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『孫子』と云う書Ⅰ [本の事、批評など 雑文]

 云うまでもなく中国の古典であります。『呉子』『三略』『六韜』等と並ぶ兵書であり、扶桑では最もよく馴れ親しまれた兵書と云うことが出来るでありましょう。
 戦国武将武田信玄の「風林火山」の旗印はこの『孫子』からとられたと云うのは夙に有名であります。四文字と云うのは語呂もリズムも良くてそれで「風林火山」となったのでありましょうが、この後に「難知如陰」(知り難きこと陰のごとく)「動如雷震」(動くこと雷の震うがごとくして)と続いて「風林火山陰雷」の六文字を揃えるのが本来かと余計なお節介的に、且ついちゃもん的に愚考するのであります。拙生としては後の「陰」と「雷」の方に詩的な余韻をより強く感じるものでありまして、どうやら武田信玄と拙生は言葉に対する感受性に微妙な乖離があるのでありましょう。もっとも『孫子』の言葉に感ずるところがあったと云うことのみ一致点としても、向こう様と拙生ではその存在の大きさからして月と鼈、駿河の富士と一理塚、中国の黄河と家の近所にある道路脇の側溝くらいの決定的な開きがあるのでありますから、感受性の乖離があろうがなかろうが向こう様にとっては拙生との対比そのものが、失笑を通り越して迷惑の沙汰ではありましょうが。
 この『孫子』でありますが春秋時代の呉の闔廬に仕えた孫武のものしたものであるか、戦国時代の斉の孫臏の手になるのか大いに論争のあった書であります。軍団に於ける戦車、歩兵の比率や騎兵の登場等、春秋時代の戦争形態と戦国時代のそれを鑑みれば『孫子』が春秋時代の戦争形態を背景にものされていると云う分析が成り立ちます。またしかし仮定されている戦争の規模や、中で使われている用語は戦国時代のものに近いとも云われていて、孫武と孫臏どちらの手になるものであるのか、または後世の誰かが著したものかは俄かには判ぜられなかったのでありました。三国志で有名な魏の曹操が孫武に名を借りて、その内容は実は自ら作ったものであると云う説もあるくらいであります。記録としては前漢武帝時代の司馬遷の『史記』にも「孫子・呉起列伝」の中に孫武に十三編の著作があったことが記してあり、孫臏の兵書も後の世まで伝わっているとあります。『漢書』にも呉の孫子兵法八十二編と斉の孫子兵法八十九編の書名が記録されております。
 現行『孫子』十三編は『史記』に記されている孫武の著作と編数が一致することから、孫武のものと従来考えられていたのでありました。また『孫子』の虚実編に「越人之兵雖多」と云う語句があるところを見ても、この著者が越を敵国と認識していることが明白であり、そうであるなら『孫子』の作者は孫武であるとすることに異の差し挟まれる余地はないと云う論であります。しかし後世の人が前の時代に仮託して書けば、そう云うことはある程度簡単に一致を目論むことは出来るのでありますし、それだけで孫武の作であることの明証にはならないでありましょう。この十三編が孫武の作そのままであるのかそれとも呉の孫子兵法八十二編と斉の孫子兵法八十九編の中から、例えば曹操辺りが新たに編み直して『史記』との整合性を考えて十三編としたのか、または多くが失伝した中で辛うじて十三編が残ったとするのかは説の分かれるところであります。孫武か孫臏かあるいは別の第三者か、作者をめぐる謎は『孫子』と云う書を考える上でなかなか魅力的な謎と云えるでありましょうか。
(続)
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