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あなたのとりこ 523 [あなたのとりこ 18 創作]

「本当に、単にうっかりしていただけだよ。遁ズラする気なんて始めから無いよ」
 日比課長は那間裕子女史の、自分を端から見縊り切ったようなこの云い草が反射的に癪に障ったようで、少し声を荒げて云い返すのでありました。
「別に遁ズラ計画を疑っている訳じゃないわよ」
 那間裕子女史はそうは云うものの薄ら笑いを片頬に浮かべている儘で、全く人を小馬鹿にしているような不遜な態度なのでありました。
「まあ、仕事なんだから仕方が無いじゃないか」
 均目さんが口を挟むのでありましたが、それは那間裕子女史に向かって傲岸な云い草を慎めと諌めているのか、それとも女史に向かっての言葉ではあるものの、暗に日比課長のむかっ腹を取り敢えず宥めるのを企図しで云っているのか、頑治さんにはどちらとも判断が付かないのでありました。まあ、二つながらの謂いがあるのでありましょうが。
 で、那間裕子女史もそれ以上つまらない挑発的な言葉は発しようとしないのでありましたし、日比課長もそれ以上那間裕子女史に食って掛かる事もしないのでありましたから、一先ず均目さんの仲裁は成功したと云う事になりますか。
「談判が午後に延びたんだから、念を入れてもう一度昼休みに、下の倉庫とか或いは喫茶店か何処かに集まって、文言や手順を確認しておく方が無難かな」
 袁満さんがそんな提案をするのでありました。
「いやもうその必要は無いんじゃないかしら。昨日決めた事を態々もう一度、昼休みに全員で集まってお浚いするには及ばないんじゃないの」
「でも、念には念を入れて、と云う事もあるし」
「大丈夫よ。全く袁満君は大の男と思えないくらいにくよくよ心配性なんだから」
 那間裕子女史はここでも横柄な態度で袁満さんの細心を嘲笑うのでありました。袁満さんはその温厚な人柄からか、それとも那間裕子女史に対する苦手意識のためか、この女史の侮りにただ苦笑するだけで日比課長のようには反発しないのでありました。
 昼休みにまた集まると云うのは、頑治さんとしてもちょっと面倒臭いと思うのでありました。どうせ昨日の話し合いの決定をなぞるだけだろうし、この期に及んで新しい展開がある訳でもないのでありましょうから、そのために昼の休みを潰すのはいただけないと云うものであります。それに頑治さんはその日の昼は飯の後に三省堂書店と冨山房書店、それに東京堂書店を巡って、かねてから購入を予定していた幾冊かの本を仕入れようと考えていたのでありましたから、こちらの方を優先したいと云うところなのでありました。
 まあ、袁満さんとしては組合の委員長として談判の皮切りに直接もの云う役になる訳でありますから、その役を大過なく熟せるか心配なのでありましょう。しかし春の春闘の時だって袁満さんはちゃんと委員長としての役目を果たしたのだから、今回も大丈夫であろうと頑治さんは自分都合優先のために無責任に楽観するのでありました。

 土師尾常務は朝の電話の通り午後二時を少し回ってから出社して来るのでありました。この辺は欺瞞の線上に於いてではありなが殊勝と云えば妙に殊勝なものであります。
(続)
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