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「四月廿九日。祭日。陰。」補記 [「四月廿九日。・・・」 創作]

 荷風散人がこの世を去ったのは昭和三十四年四月三十日未明でありました。死因は胃潰瘍の出血性ショックによる急性心不全となるのでありましょう。二年前に新築した小さな自宅の、物が散乱して足の踏み場もない埃に塗れた六畳間で、誰にも看取られずに孤独にこの世に別れを告げたのでありました。享年満七十九歳。それは如何にも散人らしい最期と云えるかも知れません。
 散人の亡骸は四月三十日朝、何時ものようにやって来た手伝いの老媼によって発見されたのでありました。駆けつけた無神経で無遠慮な報道陣によって、布団から半身をのり出して伏臥した最期の姿や部屋の様子がすっかり写真に撮られ、後々までも衝撃的な記録として残されるのでありました。まあ、そのお蔭で我々はその暗い緊迫の一場を、今でも目にすることが出来るわけではありますが。
 老人の孤独な最期でありました。しかし考えてみれば際まで極力人の世話にもならず、医療的な延命をも期せずに、散人は「自然」にこの世から去ったのであります。それはある意味で見事であったとも云えるでありましょう。総て深い覚悟の上で散人はそのような死を自ら意志的に選びとったのだと云う解釈(自然死による覚悟の自殺=佐藤春夫氏の解釈)もありますが、しかし老境に達した散人は、要するにあらゆることが面倒になっていて、実ははっきりとした覚悟も意志もなく、只投げやりに残りの生を死ぬまで生きただけなのかも知れません。そう云う無為なところが、寧ろ拙生には如何にも最晩年の散人らしく思えて仕舞うのであります。
 死は詰まり死そのものであります。その最期の瞬間が傍目に如何に無惨に陰惨に無念に見えようとも、その人にとって死は死以外ではなく、自らの生の見事な完結の瞬間であると思うのであります。多くの人に看取られようとも、孤独な最期であろうとも、非業であろうとも、思いがけないものであろうとも、そんなことに関係なく、等しく死の瞬間はその人一人きりの完結の営為なのであります。だから残った我々はその孤独で見事な営為に対して何時までも嘆かないで、一輪の花と心からの敬意の二つを、静かに手向ければそれで良いのかも知れません。いや、柄にもなく妙にしめやかな話になって仕舞いました。
 荷風散人の『断腸亭日乗』等幾つかの作品、それに主なものとして、秋庭太郎氏の『考証 永井荷風』(岩波現代文庫)、磯田光一氏の『永井荷風』(講談社)、江藤淳氏の『荷風散策』(新潮社)、川本三郎氏の『荷風と東京』(都市出版)、同氏編の『荷風語録』(岩波現代文庫)、佐藤春夫氏の『小説永井荷風伝』(岩波文庫)、新藤兼人氏の『「断腸亭日乗」を読む』(岩波現代文庫)、菅野昭正氏の『永井荷風巡歴』(岩波現代文庫)、野口富士夫氏の『わが荷風』(講談社現代文庫)、半藤一利氏の『荷風さんの戦後』(筑摩書房)、松本哉氏の『永井荷風ひとり暮し』(三省堂)、同『荷風極楽』(三省堂)、同『女たちの荷風』(白水社)、同『永井荷風という生き方』(集英社新書)、安岡章太郎氏の『私の濹東綺譚』(新潮社)、吉野俊彦氏の『「断腸亭」の経済学』(NHK出版)、等の本を参考にさせて頂きました。
 映画監督である新藤兼人氏の『「断腸亭日乗」を読む』の中に、散人が最期の瞬間に「『断腸亭日乗』はもう書かなくてもいいんだ・・・」と思う場面があります。この言葉に云い知れぬリアリティーを感じたのが、この短篇を書こうとした動機でもありました。
(了)
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姥桜のかぐや姫

荷風の生き様感動です。
自分だときっと点滴三昧で取り乱し無様な終末になるのだろうな~
と日頃考えています。
有難うございました。
by 姥桜のかぐや姫 (2011-04-16 15:12) 

汎武

まあ、描こうとしたのは、拙生の勝手な想像としての、散人の生き様
と云うよりは死に様でありましょうか。生き様に関しては女性、特に
フェミニズムの立場に立つ方々には、散人は大いに不評であろうかと
思われます。それに、いい気な生き方だと云う批評もあるでありましょう。
しかし散人の残した作品の評価は、それとは別の処にあると思われます。
ところで、プロフィール画像が変わりましたね。なかなか素敵であります。
by 汎武 (2011-04-16 16:24) 

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