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石の下の楽土には 71 [石の下の楽土には 3 創作]

 島原さんは咄嗟に墓から一歩、後ろへ跳び下るのでありました。島原さんの眉間に深い皺が刻まれ、その瞼は見開かれたまま凍っているのでありました。口から低い唸り声が漏れ出るのでありました。島原さんの手が震えだすのでありました。
 島原さんは二本の項垂れた花を納骨棺の歪んで置かれた蓋の上に残した儘、逃げるようにその前を離れるのでありました。小走りに墓地の門に向かって島原さんは急ぐのでありましたが、途中で足の動きがついていかずに何度か転びそうになるのでありました。
「まさかそんなことが、あるわけがない!」
 門に急ぐ島原さんの乾いた口から、掠れた声の独り言が放たれるのでありました。
 墓地を出ても、島原さんは足の動きを緩めることなく、一散に自分の家を目指すのでありました。まさかそんなことがと云う島原さんの独り言が、繰り返しその口から飛び出すのでありました。道をすれ違う人が、なにかに取りつかれたように妙なことを口走りながら、縺れようとする足を持て余すように急ぎ足に去って行く老人の後ろ姿を、ふり返って凝視するのでありました。
 ・・・・・・
 店を開ける準備を一通り終えてから、拙生は小浜さんに話しかけるのでありました。
「島原さんは、あの後ちっとも見えませんね」
「うん、そうだな」
 小浜さんは冷蔵庫の中の食材をもう一度点検しながら返すのでありました。「亡くなった従弟さんのことで、色々忙しいんだろう」
「でも、この後は四十九日まで千葉には行かなくていいって仰ってましたけど」
「人が一人死ぬと、遺品の整理だとか遺産の相続とか、なにかと面倒臭い事後の始末が色々出てくるからなあ。そう云うことじゃないのかね」
 島原さんは千葉から帰った次の日に三日ぶりにこの店に来て二本の徳利を空け、鍋焼き饂飩を咳きこみながら食して帰ったのでありましたが、その後はまたもやとんと顔を見せないのでありました。店を出る島原さんを見送った時の様子からすれば、次の日も当然やって来るものだと拙生は思っていたのでありましたが。島原さんが顔を見せなくなって、もう一週間になるのでありました。
「なんか体の調子が悪いんじゃないですかね」
「どうかな、それは判らないな。ま、この前出した鍋焼き饂飩が、あんまり気に入らなかったのかも知れないし、そろそろウチの味に厭きたのかも知れない」
 小浜さんが云うのでありましたが、拙生はその小浜さんの云い種に、島原さんに対して示していた今までの気遣いとか労りとか敬意とかが、まあ、拙生の考え過ぎなのかも知れませんが、少し冷えているような按配を見つけるのでありました。小浜さんは島原さんが店に現れないことを、拙生程に気にしていないのでありましょうか。
「でも、島原さんはそんなに味とかに、特に拘らない人じゃありませんでしたっけ」
「人の味覚なんてえものは気紛れだからな。それに味に鈍いとか、好きな味は特にないとしても、嫌いな味と云うのは、結構誰にでも頑なにあるからなあ」
(続)
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