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大きな栗の木の下で 105 [大きな栗の木の下で 4 創作]

「覚えていないかもしれないけど、御船君さ、高校生の時にこんな感じで、バス停であたしを見送ってくれた事があったわよね」
 沙代子さんが云うのでありました。覚えていないどころか、それは忘れもしないと云うべき事であります。なにせついさっき、その情景を御船さんは鮮明に思い浮かべていたのでありましたから。
「覚えているよ。土曜日の夕方だった」
「あたしは家に帰る直通バスに乗ろうと思って、教室で時間を潰していたんだけど、そこに御船君が現れたのよね。なんで教室に戻ってきたんだっけ、御船君?」
「忘れた弁当箱を取りに、だよ」
「ああ、そうだったっけ」
 御船さんがかなりの細部も明瞭に覚えていると云うのに、沙代子さんは大概しか覚えてはいないようでありました。御船さんは沙代子さんがあの思い出に、然程強い印象を残してはいないことを少し寂しく思うのでありました。
「教室で、クリスマスとか正月の話をしたぜ。それにクリスマスケーキの話しも」
「ああ、そうだったわね、なんとなく覚えているわ」
 沙代子さんが何度か頷くのでありました。
「そいで、時間が来たのでバス停に行く沙代子について行ったんだ、俺が」
「ネコがバス停にいたわよね。それは覚えているわ」
「途中でどこからかやって来たんだよ。そいで沙代子が前にネコを飼っていたって話しになって、それから、そのネコの話しが始まろうとした時に、丁度バスが来たんだよ」
「ああ、そうだったっけね。御船君よく覚えているわね」
 忘れるわけがないと御船さんは口の中で云うのでありました。あの時が切かけで、俺はお前のことを忘れられなくなったんだからな。その時お前の方は、俺のことなんか別にどうでもよかったんだろうけどな。
「俺にとっては、ついこの間のことみたいだよ」
「あたしには、なんか随分遠い昔のことのようだわ」
 あれから、重く長い歳月を生きた沙代子さんが、単に呼吸を繰り返していた御船さんに云うのでありました。
「沙代子の飼っていたネコの話し、結局未だ聞いていないんだぜ、俺は」
「ああ、そうだったかしらね」
「そりゃそうさ、その後あんまり長く二人で話しをする機会なんかなかったんだから」
 御船さんは自分の口調が、なにやら繰り言を並べるような調子になっているのに気づくのでありました。御船さんは一つ咳払いをするのでありました。
「まあ、確かにあたしは前にネコを飼っていたけどさ」
「そのネコの話し、実は俺、ずうっと気になっていたんだよ」
「なに、あたしのネコの話しが?」
 沙代子さんが御船さんの方を向いて首を傾げて見せるのでありました。
(続)
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