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大きな栗の木の下で 107 [大きな栗の木の下で 4 創作]

 御船さんは家から展望公園までの長い登り途を、軽いランニングで完走出来るようになるのでありました。自分の脚にみるみる筋肉が蘇ってくるのを実感出来るのでありましたが、それは何とも云えぬ喜びでもありました。
 御船さんが大学時代にやっていた合気道には単独で行う基本動作と云うものがあって、人気のない展望公園に着くと、御船さんは筋力強化に有効と思われるその中の幾つかの動きを試みるのでありました。例えば脚を前後に開いて前足にかけた六分の重心を、脚を尚も開きながら八分の重心にまで移し、その儘低い姿勢を保持するのであります。五分間もそのままにしていれば脚がブルブルと震えてくるのでありましたが、その儘可能な限り長い時間その姿勢をとり続けるのでありました。
 そう云った事が出来るようになると、今度は細った上半身も強化しようと云う欲求が出てくるのでありました。腕立て伏せとか腹筋運動とかスクワットとか、そんな一般的な筋力トレーニングは勿論、家にある一番重い木刀を持ってきて、それで素ぶりを一千回繰り返したりするのでありました。すぐにそれが出来たわけではないのでありましたが、しかし徐々に回数と強度を上げていって、そう長い日時もかからずに案外早く達成出来るようになるのでありました。ひょっとしたら今の方が大学時代よりも、体力がついたのかも知れないと御船さんは額から流れる汗を拭きながら、大いに満足気に思うのでありました。
 御船さんは体力強化に極めて真面目に取り組みだした自分が、自分で意外でもありました。一刻も早く体の頽勢を元に復せんとする了見なんぞ、ついこの間まで気持ちの端にも持ちあわせてはいなかったのでありました。
 やれば出来ることをやるようになったのは、矢張り沙代子さんとの邂逅が大きな転機になったと云えるでありましょう。蔭の中にいる沙代子さんに、同じ蔭の中にいる自分が何もなしてあげられないのは、全く以って自明なのであります。沙代子さんを蔭から解放するためには、先ず自分が蔭から日向の方へ足を踏み出さなくては始まらないのであります。
 御船さんは展望公園の芝生の上で、全力疾走を繰り返すのでありました。充分以上の体力を取り戻し、充分以上の気力と自信を得て、その後にもう一度面前に自分が現れるまで、どうか沙代子さん、屹度待っていてはくれぬだろうかと、はち切れそうになった心臓と肺とが足掻く隙間で、御船さんは沙代子さんに話しかけるのでありました。そうして先ず軽い取りかかりとして、ネコの話を聞かせて貰いたいものであります。
 しかし沙代子さんに自分は必要とされないかも知れないとも、一方で思うのでありました。そんなことだって、充分にあり得るのであります。考えてみたら高校生の時から今の今まで、沙代子さんは切実に自分を求めたことなどなかったではありませんか。とんだ三枚目として、自分は沙代子さんの前に現れる事になるかも知れないわけであります。
 しかし、しかし、そうであっても、兎も角御船さんは体力と気力の復旧に駆り立てられるのでありました。それがないと、本当に、本当に、なにも始まらないと思うからでありました。そのまた後に出来する事態等に、今は思い悩んでいる暇はないのであります。だから、今沙代子さんに逢えなくとも、それは仕方がないのでありました。変貌を果した自分が沙代子さんに逢わなければ、何の意味もないのであります。
(続)
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