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あなたのとりこ 595 [あなたのとりこ 20 創作]

「常務のお眼鏡に叶わないと云う点は慎に申し訳無いところです」
 均目さんはちっとも申し訳無いとは思っていない顔でしれっと云うのでありました。
「そうやって態と僕の言葉を茶化そうとしているが、要するにそれは負け惜しみのひねくれた表現で、本心は敗北感と悔しさで一杯なんだろう」
 土師尾常務は自分をあくまでも侮るような態度をとる均目さんの魂胆を、さもしたり顔で分析して見せるのでありました。それに対して均目さんは思わず、と云った風にちょいと吹いて見せて、対抗上こちらも更々応えていないところを見せようとするのでありました。これは見ように依ってはなかなか面白いジャブの応酬、と云うものでありますか。
「ところで、売り上げの比較表の方はどうなっているんです?」
 土師尾常務と均目さんの鞘当て応酬合戦を仲裁する、或いははたまたこれ以上聞くに堪えないと思ったのか、日比課長がそんな言葉を差し挟むのでありました。
「そうそう、無意味で何も得るところのないつまらない意地の張り合いみたいな事はどうでも良くて、そろそろ話しを本題に移して貰えるかな、二人共」
 社長は土師尾常務と均目さんを先ず交互に見て、次に土師尾常務の方に遣った目をそこに固定するのでありました。「特に土師尾君は均目君より歳上なんだし、おまけに取締役であり上司なんだから、もう少し弁えて大人の対応をしても良いんじゃないのかな」
「・・・、判りました」
 土師尾常務はそう呟いて一応社長の訓戒を受け入れるのでありました。しかしその表情には、ここで均目さんを恐縮させる事もなしに自分の方が引き下がるのは、全く以って不本意で道理に合わないではないか、と云った不満が滲み出しているのでありました。
「確かにこの前期との売り上げ比較を見ていると、会社は相当危ないところにあるとも云えますよね。まあ、誰が悪いとか、その辺はこの際置くとしても」
 日比課長は顎を撫でつつ社長の前に置かれた紙を覗き込むのでありました。
「そう云う事だ。早急に対策を打たないとこの儘では会社解散は免れないと思うよ」
「会社が解散して明日にも失業するような事態よりは、待遇が少しくらい落ちても、何とか会社が存続する方が未だマシかな」
「私も、つまり敢えて厳しい事を云うようだけど、皆さんのためにはこの四月からの賃金や待遇をここでもう一度見直して、会社を何とか存続させる事が出来るように、方向転換する方が賢明な選択だと考える。そうは思わないかな皆さんは?」
 社長はここでゆっくりグルっと、この全体会議出席者全員の顔を値踏みするように見渡すのでありました。ようやく自分の思っていたペースに会議を誘導出来たと云う、一種確信犯的な太々しさがその目の中に仄かながらくっきり見えるのでありました。

 この場に居る全員が一様に深刻そうな面持ちで、口をへの字に結んで俯いたり天井の一点を見つめたりしながら、身動きを忘れて重苦しい沈黙を保っているのでありました。
「待遇を今年の春闘前に戻す、と云う事ですかね?」
 袁満さんが警戒心を露わにしながら先ず言葉を発するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 596 [あなたのとりこ 20 創作]

「そうして貰わなければ会社の存続が危うくなると云うのは、この報告書の数字から明白だろうね。この危機はかなり差し迫ったものと云うしかない」
 社長は眉間に皺を寄せて、さも深刻そうに囁くのでありました。
「何だか会社存続の危機を云い募る事で、要は従業員の賃金や待遇を落とそうと云う策謀と考えられなくもないわね、その芝居じみた顔や云い方を聞いていると」
 ここで那間裕子女史が喋り出すのでありました。「この会計報告書にしたって、春闘の時には出してこないで、如何にも急拵えにこの局面で出してくると云うのも、何だか社長の秘かな策略を疑わせるに十分、と云わざるを得ないのじゃないかしら」
「何て事を云うんだ那間君は!」
 ま、お決まりにここで土師尾常務が大変な剣幕で出張ってくるのでありまいた。「社長は真摯に会社の危機を訴えていると云うのに、そのふざけた云い草は何だ!」
「社長は春闘の時に散々組合に遣り込められた意趣返しに、売り上げの低迷をちゃっかり利用して、春闘での決定事項をここで反故にして遣ろうとしていると推理するのは、強ち不自然でもないし、そうやって土師尾さんが一々過敏に目くじらを立てるのも、その秘かな目論見の発覚を恐れての事だと疑う事も出来るんだけど、どうかしら?」
「何なんだその云いがかりは!」
 土師尾常務が一気にヒートアップするのでありました。「云うに事欠いて、那間君は何て下らない聞き捨てならない悪態をついているんだ!」
「まあ土師尾君、ここは冷静に」
 社長がまた掌を下にしてそれを腕ごと何度か土師尾常務の胸の前で縦に振って、宥めにかかるのでありました。「私はあくまでも道理を尽くして、率直に会社の現状を説明しているんだから、そうやって一々興奮して横から大声を出されると困るよ」
 社長にそう窘められて土師尾常務は一応は口を閉じるのでありましたが、未だ昂奮抑え難いように、肩を上下しながら荒い息遣いを見せているのでありました。
「しかし社長、そうはおっしゃいますけど、出し抜けに一方的にこんな報告書なんかをここで持ち出してきて、かくかく然々なんて一方的に云い募られても、こちらとしては成程左様でございますかと、俄かには首肯出来るものじゃない、と云うのも道理でしょう」
 均目さんが荒い息遣いの土師尾常務には態と目もくれないで、やや下から、社長一人の顔を凄みを利かせてゆっくりと睨め上げるのでありました。社長はいざ知らないけれど、頑治さんはそんな均目さんの目付きに対して然程の迫力は感じないのでありました。
「しかし、この報告書は掛け値なしの真実の報告書なんだし、この数字がどうしても信用ならないと云うのなら、近い内にこれを作成して貰った会計事務所の公認会計士さんを呼んで、説明をそちらからして貰っても構わないよ」
 社長は睨め上げる均目さんをちょっと見苦しそうな薄目をして見下ろしながら、努めて冷静な語調で返すのでありました。
「是非そうしていただきたいですね。しかし社長と会計士さんが結託して、適当に丸め込まれるのも癪だから、その時にこちらも専門の人を呼んでも構わないですよね?」
(続)
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あなたのとりこ 597 [あなたのとりこ 20 創作]

「専門の人、と云うのはどう云う人の事かな?」
 社長は少しの警戒心を見せるのでありました。
「お察しのお通り組合の上部団体である全総連の、経理の専門家ですよ」
「労働組合にそんな専門家がいるのかね?」
「そりゃいますよ、勿論。これ迄に色んな企業であった経営側の色んな悪巧みをあれこれ熟知していて、その対抗策をサポートしてくれたり、態と判りにくく書かれた会計資料なんかをちゃんと読み解くのを専門にする、全総連専従の職員ですよ」
 均目さんのその説明を聞いて社長は既にもう自分の邪な謀を暴かれて仕舞ったような、慎に嫌そうな表情をするのでありました。
「あくまで社内会議の体裁なんだから、社外の人が参加するのはどうかと思うけど」
「だって社長の方も、ウチの社の人ではない会計事務所の会計士さんを呼んで説明して貰おうと云うんですから、その論法は通用しませんよ」
 均目さんはそんな云い草は端から相手にしない、と云うような、社長に対するものとしては慎に不謹慎な不敵な笑みを浮かべてゆっくり首を横に振るのでありました。
「いやそれは、私や土師尾君が説明するより信憑性が増すだろうとの配慮から、敢えてそうしようかと提案した迄だよ、つまり。ま、私や土師尾君は君達にあんまり信用がなさそうだからね。勿論会計士さんの説明は必要がないなら、それでも別に構わないし」
 社長はそう云って皮肉な笑いを頬に刻むのでありました。
「じゃあ、その社長の押す会計事務所の会計士さんの説明の時に、こちらが押す全総連の人も同席する、と云うのはどうですか? その方が手っ取り早いと思いますけど」
「いや、外部の組合の人が来るのなら、会計士さんの説明の話しは無しだね」
 社長は自分の方から云い出した提案をつれなく取り下げるのでありました。
「その会計士さんでは組合運動の手練れに、太刀打ち出来そうにないからかしら」
 那間裕子女史がここで挑発的なちょっかいを出してくるのでありました。
「部外者の会計士さんを団体交渉みたいなものに、態々同席させる必要はないと云っているんだよ。会計士さんにしたって迷惑千万な事だろうし」
「でも組合の団体交渉ではなく、あくまでも全体会議の体裁だし」
 袁満さんも那間裕子女史に次いで参戦するのでありました。
「労働組合の人が同席するなら、それはもう全体会議じゃない」
「あくまでもオブザーバー参加ですよ、その会計士さんにしても同様でしょう?」
「外部の労働組合の人が参加すれば、それはもう全体会議とは云えない」
「だからあたしは、社内の全体会議と云う形じゃなくて、労働組合事案として団体交渉と云う形式の方がベターだと云っていたのよ」
 那間裕子女史がそう云って、社長の口車に乗ってこの会議を全体会議と云う形にミスリードした犯人たる均目さんをジロと睨むのでありました。均目さんはその那間裕子女史の視線に気付いたのか気付いていないのか、女史の方に目を向ける事はなく、腕組みして如何にも難しそうな顔をして口を尖らせているのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 598 [あなたのとりこ 20 創作]

 この会議に於いて均目さんと那間裕子女史は、連携を取って言葉を社長と土師尾常務に投げかけているようでもあると、頑治さんはうっすら思ったりしていたのでありました。と云う事は、頑治さんのアパートに泥酔した那間裕子女史が表れて、それを均目さんが介抱しながら引き取っていったあの一件後、その経緯はさっぱり判らないながらも一応目出度くも仲直りをした、と云う事になるのでありましょうか。で、ちゃんと仲直りして一件落着の後に、この全体会議に二人して臨んでいると云う事になるのでありましょうか。
 しかし今の那間裕子女史の均目さんを見る目とその恨み言から察すると、未だ二人の間の蟠りはちっとも解けてはいないようにも見えるのであります。あの一件後にこの二人はどう云う風に互いの気持ちを整理整頓したのでありましょう。ま、今の全体会議の話しの流れとは全く無関係ながら、頑治さんをそんな事を秘かに考えているのでありました。

 社長はソファーの背凭れにふんぞり返るように身をあずけて、均目さんの顔を忌々しそうな目をして睨むのでありました。
「均目君は元々、組合と我々の団体交渉と云う形ではなく、社内の全体会議と云う形に賛成だった筈じゃなかったかね?」
「まあそうでしたけど、社長が外部の経理の専門家を呼んできて、その人に我々の説得を依頼すると云うんですから、そうなると話しは違ってきますよ。我々としても一方的に社長の側に立った計理士さんに縷々説得されると云う構図は、これは如何にも拙いから、こちら側も経理の専門家を呼んできて、同等の立場で対抗するしかないじゃないですか」
「いや、どうしても経理士さんを呼ぶと云っているんじゃないよ。君達が私や土師尾君の説明ではすんなり納得出来ないと云う事らしいから、それなら、と云う事だよ。別に私や土師尾君の説明で構わないのなら、計理士さんの手を態々煩わせる必要はないよ」
 社長は別に懇意の計理士に従業員に説明と説得を依頼すると云う事に、殊更拘っていると云う事ではないのでありました。まあ、会話の流れから、そう提案をした迄で、特に予めそのように図っていたのではないのは頑治さんも得心するところでありましたか。
「じゃあ、まあ、経理士さんを呼ぶとか呼ばないとかはこの際置いて、話しを前に進めましょう。つまり社長と土師尾常務はこの会計報告を出す事に依って、その次に用意してあるであろう忌憚のない具体的な解決策を、曖昧にしないで、それにあんまり粉飾したり、脅かし効果を秘かに狙ったりしないで、率直に明快に話していただきましょうか」
 均目さんが社長の顔を見ながら仕切り直しの心算でそう云うのでありました。
「まあ、はっきり云えば、君達の待遇を見直したいと云う事だ。他の会社や他の組合との釣り合いと云う観点ではなく、我が社の身の丈と現状に合った待遇に改めないと、もうどう仕様もないところに来ていると云う危機感を、君達にもちゃんと持ってもらいたいと云う事だよ。はっきり云ってそうしないと、君たちは失業の憂き目を見る事になる」
 社長はこの科白が、均目さんに脅しの効果を狙ったけしからぬものと受け取られないように、何となく深刻らしさと懇願の調子を語句の端々に散りばめるのでありました。
「失業の憂き目、ですか?」
(続)
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あなたのとりこ 599 [あなたのとりこ 20 創作]

 均目さんがその言葉に拘りを見せるのでありました。
「いや、脅しと取られたら不本意だが、しかしその収支報告書の数字を見れば、私の云っている事が冗談や下らない謀ではない事はちゃんと判るだろう?」
「そう云われるとまたこの報告書が、ちゃんと信用出来るものか出来ないものかの話しに戻って仕舞いますが、ま、それは一先ず置いておくとして」
 均目さんは皮肉な笑いを片頬に浮かべるのでありました。「話しを続けると、若しも我々従業員が待遇の見直しに応じない場合は、次にどう云う手を考えている訳ですかね?」
「そうなれば、こちらとしても避けたいところだが、人員整理、しかないだろうね」
「よく云うわ!」
 那間裕子女史が吐き捨てるのでありました。「先ず唐目君、その次にあたしを土師尾さんを遣って馘首しようと策謀していたくせに、何が次の手が、人員整理、なのよ。先ず人員整理があって、それがダメなら待遇の改悪、と云う肚でいたんでしょう。順番がまるで逆じゃない。社長が態とそんな誤魔化しを今更使うのなら、誠意を疑うわ」
「そのどちらが先か後かなんかは、大した問題ではないだろう」
 また土師尾常務がしゃしゃり出てくるのでありました。
「人員整理と云う方法が先か、それとも待遇改悪と云う方法が先かでは、少しそちらの誠実さのところに違いがあるような気がしますけどねえ」
 袁満さんが首を傾げるのでありました。
「ほう、どんな違いか、説明してくれるか?」
 土師尾常務は袁満さんを睨むのでありました。
「いや、言葉では上手く説明出来ないけど。・・・」
 袁満さんは土師尾常務の迫力に圧された訳ではないでありましょうが、腕組みしながら少し俯いて語勢を後退させるのでありました。
「まあいいや」
 均目さんが社長の方を向いて仕切り直すのでありました。「どちらが先でどちらが後かは知らないけれど、結局どちらか一方ではなく人員整理して後に待遇改悪も、待遇改悪して後に人員整理もと両方込みで策謀していたんでしょうからね」
 均目さんはそう云って自得するように一つ頷いて、また続けるのでありました。「結局じゃあ、人員整理、と云うのは、具体的には一体誰を整理する心算なんですか?」
 均目さんのやけに率直な問いかけに対して、社長はおどおどと目の玉を揺動させるのでありました。社長だけではなく土師尾常務も、この人の狼狽えた時のお決まりで、そわそわと落ち着き無く眼鏡の奥の目を微動させるのでありました。
「まあ、特定して名前を上げるのは気が進まないが、・・・」
 社長がそんなたじろぎを見せると、ここは仕方が無いながら社長への忠義の見せどころと覚悟してか、土師尾常務が珍しく気丈にも目の微動を収めるのでありました。
「それは僕の方から云わせて貰う」
 この場の皆の目がそう云った土師尾常務の顔に向けられるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 600 [あなたのとりこ 20 創作]

「まあ、そんなに凄まなくても、二人の候補の名前はもう知れていますけどね」
 均目さんも負けていないところを見せるために、眼容に精一杯の迫力と大袈裟な対抗心を込めて土師尾常務を見据えるのでありました。
「先ず唐目君で、その次があたしね」
 那間裕子女史が土師尾常務を喧嘩腰の目で見据えるのでありました。
「その通り」
 土師尾常務は何故かここで力強く頷いて見せるのでありました。「その心算で僕は半ば公然と動いていたので、別に誤魔化す必要もない」
「何だか開き直っているようですね」
 均目さんが皮肉っぽく笑うのでありました。
「開き直る必要すら、別にない。こんな窮状にある会社にとって、社業に不可欠ではない人から切るのは、それは経営として当然の判断だろう」
 この言に依ると頑治さんは会社で最も無用な人物として経営側から見られていると云う事のようであります。まあ確かに、頑治さんが今遣っている業務仕事は、云わば誰でも熟せるような単純労働で、高度の習熟度も専門性も必要のないものではありますか。
「唐目君は会社に必要ではない人だと云うのね」
 那間裕子女史が歯を剥き出すのでありました。「それに唐目君の次ぎには、このあたしが社員の中での厄介者と云う事ね」
「はっきり云えば、そう云う事だ」
 土師尾常務は如何にも遣りにくそうにではあるものの、この時は那間裕子女史から視線を外さないで、目玉の微動も極力抑えながら断言するのでありました。
「唐目君の真価を、それに那間さんの真価も、常務はまるで判っていないようですね」
 袁満さんが抗弁を開始するのでありました。「唐目君は前に片久那制作部長から大いに評価されていて、恐らく片久那制作部長は唐目君を将来、制作部の中心人物に育てようと云う気でいたんだと思いますよ。だから業務仕事の合間に、と云うか業務仕事は俺や出雲君が出張に行っていない時にはこちらに割り振って、制作部の手伝いとか自分の助手みたいな仕事をさせていたんですよ。それは常務も判っていたでしょう?」
「まあ、ぼんやりとは、判っていたよ。社内の規律上、苦々しくは思っていたけど」
 土師尾常務は顔を顰めて見せるのでありました。
「その時には片久那制作部長のそう云う遣り方に何の口出しも出来なかったくせに、今になって唐目君を余計者みたいに云うのは、一体どう云う了見からですか」
「別に口出し出来なかった訳じゃなくて、時期を見てきちんと云う心算だったんだ」
「そうかしら、今頃つべこべ言い訳しているけど、要するに片久那さんが畏れ多過ぎて、萎縮してとても云い出せなかったんじゃないの?」
 那間裕子女史が可愛気の欠片もなく嘲笑うかのように鼻を鳴らすのでありました。
「無礼な!」
 土師尾常務は全くお決まりにここで逆上するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 601 [あなたのとりこ 21 創作]

「無礼とかじゃなくて、正にズバリ、でしょう?」
 那間裕子女史が益々からかいの色を増した笑みを浮かべるのでありました。「ここに居る皆は、そんな事くらい昔からとっくにお見通しよ」
 この那間裕子女史の言に袁満さんと均目さんが同調して小さな笑い声を立てるのでありました。釣られて頑治さんも思わず笑おうとするのでありましたが、どう云うものか既のところで頬が動くのを抑えるのでありました。先程土師尾常務からこの会社で最も無用な社員とはっきり名指しされたようなものでありますから、その意趣返しと云う点からも、別に敢えて笑いを堪える必要はなかったかなと、堪えた後で思うのでありました。甲斐計子女史と日比課長も、ここで危うく失笑するのを堪えて無表情を貫くのでありました。
「それが目上の者であり上司に対する口の利き方か!」
 例に依って例の如く土師尾常務は激昂のご様子ではありますが、もう那間裕子女史にも袁満さんにも均目さんにも、その手は利かないのでありました。
「皆の心服をかち得た上でそんな事を云うのなら、それは皆も尊重もするし納得もするけど、単に短慮と勝手な目上意識だけで怒鳴り散らすような手合いは、相手にするのも億劫と云うものですね。何様の心算でいるのかと、軽蔑されるのがオチじゃないですかね」
 均目さんは余裕綽々と云った物腰で、ニヤけた顔付きをして云うのでありました。袁満さんもこの均目さんの言に賛同の笑い声を立てるのでありました。
「好い加減、その怒りん坊さんの作り顔も見厭きたし、その迫力不足の怒鳴り声も聞き厭きたわ。何か他の気の利いた芸はないのかしら」
 那間裕子女史は憫笑を湛えてはいるけれど、しかしながら、なかなかに土師尾常務如きでは及びもつかないような迫力のある、決して笑って等いない鋭い眼容を土師尾常務に投げ付けるのでありました。そうしてその目を今度はゆっくりと頑治さんに向けるのでありました。多分お前も何か云ってやれ、と要求しているのでありましょう。
 頑治さんは大いにたじろぐのではありました。しかしこの土師尾常務攻撃の急先鋒たる三人に比べて、自分は見事に一歩も二歩も出遅れたと云うような思いがあって、おいそれと那間裕子女史の指嗾に乗って土師尾常務攻撃に加わるのは、どことなく躊躇いがあるのでありました。何やらそれでは単なる浮ついたお調子者ではありませんか。
「何だ、その云い草は!」
 土師尾常務としては自分を堪忍出来ないくらい軽々しく扱う那間裕子女史に対して、精一杯の憤怒を表するのでありました。多分その内心の心臓のはち切れそうなおどおど感は別にして、ここは自尊心から引くに引けないころでありますか。
「話しの内容じゃなくて、言葉遣いとかにしかイチャモンをつけられないところも、もううんざりするくらいこれ迄に何度となく見せて貰ったわね」
 那間裕子女史には土師尾常務の怒りなど屁の河童と云うところでありましょうか、全く歯牙にもかけないような素振りであります。
「土師尾君、好い加減にしないか」
 社長が先ず土師尾常務を窘めるのでありました。「それに那間君も云い過ぎだ」
(続)
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あなたのとりこ 602 [あなたのとりこ 21 創作]

 喧嘩両成敗は仲裁とその後の手打ちの鉄則でありますから、勿論社長は那間裕子女史に対しても苦言を呈するのでありました。
「土師尾君のように一々喧嘩腰になっていたら話がちっとも前に進まないよ。それに那間君にしても、もう少し上司に対して弁えたもの云いをすべきじゃないのかね」
 社長にそう云われて一応は社長の顔を立てる心算か、那間裕子女史はちょろっと舌を出してから苦笑いして嘴を噤むのでありました。それに比べて土師尾常務の方は苦虫を噛み潰したような表情で、未だ何事か云いたそうに口をモグモグと動かすのでありました。この対比はまあ、一連のこの二人の遣り取りに於ける両者の気持ちの余裕の度合いを表しているのでありましょう。那間裕子女史の方が土師尾常務よりも、人の悪さとか抜け目なさとか性根の座り具合なんぞの点に於いて、一枚上手と云う判定になるでありましょうか。

 均目さんが社長の顔を凝視しながら云うのでありました。
「人員整理とか我々の待遇改悪と云う事を社長が対策としてお考えだと云うのは、勿論納得出来ませんが一応お伺いしました。その上でお訊きしますけど、こちらとして到底受け入れ難いそのような事を受け入れさせようと云う訳ですから、当然社長や常務の待遇と云う点に於いても、従業員以上に厳しいご処断をされるお心算があるんでしょうね?」
「我々だけに苦渋を嘗めさせてそれで済ます心算じゃあ、勿論ないですよね?」
 袁満さんも続くのでありました。
「どうせまた自分に好都合な事ばかり考えて、こちらには到って厳しく、自分達には甘々に事を収めようとしているんじゃないでしょうね」
 那間裕子女史も懐疑的な目を社長に向けるのでありました。
「それは敢えてここで、君達に態々云う必要なんかないだろう」
 土師尾常務が社長に代わって不機嫌な顔でこの三人の顔を見渡しながら無愛想に云うのでありました。「今日の話題はあくまでも従業員のこれから先の待遇の事なんだから」
「そんな一方的で、手前勝手な理屈がありますか!」
 袁満さんが声を荒げるのでありました。「これ迄の経営的責任を取って、社長と常務がその責任に見合うだけ身を切る心算でいるんだから、従業員も相応に痛みを分かち合ってくれないか、と頼むのが本来の筋と云うものじゃないですか」
「何を偉そうに袁満君は云っているんだ!」
 土師尾常務も負けないように声の調子を刺々しくするのでありました。「抑々経営責任なんかじゃなくて、君達の社員としての無責任と無気力と無能振りがこういう結果を招いたと云う点が、さっぱり判っていないようだな、袁満君は」
「ほう、それじゃあ経営責任と云うのは一切無いと云う認識ですか?」
 均目さんが皮肉な笑いを湛えて訊き質すのでありました。
「一切、とは云わないよ。つまり君達の怠惰な働きぶりをきちんと指導矯正出来なかったと云う責任は、深刻に反省しているよ」
 この土師尾常務の言に那間裕子女史が吹き出すのでありました。
(続)
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