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お前の番だ! 110 [お前の番だ! 4 創作]

 その興堂範士の軽口に、威治教士が不快気に口を歪めた笑い顔をすぐにつくるのでありました。何を助教士風情でそんな差し出がましい、と咄嗟に思ったのでありましょう。
「滅相もありません。例え教えを請うための出稽古であっても、こんな不束者一人でなんか興堂先輩の道場には未だ遣れませんよ」
 鳥枝範士が大袈裟に両手を横に何度もふりながら云うのでありました。
「いやいや、ワシは今から大いに折野君の将来を買っているのだが」
「そうだ、時々道分さんの処に折野と面能美を出稽古に行かせようかなあ」
 是路総士がふと思いついたと云った様子で呟くのでありました。
「おう、そうなさいあにさん。ワシの処は何時でも大歓迎ですぞ」
「総本部道場だけではなく、道分さんの道場で体術をしっかり仕こんで貰うと云うのも、二人には良い修行になるかも知れんなあ」
「ワシはそのお役目引き受けますぞ」
「どうですかな鳥枝さん?」
 是路道士が鳥枝範士の方を見るのでありました。
「まあ、二人別々で週に一回程度なら、遣れん事もないでしょうが」
「よし決まりじゃ。来月から早速ウチに寄越してくだされ」
 興堂範士は大いに乗り気で請けあうのでありました。対照的に威治教士はこの話しに全く無関心と云った様子で、目を下に落として、別に俄に痒くなったわけでもないのでありましょうが、自分の左掌を手持無沙汰気に右手の人差し指で掻いているのでありました。
 万太郎としては特に異存はないのでありました。興堂範士直々に体術の稽古をつけて貰えるのと云うのは、寧ろ願ってもいない事であります。
 しかし威治教士を、蛙を除いてこの世に生きとし生けるものの中で最も苦手にしている良平は、この話しをおいそれとは喜ばないでありましょう。是路総士の付き人として行くのなら未だしも、自分一人で神保町へ出向くのは出来れば免れたい筈であります。
「時にあにさん、今日はあゆみちゃんの姿が見えませんが?」
 興堂範士が急に気づいたと云うように話頭を変えるのでありました。あゆみの名前が出た瞬間に、威治教士が落としていた視線を自分の掌から上げるのでありました。
「今日は寄敷さんと二人で八王子の方に出張指導に行っております」
「ああそうですか。そうなるとあゆみちゃんの手料理は今日はいただけんのか」
 興堂範士は少しがっかりした顔をするのでありました。「ワシは女房を失くしてから家庭料理と云うものは滅多に口に出来ないので、あゆみちゃんの手料理も楽しみの一つとしてこちらにお伺いさせて貰ってあるようなところもある次第で」
 興堂範士は聞き様によっては不謹慎な事を云うのでありました。しかしその云い草には妙に愛嬌があって憎めないのであります。
「いや申しわけない。今度いらした時のお楽しみと云う事で」
 是路総士が笑い顔で頭を下げるのでありました。興堂範士は三年程前に細君を交通事故で亡くしているのでありました。
(続)
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