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お前の番だ! 32 [お前の番だ! 2 創作]

 あゆみは箸を止めて立ち上がると流し台下の棚から未だ紙で包まれた儘の日本酒の一升瓶を取って、居間の是路総士の処に持っていくのでありました。
「おお、これこれ」
 是路総士は嬉しそうな顔でそれを受け取るのでありました。「これは道分さんが山形の方に出張指導に行った折に、お土産にと買ってきてくれた、住吉、という地酒だ」
 道分さん、と云うのは、道分興堂、と云う名前の是路総士の古い弟弟子にあたる人で、神保町に本部を構えて、常勝流興堂派として一派を立てているのでありました。この道分範士は体術では是路総士以上と評されているものの剣術では一歩以上の遅れがあって、篤実な人柄からか宗家である是路総士を常勝流の本家本流として常に尊び、自分はあくまでも一段低い位置に甘んじていると云う、なかなか具徳の仁と評判の人なのでありました。
 それから道場経営の才もその体術並みにあるようで、常勝流興堂派は支部道場の数では本部を数段凌ぐ程でありました。また道分範士は大いに社交家でもあって、資産家とか政財界人、それに芸能関係のお偉方なんかとの交流も幅広く、外貌だけを眺めると地味な常勝流本部より興堂派の方が余程殷盛であるようにも見えるのでありました。
 あゆみはもう一度食堂に取って返して食器棚から大ぶりで薄なりの、白地に淡い青色で唐子模様の描かれた猪口を持ってきて、一升瓶を抱えて座卓に座った是路総士の前にそおっと置くのでありました。この猪口は以前に是路総士が九州は長崎の方に指導に赴いた折、何となく気に入って自分用に買ってきた物でありましたが、ほんのりと飴色をした、住吉、のような酒を注ぐには、なかなか味わいのある取りあわせと云えるでありましょうか。
 是路総士は酒のあては何も要らないのでありました。ちびりちびりと只管、猪口を口に運ぶだけで事足りているようであります。
 食事を再開したあゆみと内弟子二人を横目に、是路総士は趣味である中国の古鏡の美術本を開いて交互に、頁を繰って猪口を傾けると云う作業に没頭しているのでありました。この中国古鏡の本を見るのは、万太郎が聞くところに依ると、是路総士が先の戦争中に武術教練師範の軍属として大陸に渡っている時に開眼したものだと云う話しであります。
 尤も是路総士は美術本の収集はするものの、古鏡その物を収集すると云った趣味はないのでありました。まあ第一、そんな文化財級の鏡が容易く手に入るわけはないでありましょうし、入手出来るとしてもかなりの高額でおいそれとは手が出ないでありましょう。
 この後、食事を済ませた万太郎は当番として皿洗いとテーブル拭きを丹念に行って、それにてようやく一日の内弟子仕事を仕舞いにするのでありました。良平の方は一足先に仕事納めて内弟子部屋に引き取っており、あゆみは居間の是路総士と一緒に座卓を囲んで、こちらは習っている習字のお師匠さんから貰ったと云う手本を束ねた分厚い綴じ本を開いて、ほんの少々、是路総士の、住吉、のおこぼれに預かっているのでありました。
「押忍、ではこれで休ませていただきます」
 万太郎は敷居後ろの板の間に正坐して居間の是路総士に座礼するのでありました。
「ご苦労さんでした」
 是路総士は正坐の儘几帳面に万太郎の方に体を向けて云うのでありました。
(続)
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