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あなたのとりこ 98 [あなたのとりこ 4 創作]

 給料とか待遇は特に希望は無いがその日の内にその日の課業が完結するような小難しくない仕事で、格式張った服装をしなくて済む、比較的社風ののんびりした冗談や洒落の判る上司の居る、あんまりこの先発展しそうにないながらもしかしなかなか堅実に続いて行きそうな会社、と云うのが飯田橋の職安職員の田隙野道夫氏に就職斡旋を頼んだ時の頑治さんの条件でありました。さて、贈答社と云う会社はこの条件にどの程度適合しているのか頑治さんは判断が付かないのでありました。ざっくりと考えれば概ね合致しているようでもあり、しかし実は何一つとして符合していないような気もするのでもあります。
 勿論そんな呑気な条件に当て嵌まるような会社は何処にも無いでであろう事は、頑治さんも端から承知はしているのでありましたが、しかし居心地と云う点でこの贈答社はどんなものでありましょう。まあ、未だここで判断を下すのは早計でありましょうが。

 結局刃葉さんは、土師尾営業部長から出された一か月早い退社の勧告を呑むのでありました。刃葉さんに支払う一か月分の給料の出し惜しみからそんな事を提案してみた土師尾営業部長にしてみたら、これは瓢箪から駒が出たような按配になりますか。刃葉さんの方は、そうまで云われて一か月分の賃金欲しさに会社にしがみ付いているのは、誇り高い彼の人でありますから沽券に関わると云ったところでありましょう。
 刃葉さんは翌日、九時を少し過ぎた頃会社に遣って来てその儘土師尾営業部長の机の方に一直線に進むと、その机の上に、辞職届、とボールペンで表書きしてある白封筒を放り投げるように置いて土師尾営業部長を見下ろすのでありました。土師尾営業部長は先ず封筒に目を遣り、それから徐に横に立っている刃葉さんを見上げるのでありました。
 刃葉さんの退職届を提出する態度に何かいちゃもんを付けたいようでありましたが、細い目を余計細めて無表情に自分を見下ろしている刃葉さんを不気味に思ったのか、何も云わずに徐に目を逸らして封筒を取り上げると、その中に入っている折り畳まれた便箋を引っ張り出すのでありました。机で在庫帳を開いていた頑治さんは、土師尾営業部長の便箋を取り出す手付きが妙にぎごちないように見えるのでありました。
「辞職届を今月の二十日付けに書き直してきました。これで良いんでしょう」
 便箋に目を落としている土師尾営業部長に向かって刃葉さんが突慳貪に声を振り掛けるのでありました。その声に土師尾営業部長は顔を起こすのでありました。
「判りました。受理します」
 土師尾営業部長は何故か一見丁寧な言葉遣いで云うのでありました。しかし感情の籠っていない冷たい云い方ではありました。せめてもの不快の表明でありましょうか。
 今月の締め日まで出社するようでありますから、刃葉さんはあと三日したら退社となる寸法であります。この間で頑治さんへの仕事の引継ぎは粗方完了しているのでありましたし、それに若し完了していなくとも、頑治さんは特段刃葉さんをこの先必要としないでも充分仕事を熟して行けるでありましょう。依って刃葉さんの予定より早い退社は頑治さんには何の支障も無いのでありました。寧ろ先輩への気兼ねが無くなる分、頑治さんは気楽になると云うものでありますか。満更悪い事態の推移と云う訳ではないのであります。
(続)
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