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あなたのとりこ 242 [あなたのとりこ 9 創作]

 山尾主任が冴えない顔色であるのは、仕事の事もそうでありますが、私事に於いても何事か問題を抱えているようにも頑治さんには思えるのでありました。しかしまあこれは頑治さんの勘と云う域からは出ないのでありましたが。
 如何にも新婚の隠せない浮付きが、山尾主任の言動に全く見られないのでありました。しかも照れて敢えて隠していると云うのでもなさそうな気配であります。目算違いと云うのか、順調に結婚まで事を運んだけれど、いざ結婚してみたら当初の目論見と何か齟齬があると云った戸惑いが、素直な喜びの手足を縛っていると云った感じと云うのか。
 均目さんに依れば、山尾主任は自分の頭の中で、あるべき理想の結婚生活風景を描いていたのだけれど、必ずしもそうはいかない現実を前に調子が狂ったのだろうと云う事でありました。云われてみれば確かに、山尾主任には理想主義者の横顔があって、了見を現実に合わせて変容させる生活者的な能力はあんまり高くはなさそうでありますか。
 しかしまるっきり融通の利かない理想主義者、と云う訳ではなく、それなりに功利的で妥協的なリアリストの側面も持ってはいると思われもするのであります。そうでなければ第一、極めて現実的な形態である結婚と云う形式を選択しはしないでありましょうし。まあ、山尾主任の顔付きに於いて、理想主義者とリアリストのどちらの側面が優勢か選べと云われると、それはもうすぐに理想主義者の方を指差す事になりはしますけれど。
 その辺のモヤモヤが山尾主任の顔色を冴えさせない原因と均目さんは見ているようでありましたが、那間裕子女史は少し違った見解のようでありました。
「何かふとした切っ掛けがあったのよ」
 那間裕子女史は確信あり気に頷くのでありました。「別にどうと云う事でもない些細な切っ掛けみたいなんだけど、でも実は大きな気掛かりになるのよ、そう云うものが」
「小難しくて何だか良く判りませんが」
 頑治さんは鈍そうに笑って見せるのでありました。那間裕子女史はそんな頑治さんを度し難い鈍附でも見るような目で眺め遣るのでありました。
「判らない? これこれこうと云うはっきりした理由ではないのよ。でも、まあ、ちょっとした感受性の誤動作みたいな事がふと起こって、何気ない相手の所作や、何でもない表情とか、例えば咳の仕方とか息を吸い込む時に偶々鼻が鳴ったとか、顎に一本髭が剃り残してあるとか、笑う時に出来る目尻の皺の様子とか、そんなのが急に気に障るような、そんな決定的に見えないけど決定的な何事かがあったかも知れないと云う事よ」
「山尾主任の相手さんだから、髭の剃り残しと云うのはないでしょうが」
 頑治さんは別に混ぜっ返す心算ではないながらそんな事を云い返すのでありました。
「まあ、髭の例はあたしが女だからうっかり云っちゃっただけ」
 那間裕子女史は訂正して、それは兎も角も自分の云っている事が理解出来るか、と問うように小首を傾げて頑治さんの目をじっと見るのでありました。
「つまり不条理と云うやつですかね」
「あっさり大袈裟に云って仕舞うと、そう云う風に云えるかな」
「なかなか詩的な理由ではあるけれど、俺には何かちょっと腑に落ちないですかね」
(続)
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