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あなたのとりこ 698 [あなたのとりこ 24 創作]

 しかし後日、知っていたのに何故教えなかったのかと、那間裕子女史からその不実に対するお叱りを受ける事になるやも知れません。その時何となく那間裕子女史の体面を傷つけるのが憚られたためだと云い訳しても、それは返って女史のプライドをより一層傷つける事になって、到底理解しては貰えないかも知れないでありましょう。
 頑治さんはその辺の気持ちのモヤモヤが消えないのでありました。会社を辞めた後はもう那間裕子女史と逢う事もなかろうと思うのでありますが、それだけに余計、けりを付けられなかった痛恨事として、或いは那間裕子女史に対する引け目として、何時までもこのモヤモヤは頑治さんの心根の内に屹度長く残り続けるのでありましょう。

 翌日例によって那間裕子女史は朝寝坊のために、一時間程遅刻して会社に現れるのでありました。もう辞めていく女史に対して態々教誨を垂れるのも無意味と考えているのか、あの三度の飯よりガタガタと些細な事にもケチを付けるのが大好きな土師尾常務も、扉を開けて入って来た女史と目も合わせないで無関心を決め込んでいるのでありました。
「おはよう」
 那間裕子女史は先ず袁満さんに明るくそう声を掛け、次に頑治さんにも屈託なく声を掛けて、少し暗い調子で甲斐計子女史に声を掛けるのでありました。土師尾常務には彼の人の無視との釣り合いで、ここに居ない者の如く一瞥も呉れないのでありました。
 頑治さんに対する声の掛け方は何時ものようにあっけらかんとしていて、昨日二人の間であった擦った揉んだをまるで反映していない様子であったのは、まあ、那間裕子女史のプライドか或いは照れ隠しかのどちらかにしろ、一先ず頑治さんは胸のつかえがほんの少々下りたような心地でありましたか。勿論頑治さんの顔を見た途端、どうして昨日は自分を一人残して何処かへ遁走して仕舞ったのかと詰りだす程、那間裕子女史は極度の独りよがりでもなく非常識人でも多分ないのは重々判っているのではありましたが。
 まあ、那間裕子女史も努めて何時も通りに頑治さんと接しようとしているのでありましょう。昨日のゴタゴタを翌日の会社に持ちこむ必要は何もないのでありますし。
 頑治さんはその日の配送伝票が出ていないことを確認して、一階の駐車場奥の倉庫に下りて行くのでありました。取り敢えず制作部関連の仕事もその日はないようでありましたから、午前中は倉庫の整理に時間を使えそうであります。
 箒で床を掃いていると袁満さんが遣って来るのでありました。
「今日は朝から日比課長の姿がありませんでしたが、何処かに直行ですか?」
 頑治さんがそう声を掛けると袁満さんは下唇を突きだして、肩を竦めて首を左右に何度か傾げて見せるのでありました。
「知らないよ、俺は。まあ、大方得意先に直行なんだろうけど、その連絡の電話は俺は取ってはいない。土師尾常務にでも聴いて貰わないと」
 何となく素っ気ない云い方でありました。もう日比課長の事なんか、自分は知ったこっちゃないよと云うところをこう云う云い方で表しているのでありましょう。
「別に態々日比課長の動向を土師尾常務に確認する気はありませんよ」
(続)
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