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あなたのとりこ 724 [あなたのとりこ 25 創作]

 この界隈での恒例で、頑治さんは神保町の東京堂書店と三省堂書店に立ち寄るのでありました。三省堂書店の店内でブラブラと書架にある本を手に取ったりしながら三階から四階迄来る途中、頑治さんはすれ違う下りのエスカレーターに、前に上野公園で目撃した刃葉香里男さんの姿をまたもや見付けるのでありました。
 頑治さんは目が合う事に何とはなしに気まずいものを感じて、それとなく目を逸らすのでありましたが、刃葉さんの方はすぐ横を行違った頑治さんには気付かないようでありました。まあ、以前から広角の視界を有する人ではなかったのでありましたが、刃葉さんは前に据えた半眼の目を微動たりともさせずに、頑治さんの流し目に無表情な横顔を見せてゆっくり下って行くのでありました。通り過ぎてから振り返った頑治さんの目に、刃葉さんの、若いくせに少しばかり髪が薄くなった旋毛の辺りが見えるのでありました。
 会社を辞めてすぐに上野公園で目撃した時から少し時間が経っているところからして、刃葉さんは何かの用事で、一時的に東京に戻って来たのではないのだろうと頑治さんは推察するのでありました。そうなると刃葉さんは北海道の空手の師匠の元を、何らかの理由で引き払って居所を東京に移したと云う事になるでありましょうか。
 何らかの事情でそうしたのであろうとしても、もう頑治さんにとっては無関係の事であります。刃葉さんの向後の動向に対しても、然程の関心ももう無いのであります。まあ、どう云う経緯で北海道の空手の師匠の元を去る事にしたのか、そこら辺りに関しては多少の興味も無くはないのでありますけれど、それに関しても別に敢えて知りたい事ではないのであります。刃葉さんとはもう疾うに、接点は何もないのでありますから。
 その日の夜遅くに珍しく、と云うべきか、久しぶりに袁満さんから近況報告の電話がかかってくるのでありました。
「暫く居なかったようだけど、どうしていたのかな?」
 袁満さんは少し心配そうな声で訊くのでありました。
「と云う事は、前に電話をくれたんですかね?」
「うん、会社を辞めてちょっとしてからね」
「暫く故郷に帰っていたんですよ」
「ああ成程。会社を辞めて時間が出来たから、と云う事かな?」
 袁満さんは頑治さんの動向が知れたので、少しの危惧を払ったようでありました。
「まあ、随分帰っていなかったし、久しぶりに、と云う事です」
 頑治さんは少し快活に応答して見せるのでありました。
「ふうん。で、新しい勤め先はもう見付けたのかい?」
「いやあ、帰郷とか色々あったんで、未だ失業者の儘ですよ」
「ああ、そうなんだ」
「袁満さんの方はどうなんですか?」
「俺も未だ失業中だよ。職安で就職に有利だからって職業学校を紹介されたから、三か月程そこに通ってみようかなって思っているよ」
「へえ、なんの学校ですか?」
(続)
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