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大きな栗の木の下で 108 [大きな栗の木の下で 4 創作]

 御船さんはダッシュを繰り返して疲労困憊していた体の中に、もっともっと体を虐めてやろうと云う気力が充溢してくるのを感じるのでありました。それは気力と云うのか焦りと云うべきものか、その辺りはよく判らないのでありましたが、しかし御船さんは草の上に横たえていた体を敢然と起こすのでありました。

 十一月の半ばを過ぎる頃、御船さんは自分の気力も全身の筋力も、その使用感も、かなりの程度に充実しできたように感じるのでありました。ひょっとしたら髄膜炎を患う以前よりももっと、壮健な身体を獲得しているかも知れません。
 声も殆ど元に戻っているのでありました。木刀を振りながら気合いの発声をしても、その声は如何にも鋭く前方の空気に突き刺さるのでありました。ほんの偶に擦れることはあるのでありましたが、だからと云ってそれでまた喉を傷めることはないのでありました。
 御船さんの家族は御船さんのこの変貌に驚くのでありました。御船さんは仕事への復帰も決めるのでありました。挨拶に行った職場の上司や同僚は御船さんの回復を喜び、以前よりも逞しくなったかも知れないその体躯に驚嘆の声を上げるのでありました。
 今年のクリスマスには、ネコのキーホルダーを買って沙代子さんに渡そうと、御船さんは考えたりするのでありました。高校生でもあるまいし、そんなものじゃあ、ちゃち過ぎるような気もするのでありましたが、しかしそのプレゼントを渡す事は重要な沙代子さんへのサインであり、厳かで秘かな儀式なのでありました。

 十一月も押しつまると、もうそろそろ冬の気配が高台の公園に漂っているのでありました。いよいよ明日から仕事に復帰すると云う前日、御船さんは最後のリハビリを終えると(いやそれはもうリハビリと云うよりは鍛錬と呼ぶべきものでありましょうが)、公園突端へと足を運んでみるのでありました。
 眺め下ろす街の風景にも造船所のドック群にも、遥か遠方の海の上にも、すぐそこの市営団地の屋根にも、水平線からせり上がって空一面に広がった冬の重い雲が覆いかぶさろうとしているのでありました。海から街を舐めて山肌を吹き上がってくる寒風が、絶え間なく、突端に立つ栗の古木の枝を嘲弄するように吹き過ぎていくのでありました。
 枝を撓らせるくらい密集した葉群れが未だ夏の儘の日差しに輝き、旺盛な葉擦れのさざめきを辺り一面にふり撒いていたほんの少し前の古木は、もうすっかり様相を変えて、寒々と細った姿で重苦しく曇った冬空に向かって屹立しているのでありました。この間で、御船さんの方は体に厚い筋肉を蘇らせ、古木の方は痩せ細って仕舞ったのでありました。
 栗の古木は冬の風にされるが儘に、殆どの葉を落とした梢を揺らしているのでありました。木蔭が黒々と貼りついていた地面には落ちた葉が厚く降り積もり、イガに包まれた栗の実が所々に散らばっているのでありました。
 御船さんは暫くの間栗の古木を見つめているのでありました。それから、お、木蔭が消え失せているなと小声で呟いて、一つ笑って、前に沙代子さんがバスでこの高台を去っていった同じ坂道を、下界に向かって下って行くのでありました。
(了)
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姥桜のかぐや姫

108でおしまいなのですか?
当方のブログを訪問していただきありがとうございます。

ここ沖縄では、基地問題や教科書問題等で色々な問題が山積していまして
国家という高いハードルに挑む日々で当方のブログ更新もままなりません上に汎武さんのブログもなかなか訪問できませんでしたが暇なときにまとめて読ませていただきました。

とても楽しく読まさせていただきました。次回の作品を楽しみに致しております。
by 姥桜のかぐや姫 (2011-11-26 21:40) 

汎武

姥桜のかぐや姫さん、いつも有難うございます。大いに励みにさせていただいております。今回は中篇のつもりでしたが、思わぬ長さになってしまいました。
大変お忙しいご様子、御身をお厭いながら活動にお励みください。
by 汎武 (2011-11-26 22:13) 

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