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お前の番だ! 88 [お前の番だ! 3 創作]

「折野君、じゃなくて、母屋では、万ちゃん、て呼ぼうかな。面能美君も、良君、だし」
 すぐ横で流し台に目を落として皿を洗っているあゆみが云うのでありました。「万ちゃん、で良い? それとも、万君、の方がしっくりくる?」
「万君、は何となく響きが悪いですね」
「じゃあ、万ちゃん、ね」
 万太郎としては万ちゃんであれ万君であれ、少年の頃から今までそんな風に通称されたためしがなかったので、秘かに臍の周囲がくすぐったくなるのでありました。
「万ちゃん、アパートでは自炊していたの?」
 はっきり諾と返事してはいないのに、あゆみの方はもう万太郎の呼称を、万ちゃん、に決定しているようでありました。まあ、どんな風に呼ばれても構わないでありますが。
「いや、殆ど外食でした」
 万太郎はそう応えつつこの自分の風体に、万ちゃん、なる呼称は折りあいが良いのか悪いのか、頭の隅で未だあれこれ考えたりしているのでありました。

 興堂派道場の範士控えの間の開け放たれた障子戸の傍らに、先に是路総士と興堂範士に同道した板場教士が正坐して控えているのでありました。三人は互いに目礼して、花司馬筆頭教士は板場教士の横に、万太郎は二人の後ろに静かに正坐するのでありました。
「折野君も一緒かな?」
 興堂範士が気配を察して廊下に声を投げるのでありました。万太郎は「押忍」と返事して、座敷の方から見える位置に移動してお辞儀するのでありました。
「総士先生がこれから風呂を使われるので、介添えをお願いしますぞ」
「押忍。承りました」
 万太郎の返事を待ってから、是路総士が「よっこらしょ」と云いつつ両手を座卓について立ち上がるのでありました。万太郎もすぐに立つのでありました。
 板場教士が一緒に立つのは是路総士を風呂まで案内するためであります。万太郎と板場教士は是路総士の歩行を促すように障子戸の脇に避けるのでありました。
「では失礼して、折角だから風呂をよばれるとしましょうかな」
 是路総士は興堂範士に一礼して廊下に出るのでありました。板場教士の先導で是路総士を真ん中に挟んで、三人は廊下を静かに風呂場の方に向かうのでありました。
 是路総士はごく偶に内弟子に背中を流させるのでありましたが、それは別に偉ぶるためにではなくて、自分の体を限られた弟子に開示するためでありました。師匠の体幹や手足の骨格的特徴であるとか、どのような筋肉に鎧われているのか、またはその筋肉がどのような硬さ或いは柔らかさを持っているのか、それを実際に弟子が触れて確認するのが目的なのであり、これは昔から武道にはよくある師弟間の交感儀式の一種なのでありました。
 しかし実際のところ、是路総士はあまり弟子に背中を流させるのは好きではないようでありました。総本部道場の母屋では、風呂場が狭いと云う事情もあり、弟子を連れて風呂に入るなんと云う事は稀にしかないのでありました。
(続)
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