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あなたのとりこ 723 [あなたのとりこ 25 創作]

 何となく気まずくなった雰囲気を切り裂くように、もうすぐ列車がホームに入ると云うアナウンスが頭上で響くのでありました。それから程なく列車の走行音が近付いて来るのでありました。頑治さんは徐に立ち上がるのでありました。
「じゃあ、これで」
 頑治さんは少し遅れて立ち上がった夕美さんの手を握るのでありました。
「うん、それじゃあ、・・・」
 夕美さんは応える言葉を見失ったように語尾を濁して口を噤むのでありました。
 到着した列車のドアが開くのでありました。数人の乗客が頑治さんを残して先に列車に乗り込むのでありました。
 頑治さんは夕美さんの手を、少し力を籠めて握り直してから列車に乗り込むのでありました。夕美さんが名残惜しそうに、頑治さんの離れようとする手に縋って自分の手を前に伸ばすのでありました。しかし当然、二人の手は離れるのでありました。
「また東京に行けるようになったら連絡するわ」
 ドアが閉まる間際に夕美さんが云うのでありました。返事をする少し前のタイミングで頑治さんの目の前でドアが閉まるのでありました。頑治さんは言葉の代わりに首を縦に三度程動かして、今の夕美さんの別れの言葉に応えるのでありました。
 発車のベルの後で、列車は頑治さんの思いを振り切るようにホームを滑り出すのでありました。呆気なく夕美さんの姿がドアの窓から後方へ消え去るのでありました。頑治さんの手の中に、夕美さんの寂しそうな顔の名残のように、先程夕美さんが買って手渡してくれた、既に冷感の失せた缶コーヒーが握られているのでありました。

 東京に戻った頑治さんは、この帰路が夕美さんと一緒でなかった落胆と、故郷で過ごした夕美さんとの思いでの余韻から、何となく塞ぎこんで、アパートの部屋の中に引き籠っているのでありました。本棚の上のネコのぬいぐるみが、そんな自堕落を決め込んでいる頑治さんを咎めるように見下ろしているのでありました。
 数日経って少しは体を動かす意欲が出てきた頑治さんは、気晴らしに近所にある喫茶店に出向いたり、無縁坂を通って上野迄歩いてみたり、三省堂書店や東京度書店、それに神保町の古本屋とかに足を向けるのでありました。その折に贈答社の前を通る事もあるのでありましたが、日比課長や甲斐計子女史、それに土師尾常務には出会わないのでありました。社長の車も駐車場に見当たらないのでありました。駐車場の奥の倉庫の鉄の扉も閉まった儘で、中で人が働いているような様子もないような風でありましたか。
 会社は件の四人が辞めた後も恙無く日々の業務を続けているのでありましょうか。まあそんな事は、今となっては頑治さんには関係のない事ではありますが。
 袁満さんや那間裕子女史はもう別の仕事を見付けたのでありましょうか。均目さんは恐らく片久那制作部長の下で働いているのでありましょうが、こちらも特に問題もなく新しい仕事に励んであるのでありましょうか。未だ辞めてから一月も経っていないのでありますから、そんなにすぐに色々、夫々に大きな変化はないのかも知れません。
(続)
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