しの舳先を曲げるのでありました。
「そう云う事なら、夏休みはどうなるのかしら?」
「明日会社に辞表を出すんだから、当然俺の夏休みはないよ」
「そうじゃなくて、夏休みになったら頑ちゃんはこっちに帰って来るって云っていたでしょう。それで頑ちゃんが帰る時に今度はあたしが夏休みを取って、一緒に東京に行くってそんな計画をしていたじゃない。それはどうなるのかしら?」
「勿論計画通りだよ。夏休みどころか、俺は会社を辞めてこれからずうっと休みと云う事になる。そっちに帰る時間は十二分にあると云う事だし」
「ああそう。それなら良いんだけど、失業者になるんだから旅費とか大丈夫?」
「まあ、何とかなるだろう」
 そう云いながら頑治さんは銀行の預金通帳を頭に思い浮かべるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 653 [あなたのとりこ 22 創作]

 預金通帳に記載してある額面は確か、心細いのはその通りだけれども、かと云って帰省の旅行代金を払ったとしても、その後が二進も三進もいかなくなると云う事もない、と云うところでありましょうか。こうなると入社時期のために、夏の一時金が満額出なかったのが痛かったと云う事でありますか。過去に遡っても最高の夏季一時金の支給額であったと云う風に訊いているので、今更詮無い事ながら何とも残念無念であります。
「夕美は俺が何時そっちに帰るのが好都合なんだろう?」
 頑治さんは頭の中に消え残った預金通帳の残額の像を、一つ頭を横に振って払い落としてから訊くのでありました。
「そうね、八月のお盆過ぎの方が良いかしらね。そうしたらあたしは八月の終わり頃から一週間程度夏休み、と云う事になるし、その方が休みを取り易いかしらね」
「夏休みは九月に入っても構わないの?」
「そうね。博物館は夏休みはずっと開館しているから、あたし達は七月半ばから九月半ばの間に個々に夏休みを取る事になるのよ」
「ふうんそうか」
 頑治さんは受話器を耳に当てた儘頷くのでありました。「それから例の、そっちにある弥生遺跡発掘調査の件で、大学の考古学部との打ち合わせか何かで、ゴールデンウィークにこっちに来た時みたいに、仕事の出張を休暇の前か後ろにくっ付けて東京滞在を長くする、なんと云う風には今回は出来ないの?」
「それは今回は無理ね。その件で東京に行くとしたら、十一月頃かしらね」
「おお、と云う事は十一月にも夕美はこっちに来る事になるんだ」
「そうね、多分行く事になるわ」
「それは楽しみだなあ」
「何云ってんの」
 夕美さんは呆れたような声を出すのでありました。「八月に逢うのも未だ実現していないのに、それを吹っ飛ばして十一月の事を先走って楽しみだって云うのは、何だか変じゃない? まあ、頑ちゃんらしいと云えば頑ちゃんらしいけどさ」
「ああ成程。それは道理だ」
 頑治さんはあっけらかんと笑うのでありました。本棚に置いてある夕美さんから預かっているネコのぬいぐるみがふと目に入るのでありましたが、そのネコの表情も頑治さんの頓珍漢を笑っているように見えるのでありました。
「あたしの休みの件は、はっきりしたらまた連絡するわ」
「俺は夕美のどんな都合にだって合わせられるよ、屹度」
「判ったわ。後程打ち合わせしましょう」
 こう云った後夕美さんは少し黙るのでありました。それは恐らく、ここで今回の電話は一区切り付いたと云う事になって、受話器を架台に戻す潮時だと感じはするものの、未だ何となく話し足りないような気がして、未練から、それじゃあ、と云う言葉を口から出しそびれているための沈黙なのでありましょう。
(続)
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