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お前の番だ! 89 [お前の番だ! 3 創作]

 でありますからこの興堂派道場への出稽古の折り等は、内弟子が是路総士の体を観察する数少ないチャンスではありました。まあ、是路総士としては風呂に入る時くらいは師匠と云う気の張る立場から離れて、一人でのんびり解放感に浸りたいでありましょうが。
 興堂派の風呂場は優に一坪くらいあって、総本部道場の母屋の風呂に比べればゆったりとしているのでありました。しかも床も壁も浴槽も芳香漂う檜造りでありました。
 さすがに栄えている興堂派道場であります。是路総士の贅を嫌う一面とは別に、まるで古木材で拵えたような総本部道場母屋の風呂場とは大違いであります。
 風呂から上がると是路総士は背広姿になるのでありました。万太郎も裸になって三助を承ったのでありましたから、風呂から出るとスーツ姿に着替えるのでありました。
「いや結構な風呂を頂戴しました」
 是路総士は範士控えの間に戻ると興堂範士に愛想を云うのでありました。卓の上には是路総士を饗するためのご馳走が調えられているのでありました。
「相変わらず九段下の寿司政のにぎりですが」
 興堂範士は座った是路総士に日本酒の一合徳利を差し出すのでありました。
「いやいや、何よりです。調布と違ってこちらには老舗の鮨屋さんがありますからなあ」
「何をおっしゃいますか。あゆみちゃんの手料理こそ何よりでしょうよ」
「いやいや、母親を失くして以来、料理の手ほどきをする者がおりません」
 是路総士の連れあいでありあゆみの母親たる人は、あゆみが高校一年生の時に病没したと云う事を万太郎は良平から聞いた事があるのでありました。
「しかしあゆみちゃんの料理は実に美味い。屹度良い嫁さんになりますよ」
「いやあ、躾も碌にしませんでしたからな。不束な娘です」
 興堂範士は是路総士の出張指導のお返しと云う事で、三月に一度程総本部道場に指導に来るのでありましたが、その時にはあゆみの手料理の持て成しを受けるのでありました。
「ああ今日はあにさんのお許しも貰っているから、ここに折野君も一緒にお上がんなさい。それから花司馬も板場もな。今日は一同で賑やかにやろう」
 興堂範士が廊下の三人に手招きをするのでありました。三人は「押忍」と声を揃えて座礼してから座敷の中に膝行で入るのでありました。
 何時もなら給仕兼雑用係として花司馬筆頭教士か板場教士が一人だけついて、後の者の食事は内弟子控え室に別に用意してあるのでありました。内弟子控え室ではごく稀に威治教士も同席する事があるのでありましたが、殆どの場合、稽古が終わると威治教士は取り巻き連中と攣るんで道場の外に食事に出て行くのでありました。
「板場、威治もここに呼んでこい」
 興堂範士が、座敷に膝を踏み入れたばかりの板場教士に指示するのでありました。
「押忍、今呼んでまいります」
 板場教士がそう返事するものの少々困じたような顔をするのは、もう既に威治教士は道場から出て行ったかも知れないと考えたからでありましょう。興堂範士の命であるから、そう云う場合でも板場教士は外まで探しに出なくてはならないのでありました。
(続)
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