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あなたのとりこ 629 [あなたのとりこ 21 創作]

「先ず話さなければならないのは、・・・」
 土師尾常務は何となく上目遣いになって、皆の気配を窺うような風情をするのでありました。なかなか話し辛いのでありましょう。
「変な間を空けないで、さっさと話してくださいよ」
 袁満さんが先を促すのでありました。土師尾常務はそんなぞんざいな言葉で急かされるのにカチンときたようでありましたが、袁満さんを一睨みしただけで、それにイチャモンを付けるのはグッと我慢するような様子を見せるのでありました。
「話さなくてはならないのは、つまり、賃金とか待遇の事だ」
「賃金と待遇を、どう切り下げようと云うのですか?」
 そちらの魂胆なんかは疾うに推察が付いているよ、と云うような見縊りの笑みを湛えて袁満さんは更に先を促すのでありました。
「つまり、・・・賃金は今の基本給を全従業員二十パーセントカットして、住宅手当は廃止として、家族手当と役職手当は現行の儘と云う風にしたいと考えている」
「家族手当と役職手当の支給を受けるのは日比さんだけと云う事ですから、要するに他の我々は諸手当を全部カットすると云う事になる訳ですね?」
「まあ、結果としてそうなるかな」
「何が、結果として、ですか。すっかり組合員だけを狙い撃ちにする目論見のくせに」
 袁満さんはこれ見よがしに舌打ちして見せるのでありました。
「しかし基本給の二十パーセントカット、と云うのは組合員も日比君も同じだ」
「何を無意味な、と云うのか、ふざけた云い訳をしているんですか」
 袁満さんが蔑むような視線を土師尾常務に送って鼻を鳴らすのでありました。
「別にふざけてなんかいないよ」
 土師尾常務は不快感を露わにそうに云うのでありました。
「本気でふざけていないと云っているのなら、その神経を疑いますね」
 袁満さんはこれ見よがしに溜息を吐いて見せるのでありました。「まあいいや。それで、賃金の関連ではそれだけですか?」
「あとは今年の冬のボーナスも全額カット、と云う事にしたい」
「まあ、そう云う事も云うだろうとは想像が付いていましたけどね」
「会社を存続させるためには、そのくらいしないと年を越せないよ」
「で、そうする事で今の従業員の雇用は保証されるんですか?」
「それでも未だ厳しさは軽減されないかも知れない」
 土師尾常務は調子に乗るのでありました。そんな土師尾常務の芝居じみた深刻顔から、社長と日比課長を除いた全員が、呆れてこれ以上会話を続けるのもうんざりだと云うような顔をして目を背けるのでありました。
「じゃあ、待遇とは別の件として、一体誰と誰の首を斬る気でいるんですか?」
 袁満さんがうんざり顔の儘もう一つの問題を持ち出すのでありました。
「勿論こちらとしては全員会社に残って欲しいと云う気持ちはある」
(続)
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あなたのとりこ 630 [あなたのとりこ 21 創作]

「そう云う勿体ぶったまどろっこしい云い回しは抜きにして、要するに誰と誰を会社から追い出す心算でいるんですか?」
「そんな云い方はないだろう。袁満君が考えている程こちらも非情ではないよ。どうして猜疑の目でしか見る事が出来ないんだ?」
「だから!」
 袁満さんは例によって例の通りの土師尾常務の話し振りに苛々して、眉根を寄せて聞えよがしの舌打ちをするのでありました。「そっちの妙な方向に故意に話しをはぐらかさないで、端的に誰と誰なんですか?」
「袁満君は僕の事を一体どういう風に思っているんだ? 僕だって会社の将来像と社員の事を真剣に考えて、僕なりに誠実に対処しようとしているんだ。僕は僧侶と云う顔も持っているんだから、誤解に基づく変なイメージであんまり見ないで欲しいな」
「はい々々判りましたよ。で、誰と誰ですか?」
 袁満さんはげんなりして土師尾常務から目を背けるのでありました。
「俺と那間さんは勿論、辞めさせる口に入っているんでしょう?」
 土師尾常務の本筋から完全に脱線した無関係で身勝手窮まる抗議をこれ以上続けさせないためか、均目さんが言葉を差し挟むのでありました。
「まあ、自分から辞めたいと申し出ているんだから、こちらが辞めるなとは云えないだろうね。それは均目君と那間君の自由意志なんだから」
「何となく無責任な云い草に聞こえるけど、ま、こちらの意志を曲がりなりにも尊重していただけるようだから、その点は感謝しますがね」
 均目さんは土師尾常務に憫笑とも取れる笑いを投げるのでありました。
「勿論あたしにも、辞めないでくれとは云わないんでしょうね」
 那間裕子女史も続くのでありました。
「君達二人が営業社員として会社に残りたいと云うのなら、考えるよ」
「まっぴらご免だわ」
 那間裕子女史は哄笑するのでありました。「残ってくれと懇願されてもお断りよ」
「懇願する気は毛頭ないよ、その点は安心してくれ」
 土師尾常務は薄ら笑いを浮かべて那間裕子女史を挑発するのでありました。
「それは良かったわ」
 那間裕子女史も負けまいとして鼻を鳴らして見せるのでありました。
「序にここで話しておくけど、この二人が辞めると云うのだから、制作部の廃止の話しはこれで自然に解決、と云う事になる訳だな」
 土師尾常務は、これは実に思う壺だと云う風に畳みかけるのでありました。
「本当に自社製品を棄てて仕舞う心算なんですか?」
 袁満さんが念を押すのでありました。
「営業的に見て、制作部を存続させても、もう売れる製品は生み出せないだろうからな。今ある書籍や地図類の版権を売れば、多少は急場を凌げるだろうし」
(続)
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あなたのとりこ 631 [あなたのとりこ 22 創作]

 土師尾常務は冷ややかに応えるのでありました。
「あたしも辞めさせられるしね。まあ、均目君が辞めると云い出したのはちょっと目算外れで、営業社員としてこき使いたかったのかもしれないけど」
 那間裕子女史はもうすっかり、生一本で会社を辞めると決めているようであります。

 土師尾常務の目が一瞬頑治さんに向けられて、目が合う寸前にすぐに逸らされるのを認めて袁満さんが土師尾常務に訊くのでありました。
「唐目君はどうなるのですか?」
 自分の名前が出たものだから、頑治さんは土師尾常務の眼鏡の奥の目を改めて見つめるのでありました。体面上土師尾常務は頑治さんの方にちゃんと顔を向けてはいるものの、しかし微妙に視線は逸らしているのでありました。
「唐目君は業務要員として残って貰う心算でいる」
「真っ先に唐目君を辞めさせたかったのではないのですか、唐目君の仕事は特別の専門職と云う訳ではないから、誰でも出来るとか云って?」
「しかしここ当面、倉庫を管理する者は必要だし、唐目君は倉庫の整理整頓とか車庫周りの美化とかその辺の手抜かりはないし、配達や発送業務は慣れているし実にそつがないようだし、そこを鑑みて私が残って貰う方が良いんじゃないかと提言したんだよ」
 これは土師尾常務ではなく社長が云う言葉のでありました。
「製作仕事にしても、何に付け仕事の飲み込みは早いし、気が利くし確実だし、前に居た片久那制作部長の覚えも目出度かったから、会社には必要な人材だと思いますよ。まあ、会社を辞めていく俺が太鼓判を押しても無意味かも知れませんけどね」
 均目さんが頑治さんを持ち上げて見せるのでありました。「常務としては片久那制作部長の覚えが目出度かったから、返って唐目君が目障りなのかも知れませんけどね」
「僕は均目君が思っている程狭量ではない心算だよ」
 土師尾常務は不愉快そうに云うのでありました。
「じゃあ袁満君はどうなの?」
 那間裕子女史が土師尾常務に訊くのでありました。「会社に残って貰いたい人材なの、それとも辞めて貰いたいと考えているの?」
「はっきり云って残って貰ったとしても、袁満君の遣る仕事は、新しい体制で再出発しようとする会社の中には何もないよ」
 この土師尾常務の科白を聞いて、そう云う風に云うだろうと予てから推察は付いていたのでありましょうが、それでも袁満さんは露骨に嫌な顔をするのでありました。
「日比さんはどうなるのですか?」
 袁満さんは自分の事はさて置いて、日比課長の処遇を訊ねるのでありました。
「日比君は今の儘では頼りない限りだけど、もっと奮発してくれることを期待して、残って貰おうとは思っている。まあ一応得意先を何軒か持っている事だし」
 その言を聞いて日比課長は目立たないように眉根を寄せるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 632 [あなたのとりこ 22 創作]

「じゃあ、社長と常務の考える会社の新体制の人員と云うのは、社長と常務の他には日比さんと甲斐さんと唐目君の三人、と云う事になるんですね?」
 袁満さんが不愉快そうな顔をして確認するのでありました。「で、その三人の賃金は今の基本給の二十パーセントをカットして、住宅手当がなくなって、その上に今年の年末一時金は払われない、と云う事になるのですね?」
「そう云う事になるかな」
 土師尾常務は深刻顔で一つ頷くのでありました。
「と云う事だそうだよ」
 袁満さんはそう云って日比課長と頑治さんと甲斐計子女史の顔を順に見渡すのでありました。それから土師尾常務に向かって聞えよがしの溜息を吐いて見せるのでありました。しかし袁満さんは自分も余計者とはっきり宣言されたのが内心なかなかの痛手であったようで、云い草にどこか悲痛な感じが籠っているのでありました。
「話しにならないですね」
 頑治さんが土師尾常務の顔を睨み付けながら吐き捨てるのでありました。「社長や常務は従業員を一体何だと思っているんですか。そんな自分達にだけ好都合な決定が、すんなりまかり通ると本気で考えているのですか?」
「いや、これは提案であって決定ではないし、この提案を有無を云わさず押し付けると云っているんじゃない。こちらの正直なところを打ち明けて、君達と真摯に話し合いたいと云っているんだよ。そう云う中から双方が受け入れられるところを見付けたい訳だ」
 社長がいやに柔らかな語調で云うのでありました。
「そんな提案とやらは即座に拒否しますよ」
 頑治さんは取り付く島もないと云った風に断じるのでありました。
「提案と云いながら、結局はゴリ押しする肚心算でしょう」
 袁満さんが鼻を鳴らすのでありました。「そう云うお為ごかしにまんまと乗ると思っているんですか。随分と嘗められたものだな」
 社長はこの袁満さんの言を無礼と感じて一瞬険しい顔をして不快感を眉間に表わすのでありましたが、しかしここはグッと堪えて怒りを肚の中に呑み込むのでありました。
「何だその不謹慎な云い草は!」
 そんな社長の心情を察して、ここは忠義の見せどころと、横の土師尾常務が例に依って背凭れから身を起こしてしゃしゃり出てくるのでありました。
「いいですよ、例によってそんなに意気込まなくても」
 袁満さんが舌打ちするのでありました。「そんなに一々突っかかってこなくても、社長はちゃんと家来のご忠節ぶりはご存知でしょうから」
 この言葉に日比課長を除く従業員全員が失笑するのでありました。土師尾常務は何となく引っ込みがつかなくなったのか、もっと何やら喚こうとするのでありましたが、ここでも社長からまたもやまあまあと手で制されて仕舞うのでありました。
「それでは君達の考える会社の生き残り策とか、待遇面の提案を聞かせてくれるか?」
(続)
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あなたのとりこ 633 [あなたのとりこ 22 創作]

「誰も会社を辞めないし、制作部もその儘存続させるし、ウチが持っている本類や地図類の版権も処分しない。それから春闘でやっとかち取った我々の待遇も変更をしない、と云うのが我々の基本的なスタンスです。下手な妥協はあり得ません」
 袁満さんが断固として云い放つのでありました。
「それは絶対無理だと、従業員に開示する必要もないのに売り上げの実績を示して、真摯にこちらが話しているのに、一体今迄何を聞いていたんだ袁満君は!」
 土師尾常務がいきり立つのでありました。
「それだって、要するにそちらにだけ好都合な数字を適当に並べたものでしょう」
 袁満さんは取りあわないと云った態度でありました。
「いや々々、そうじゃないよ。現実にその数字通りに厳しいところだよ」
 社長がソファーの背凭れから身を乗り出して、掌を横に大きく振って見せるのでありました。何が何でもここは引けないと云うところでありますか。
「では訊きますけど、若し仮にその如何にも大袈裟に水増ししてあるらしき数字を、実感から一定程度認めるとして、そうなった責任は我々従業員だけにあるのですか?」
 袁満さんは社長の顔を一直線に見ながら訊くのでありました。
「勿論君達の万事に無責任で、何が何でもと云う真剣さに欠けた仕事態度が主因だと思う。そうは思わないのか自分達で?」
 土師尾常務が息巻くのでありました。
「常務の仕事態度とか、従業員をげんなりさせるだけの言動とかは全く問題にならないのですか。それに自分の会社だと云うのに、その運営に深く関わろうとはしなかった社長の今迄の在りようとかも、全く問題にはならないのですか?」
「それはそう云われて反省するところがない事もないけど、しかし大半は君達の好い加減で怠慢な仕事振りにあると僕は確信している。僕は僕なりに懸命に会社のために働いていると云う誇りがあるよ。少なくとも君達よりは余程」
 土師尾常務は抜け々々とそう云い放つのでありました。
「ああそうですか。しかし片久那制作部長が居た時はすっかり片久那制作部長に仕事も会社内部の管理も任せっきりだったし、だから取締役になる前から出社時間も守らなかったし、仕事だと称して外に出たら必ず直帰して会社に戻って来る事もなかったし、残業時間も片久那制作部長の残業時間を目安にして、直帰した時の分迄も水増しして、片久那制作部長と同じくらいになるように勘定して、残業代をあくせく稼いでいましたよね」
 これは均目さんが云うのでありました。もう会社を辞めるとなったら土師尾常務への遠慮なんぞもすっかりなくなって、云いたい放題が出来ると腹を括ったのでありますか。
「何を根拠にそんな好い加減な事を並び立てているんだ!」
 土師尾常務は社長の前で痛いところを指摘された事にたじろいでか、身を震わせながら均目さんに向かって声を荒げて見せるのでありました。
「それどころか仕事時間中に全くの私用で副住職を務めている千葉の寺に行ってアルバイトをしていたりとか、他にもあれこれインチキ社員振りはネタが上っていますよ」
(続)
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あなたのとりこ 634 [あなたのとりこ 22 創作]

「残業代の水増し請求の件は春闘の時に既に暴露されていたけど、他にもあれこれともっとみっともない不正を我々はしっかり掴んでいるんだから、これ以上抜け々々と偉そうな口は叩かない方が寧ろ賢明だと思いますがねえ」
 均目さんは憫笑を頬に浮かべるのでありました。
「何を根も葉もない事を偉そうに喚いているんだ。僕は自分の良心に照らして、恥じ入らなければならないような事は絶対にしてはいない!」
 土師尾常務は大声で喚くのでありました。しかしその様子はと云えば、先ずは瞬間はっきりたじろぎを見せて、その後慌ててそれを繕うように言葉付きもどこかたどたどしく、顔を引き攣らせながら逆上していると云った具合でありましたか。
「で、常務と社長の責任はどう考えているんですか?」
 袁満さんが土師尾常務の狼狽に付け入るように訊くのでありました。
「君等の怠慢に比べれば、僕の責任なんてちっぽけなものだ!」
 土師尾常務は益々みっともない所へ自ら陥っていくのでありました。

 そんな土師尾常務を冷ややかな横目で見て、社長が喋り出すのでありました。
「確かに私は下の紙商事の社長業に比べれば贈答社の方はそんなに熱心ではなかった。それは認めるよ。紙商事は私が汗をかいて一から創った会社だけど、贈答社は前身の地名総覧社を、立て直してくれと云う債権者の要望を受けて経営を引き受けた会社だから、それは確かに親身さが違っていたし、社業の内容よりは経営的側面で関われば良いかと云う思いもあったからね。実質的な会社の運営とか社員の採用とか配置とかの人事は土師尾君と片久那君にすっかり任せて仕舞っていたよ。その辺は僕の怠慢であったと思うよ」
「ではそれに対して社長は、どのような責任をお取りになるお心算ですか?」
 袁満さんは土師尾常務に対する時よりは丁寧な言葉つきで訊ねるのでありました。
「勿論その応えとしては、社長としてもっと贈答社の社業に身を入れると云う事になるのだが、君達がそんなのは責任の取り方と云う点で応えになっていないと云うのなら、私は最終的には贈答社の経営から手を引いても構わないとも思っている」
 社長はごく冷静な口調で云いながら袁満さんを半眼に見るのでありました。これは社長の、一種の脅しに違いないと頑治さんは聞きながら思うのでありました。つべこべ云うのなら会社を放り出しても構わないのだぞと、露骨に恫喝しているのであります。
「会社の経営から手を引くと云うのは、社長を辞めると云う事ですか?」
 袁満さんは首を傾げながらそう訊き返すのでありました。
「まあそう云う事だ」
「それは社長として無責任でしょう」
 袁満さんは眉宇に憤怒を湛えるのでありました。「この先社員が路頭に迷う事を一顧だにしないで、そんなに簡単に綺麗さっぱり会社の経営からに身を引けると、本気で考えているんですか社長は? そんな呆れた責任放棄は絶対許しませんからね!」
 袁満さんの剣幕に、社長は少し気後れする仕草を見せるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 635 [あなたのとりこ 22 創作]

「いや、別に無責任に会社を放り出すと云っているんじゃないよ。君達がそうする事が私の責任の取り方だと云うのなら、私は社長と云う立場に恋々とする心算はないと云っているんだよ。私だって社員に対する社長の立場はちゃんと弁えているよ」
「それならどのように責任を取る心算なんですか?」
「さてそれなんだが、・・・」
 社長は顎に手を添えるのでありました。「今年一杯私の報酬を全額カットと云う事にしたい。まあ尤も私は、社長としての報酬は大して貰っていないけどね」
「大して貰っていないのなら、つまり他の報酬もふんだんにある事だから、ウチの社長報酬を貰わなくても、大して応えもしないと云う事ですか?」
 袁満さんは可愛気のない事を云うのでありました。「社長の報酬全額カットより、我々の賃金二十パーセントカットの方が、生活が立ち行かなくなると云う点で、余程深刻だと云うものですよ。そうは思いませんか、社長?」
「それならウチの仕事の他に何かアルバイトでもしたらどうだろう。それは認めるよ」
「またそんな、無責任な事をあっけらかんと云う」
 袁満さんは声を荒げるのでありました。「真面目に応えてくださいよ」
「いや、ウチで出す賃金では生活が出来ないと云うのなら、他でアルバイトをする事を認めると、私は真面目に云っているんだよ」
「よくそんなふざけた事をしゃあしゃあと云えますね。無神経にも程がある」
 袁満さんは疲労感たっぷりに溜息を吐くのでありました。
「今迄多少はもの分かりの云い社長のふりを演じてきたけど、ここにきて万事に自己中心的で他人の事なんか頭の隅にもない土師尾さんと、社長も大して違わない人間だと云う事を証明したようなものね。遂に馬脚を現した、と云うところかしらね」
 那間裕子女史が鼻を鳴らすのでありました。
「まあしかし、ない袖は振る気があっても振れないからねえ」
 社長は軽口のように云ってニヤニヤと笑って見せるのでありました。もうすっかり体裁屋の顔を返上して判らずやの頓珍漢社長に変貌して開き直っているのでありましょうか。変貌と云うよりは、ひょっとしたらこの顔が本来の正体と云う事でありましょうか。
「で、それなら土師尾常務の責任の方はどうなんですか?」
 これは均目さんが訊くのでありました。
「人の責任をあれこれ追及しようとする前に、自分達の贈答社社員としての無責任ぶりをはっきりさせるべきじゃないのか?」
 土師尾常務が眉間に怒りを湛えて怒鳴るのでありました。
「やれやれ、ですね。これじゃあ昨日の会議と同じで中味のない話し合いですかね」
 均目さんが呆れ顔をするのでありました。「袁満さん、矢張り常務の誘いに乗ってこうしてもう一度全体会議をやったけど、単なる徒労でしたね」
 均目さんにそう云われて袁満さんは渋い顔で何度か頷いてから、徐に頑治さんの方に恨めしそうな視線を投げるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 636 [あなたのとりこ 22 創作]

「どうする、唐目君?」
「要するに賃金が二十パーセントカットで、住宅手当も出さないし、甲斐さんと袁満さんと均目さんは会社を辞めろと云う事ですね、社長と常務の考えは?」
 頑治さんは先の袁満さん同様、社長の提案を整理するのでありました。
「そう云う事になる」
 土師尾常務が厳めしい顔で断固云うのでありました。そんな土師尾常務を尻目に頑治さんは社長の顔を凝視するのでありました。
「その考えを変える余地は全くないのですかね?」
「一切ない。君達が受け入れるか受け入れないか、どちらかを選択するだけだ」
 ここでも土師尾常務がどうしてもしゃしゃり出て来るのでありました。
「常務に訊いているんではなく、社長に訊いているんです」
 頑治さんは全く目を動かす事なく一直線に社長の怯みを湛えた顔をじっと見た儘で、しかし言葉は自土師尾常務に向けて強く云うのでありました。
「基本的には私も土師尾君と同意見だ」
 社長はたじろぎながらもそう呟くのでありました。
「基本的だか応用的だかは知りませんが、つまり先程念を押したような考えを、全く変える気はないと云う事ですね?」
 頑治さんが目を動かさないでそう訊くと、社長はもじもじと身じろぎしてからふと頑治さんから目を逸らして空咳き等するのでありました。そんな社長の窮地に先程の頑治さんの一言に怖じたのか土師尾常務は何時もの出しゃばりを封印して、何の助け舟も出さないのでありました。ま、肝心な時にてんで頼りにならない御仁でありますから。
「残った社員に対しては、賃金面で多少は考慮しても良いとは思うよ」
 社長は気弱そうな小声で諂うように云うのでありました。
「そんな言辞で、それでは残ります、と云うと思うのですか?」
「唐目君も会社を辞めると云うのかね?」
「社長の考えをお聞きした限り、残る気はすっかり失せましたね」
「辞めると云うのなら仕方がないな。それじゃあ甲斐君はどうするかね?」
 社長は甲斐計子女史に視線を向けて、残るか去るか問うていると云うよりは、去ると云う返事をするのを要望するような云い草で訊くのでありました。
「どうせ残ったとしても何だかんだとつれなくされたり厄介事を押し付けられたりして、結局居づらくなって辞めるように仕向けられるのは、今から判り切っているわね」
「じゃあ、甲斐君も辞めるのだね?」
 つべこべあやふやな云い回しはしないでたった一言辞めると云えば事足りる、と云うような喧嘩腰の語調で社長は念を押すのでありました。甲斐計子女史はその社長の情の欠片もない態度が癪に障ってか、何も返事しないでそっぽを向くのでありました。
「日比君はどうするんだ?」
 社長は今度は日比課長に矛先を向けるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 637 [あなたのとりこ 22 創作]

「私は残りますよ」
 日比課長は結構きっぱり返事するのでありました。「ここを辞めて新しい仕事を見付けるのも、こういう不景気なご時世ですからなかなか難しいだろうし、私の稼ぎを当てにしている家族もいる事だし、そうあっさりと辞める訳にはいきませんからねえ」
「成程ね。それは賢明な判断だろう」
 ここでやっと出現した自分に従順な社員に対して、社長は優越者としての余裕と嘲りの入り混じった笑みを送るのでありました。その社長とは対照的に袁満さんは裏切り者に対する憎悪の視線を、鼻梁に寄せた皺に乗せて送るのでありました。
 しかしまあ、袁満さんの気持ちも判りはするのでありますけれど、日比課長の判断も尤もなところだろうと頑治さんは思うのでありました。家族がいると云う事を考慮すれば、そうは軽々に会社を辞めて仕舞う訳にはいかないでありましょう。
「それでは、会社に残るのは日比君だけなんだな?」
 土師尾常務が高圧的な語調で念を押すのでありました。自分達に同調する殊勝者がようやく表れて、勢いを取り戻したと云った風でありますか。
「甲斐君は本当に辞めるのか?」
 これは社長が顎に指で撫でながら甲斐計子女史に訊く言葉でありました。古株で地名総覧社時代から会社にいる甲斐計子女史に向かって、情義に於いて言外に会社に残って欲しいと懇願している訳では更々なくて、この期に及んで散々世話になったこの自分の温情を無にする心算かと、半分脅しているようなニュアンスでありましたか。
 そう云われて甲斐計子女史は弱気を見せるのでありました。
「未だ辞めると決めた訳じゃ、・・・」
「ほう、じゃあ、辞めないんだね?」
「・・・少し考えさせてください」
 この甲斐計子女史の未練を見せる態度も、袁満さんにとっては自分達の総意に対する裏切りと思えたでありましょう。甲斐計子女史を見る視線に刺々しさが表れるのでありました。しかし社長と土師尾常務にとっては、思う壺と云ったところでありましょうか。
「もうこの会議は止めましょう」
 袁満さんは投げ遣りに云うのでありました。
「未だ結論は出ていないのに、ここで止めると云うのか?」
 土師尾常務が従業員側の意志統一の乱れに付け込むように、身を乗り出しながら高飛車な調子で云うのでありました。
「改めて話しましょう。こちらとしても、これまでの経緯に対する全総連の助言も受けたいし。結局労働争議に持って行く他ないような気がしますしね」
「辞意を表明している人や、こちらの条件を呑んで会社に残りたいと表明している人を除くと、袁満君と唐目君の二人しか、全総連を絡めて労働争議に持って行きたいと云う者はいないじゃないか。それでも争議する心算かい?」
 土師尾常務はここでようやく勝ち誇ったような笑みを浮かべるのでありました。
(続)
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