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『孫子』と云う書Ⅱ [本の事、批評など 雑文]

 一九七二年に山東省銀雀山の前漢時代の墓から『孫子』に関わる竹簡が発見されました。その分析により現行十三編の『孫子』に当たる資料と、これとは別に孫武の他の兵書及び孫臏オリジナルの兵書が出土したことで『漢書』にある呉の孫子兵法八十二編と、斉の孫子兵法八十九編の存在が事実であったことが確認されました。また、よって現行十三編からなる『孫子』は孫武の作であることが判明したとされました。
 しかし現行十三編のものとは別に孫臏オリジナルの兵書が出土したこと云うことだけでは、現行の『孫子』が孫武の著したものであると云う証明には、直接的にはならないのではないでしょうか。それは講談社学術文庫版の浅野裕一氏編『孫子』の解説にもあります。実はこの拙文はこの文庫本に触発されて書いているのであります。
 浅野裕一氏はここを指摘された上で、尚且つ現行十三編の『孫子』は孫武のものであると結論されています。先に記した『孫子』虚実編の「越人之兵雖多」と云う語句と、それを語る「吾」をキーワードに『孫子』を著した人物が呉王に加担していると云う状況を明示し、斉王に仕えた孫臏では『孫子』の状況設定上からも在り得ないとされます。また曹操の筆削説も曹操が自分の解釈で勝手に改竄したのではなく、出土した銀雀山竹簡と曹操が「撰びて略解を為」ったとされる現行『孫子』十三編が殆ど一致するとこ、曹操自身が孫武をその作者とする前提を明記していることで『孫子』は孫武の作になることは疑いないと解説されます。この浅野裕一氏の『孫子』は銀雀山出土の竹簡本をテキストとして使用してあり、最古のテキストを底本とされていると云うのは大変な魅力であります。そのための労の甚大であったことは察して余りあるものがあります。まあ、一読者たる拙生ごときが氏の労を察しても、これはむしろ僭越であると云うだけではありましょうが。
 しかしながら拙生、浅野裕一氏の論を重きとするに吝かでないのではありますが、敢えてこう推論することも可能であろうと思うのであります。即ち、現行『孫子』十三編はやはり孫臏或いは孫臏学派の人達が自学派を権威づけるために、学派内に伝わる派の開祖たる孫武の書として、実は彼等が編んで世に出したのではあるまいかと。
 孫臏は孫武の子孫であると『史記』にあります。本当のところは判らないとしても、孫臏はかつて呉王に仕えてその功績大であったところの孫武の兵学の流れを受け継ぐ者として自らを規定し、孫臏兵学を興すに於いて天下に広く知られていた先祖(?)たる孫武の偉業を取りこむことで、学派の権威を高めようとしたと勘繰ることも出来るのであります。
 馬陵の戦いで参謀として名を天下に顕した孫臏は戦の神様と讃えられ当然その弟子志望者も多かったでありましょう。彼の学派が形成され、それは孫臏の業績で充分な権威を獲得出来たでしょうが、しかし学派が大きくなると更にもっと大きく揺るぎない権威が希求されたでありましょう。それは当然学派に歴史性を付与することであります。長い歴史に裏打ちされ実戦での効用も無比となれば、これはもう天下無敵の大学派の完成であります。
 この天下無敵の大学派の聖典として編まれたのが現行『孫子』十三編ではなかったのか、と云うのが拙生の勝手な気儘な推察であります。当然孫武について伝えられているもの、当時の戦争形態等を慎重に背景に使いながら、観念的抽象的な表現と錬られた名文を連ねて、孫臏或いは孫臏学派の人達が孫武著とする『孫子』を編んだのであります。
(続)
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