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大きな栗の木の下で 103 [大きな栗の木の下で 4 創作]

 自分のすぐ横に沙代子さんが座っているのでありました。沙代子さんも当然、木蔭の暗がりの中に佇んでいるのでありました。御船さんは居た堪れなくなってくるのでありました。沙代子さんは、蔭の中に座っていてはいけないと云うのに。・・・
 御船さんは固く目を閉じるのでありました。蔭なんか消えて仕舞えと、御船さんは祈るのでありました。目を開けることが出来なくなるのでありました。
 するといきなり、全くの無音を御船さんは感じるのでありました。世界の総ての音と云う音が、たじろぐ程綺麗に消滅しているのでありました。
 風の音も聞こえないのでありました。葉擦れのさざめく音も、消えているのでありました。鳥も、蜩も、全く鳴かないのでありました。静まり返った不穏な世界が、不意に御船さんの閉じた瞼の内側に出現するのでありました。
 ほんの暫くの後、御船さんは恐る々々目を開くのでありました。開いた刹那はぼんやりと霞んでいた視界が、次第に明瞭になってくるのでありました。するとどうでありましょう、蔭が、木蔭が消え失せているではありませんか!
 あんなに黒々と地に張りついていた蔭が、二人に陰鬱に圧しかかっていた蔭が、音の消滅に呼応して、地表に吸いこまれたように跡形もなく消え失せているではありませんか。こんなことが起こって良いものでありましょうか!
 御船さんは息が止まるのでありました。沙代子さんが蔭の中から脱しているのでありました。自分も一緒に蔭から解放されているのでありました。こんな現象は、奇跡としか云い様がないのではないでしょうか!
「なんか、急に曇って来たわね」
 沙代子さんののんびりした声が遠くから聞こえてくるのでありました。その声に反応して、見開いた儘だった御船さんの瞼が一度瞬きをするのでありました。御船さんは沙代子さんの言葉で、一瞬に総てを了解するのでありました。
 そうなのであります。奇跡でもなんでもないのであります。ただ単に、曇っただけなのであります。日が翳ったものだから、当然、木蔭が消えたのであります。ごく普通の自然現象であります。なんと云う、げんなりするような当たり前であることか。
 沙代子さんが御船さんを見るのでありました。御船さんは空騒ぎを咎められたように、おどおどと沙代子さんから目を逸らすのでありました。
「ああ、そうだな、・・・曇ってきたな。」
 風が吹いてきて、栗の古木が葉擦れの音を御船さんの頭の上にふり撒くのでありました。
「もうぼちぼち夕方ね」
「そうだな、夕方だな。・・・」
「日の暮れ方は早いって云うから、もうじき、暗くなり始めるわね」
「ああ、暗くなり始めるかな。・・・」
 沙代子さんは少し御船さんを無表情に見つめるのでありました。それから街の光景に目を移して、膝の上に未だ散らかった儘になっている小さな草切れを両手で払って、徐に立ち上がるのでありました。釣られるように御船さんも立ち上がるのでありました。
(続)
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