あなたのとりこ 577 [あなたのとりこ 20 創作]
頑治さんはどうすべきか思いあぐねるのでありました。もう電車も動いていない時間でありますから、何とかして那間裕子女史の家迄送っていくと云うのも叶わない事でありますか。まあ、タクシーを使って、と云う手もありはしましょうが、それでは仕様が大袈裟に過ぎるようにも思われるのでありました。こんな頑治さんの困厄の視線にはまるでお構いなしに、那間裕子女史は昏々と本棚の前で眠り呆けているのでありました。
幾ら酒に酔い潰れてはいるとしても、一夜をこの部屋の内で女史と一緒に過ごして朝を迎えると云うのは、何やら非常に拙い事と思われるのであります。頑治さんは先程から夕美さんの顔を思い浮かべているのでありました。遠く離れていて頑治さんのこの窮状を知る由もないとしても、それを良い事にこの儘事態をうっちゃっておくと云うのも、夕美さんへの殊勝と云う点に於いて怠惰な裏切りを働いているようにも思うのであります。であるなら、さて、ここは一番、夕美さんの手前、どうすべきでありましょうか。・・・
頑治さんはふと思い付いて電話の受話器を取り上げるのでありました。この窮状打開には多分この手しかないと思うのであります。
呼び出し音二回で、もしもしと云う応答の声が返って来るのでありました。
「ああ均目君、夜遅く申し訳ない。もう寝ていたのかな?」
頑治さんは別に必要は全く無いのでありましょうが、寝ている那間裕子女史に憚りを見せて小声で話し掛けるのでありました。
「いや、未だ寝てはいないけど、しかし何だいこんな時間に?」
均目さんが訝るのは当然でありましょう。
「つかぬ事を訊くけど、さっき迄那間さん一緒だったよね?」
頑治さんがそう云うと電話の向こうで、均目さんの少しばかりたじろぐ気配がはっきりと伝わってくるのでありました。
「何でそんな事、唐目君が知っているんだろう?」
少し長い間が空いた後で均目さんが頑治さんの小声に呼応する程の、少し陰気な調子が混じった低い声で応えるのでありました。まあこの均目さんの返事が、つまり頑治さんの勘がすっかり当たっている事を見事に証明していると云うものでありますか。
「ふとそんな気がしただけだけど、図星かな?」
「ふとそんな気がしたので、態々確認するために電話をしてきたのかな?」
「いや、それだけなら、こうして電話なんかしないよ」
「じゃあ、どう云う訳でこの電話を掛けて来たんだろう?」
均目さんは頑治さんの少し持って回ったような云い草に機嫌を悪くしたようで、如何にも不愉快そうな口振りで返すのでありました。
「今、那間さんがウチに来ているんだよ」
この頑治さんの言葉に均目さんがすぐさま言葉を返さないのは、全く思ってもいない展開に大いに驚いて、言葉を一瞬失くしたからでありましょう。
「那間さんが、さっき迄俺と一緒だったと話したのかな?」
(続)
幾ら酒に酔い潰れてはいるとしても、一夜をこの部屋の内で女史と一緒に過ごして朝を迎えると云うのは、何やら非常に拙い事と思われるのであります。頑治さんは先程から夕美さんの顔を思い浮かべているのでありました。遠く離れていて頑治さんのこの窮状を知る由もないとしても、それを良い事にこの儘事態をうっちゃっておくと云うのも、夕美さんへの殊勝と云う点に於いて怠惰な裏切りを働いているようにも思うのであります。であるなら、さて、ここは一番、夕美さんの手前、どうすべきでありましょうか。・・・
頑治さんはふと思い付いて電話の受話器を取り上げるのでありました。この窮状打開には多分この手しかないと思うのであります。
呼び出し音二回で、もしもしと云う応答の声が返って来るのでありました。
「ああ均目君、夜遅く申し訳ない。もう寝ていたのかな?」
頑治さんは別に必要は全く無いのでありましょうが、寝ている那間裕子女史に憚りを見せて小声で話し掛けるのでありました。
「いや、未だ寝てはいないけど、しかし何だいこんな時間に?」
均目さんが訝るのは当然でありましょう。
「つかぬ事を訊くけど、さっき迄那間さん一緒だったよね?」
頑治さんがそう云うと電話の向こうで、均目さんの少しばかりたじろぐ気配がはっきりと伝わってくるのでありました。
「何でそんな事、唐目君が知っているんだろう?」
少し長い間が空いた後で均目さんが頑治さんの小声に呼応する程の、少し陰気な調子が混じった低い声で応えるのでありました。まあこの均目さんの返事が、つまり頑治さんの勘がすっかり当たっている事を見事に証明していると云うものでありますか。
「ふとそんな気がしただけだけど、図星かな?」
「ふとそんな気がしたので、態々確認するために電話をしてきたのかな?」
「いや、それだけなら、こうして電話なんかしないよ」
「じゃあ、どう云う訳でこの電話を掛けて来たんだろう?」
均目さんは頑治さんの少し持って回ったような云い草に機嫌を悪くしたようで、如何にも不愉快そうな口振りで返すのでありました。
「今、那間さんがウチに来ているんだよ」
この頑治さんの言葉に均目さんがすぐさま言葉を返さないのは、全く思ってもいない展開に大いに驚いて、言葉を一瞬失くしたからでありましょう。
「那間さんが、さっき迄俺と一緒だったと話したのかな?」
(続)
あなたのとりこ 578 [あなたのとりこ 20 創作]
均目さんは努めて冷静な調子で訊くのでありました。
「いやそうじゃない。それは全く俺の勘だよ」
「那間さんはがそこに居るのなら、ちょっと代わってくれないかな」
均目さんは少し苛々した調子でそう乞うのでありました。
「ここに居るんだけど、電話には出られないよ」
「那間さんが出たくないと云っているのかな?」
「いや、そうじゃないけど、状態として電話に出る事が不可能なんだよ」
「どういう事だい。二人して俺をからかっているのかな?」
頑治さんが何やら持って回った云い方で自分を弄ぼうとしていると思ったのか、均目さんは如何にも静かな調子を装って逆上を表現するのでありました。
「那間さんはすっかり酔い潰れて寝ているんだよ、この電話機の横で。俺の家に来た時にはもう既に意識朦朧としていたのを、ようやく部屋の中に抱え入れたんだよ」
「ふうん、そうか」
均目さんは何となく様子が呑み込めたようで、先程迄の怒気を払った云い方をするのでありました。那間裕子女史が屡、意識を喪失する迄痛飲するのはよくある事態でありましたから、頑治さんの部屋の電話機の横で前後不覚で転がっている那間裕子女史の姿が、容易に且つリアリティーをもってはっきりくっきり想像出来たのでありましょう。
「それでこの儘那間さんを俺の部屋で朝まで寝かせておくと云うのも、俺としては何となく憚られるような気がするし、実際大いに困るんで、それでまあ、那間さんがここに遣って来る迄の経緯をあれこれ想像して、まあ、全くの俺の勝手な勘だけなんだけど、均目君に助けを求めるためにこうして電話を掛けていると云う訳なんだよ」
「確かに那間さんは十時近くに突然ウチに遣って来て、その後に俺の家を出たのは丁度十一時半頃で、未だ充分荻窪迄帰る事の出来る時間だとぼんやり思ったけど、まさかその足で本郷の唐目君のアパートに行くとは、全然思いもしなかったよ」
均目さんは那間裕子女史が遣って来た事を潔く認めた上で、那間裕子女史がその後自分の家に帰らず、頑治さんのアパートに足を向けたと云うのが全く思いもしなかった事のようでありました。那間裕子女史が時々突拍子も無い事を仕出かす事があるとしても。
「均目君の家を出た時には、那間さんはもうぐでんぐでんに酔っていたのかな?」
「いやあ、確かに結構酔ってはいたけど、然程でもなかったように思ったけどなあ」
「均目君の家でも飲んだのかな?」
「うんまあ、愛想で冷蔵庫にあった焼酎をオンザロックにして出したけど」
「それでもぐでんぐでんになった様子は無かったと云う事かな?」
「そうだね。来た時とあんまり変わらないような気配だったけど」
「しかし現実として、俺の家に来てピンポンを押した後にもう完全に意識を喪失したようで、外廊下でへたり込んで玄関の扉に寄りかかっていたよ。時間から見て、均目君の家を出てから何処か街中で飲むと云うのはなさそうだけどなあ。そうすると那間さんはどうやって俺の家に来る迄の間に、あんだけとことん酔っちまったんだろう?」
(続)
「いやそうじゃない。それは全く俺の勘だよ」
「那間さんはがそこに居るのなら、ちょっと代わってくれないかな」
均目さんは少し苛々した調子でそう乞うのでありました。
「ここに居るんだけど、電話には出られないよ」
「那間さんが出たくないと云っているのかな?」
「いや、そうじゃないけど、状態として電話に出る事が不可能なんだよ」
「どういう事だい。二人して俺をからかっているのかな?」
頑治さんが何やら持って回った云い方で自分を弄ぼうとしていると思ったのか、均目さんは如何にも静かな調子を装って逆上を表現するのでありました。
「那間さんはすっかり酔い潰れて寝ているんだよ、この電話機の横で。俺の家に来た時にはもう既に意識朦朧としていたのを、ようやく部屋の中に抱え入れたんだよ」
「ふうん、そうか」
均目さんは何となく様子が呑み込めたようで、先程迄の怒気を払った云い方をするのでありました。那間裕子女史が屡、意識を喪失する迄痛飲するのはよくある事態でありましたから、頑治さんの部屋の電話機の横で前後不覚で転がっている那間裕子女史の姿が、容易に且つリアリティーをもってはっきりくっきり想像出来たのでありましょう。
「それでこの儘那間さんを俺の部屋で朝まで寝かせておくと云うのも、俺としては何となく憚られるような気がするし、実際大いに困るんで、それでまあ、那間さんがここに遣って来る迄の経緯をあれこれ想像して、まあ、全くの俺の勝手な勘だけなんだけど、均目君に助けを求めるためにこうして電話を掛けていると云う訳なんだよ」
「確かに那間さんは十時近くに突然ウチに遣って来て、その後に俺の家を出たのは丁度十一時半頃で、未だ充分荻窪迄帰る事の出来る時間だとぼんやり思ったけど、まさかその足で本郷の唐目君のアパートに行くとは、全然思いもしなかったよ」
均目さんは那間裕子女史が遣って来た事を潔く認めた上で、那間裕子女史がその後自分の家に帰らず、頑治さんのアパートに足を向けたと云うのが全く思いもしなかった事のようでありました。那間裕子女史が時々突拍子も無い事を仕出かす事があるとしても。
「均目君の家を出た時には、那間さんはもうぐでんぐでんに酔っていたのかな?」
「いやあ、確かに結構酔ってはいたけど、然程でもなかったように思ったけどなあ」
「均目君の家でも飲んだのかな?」
「うんまあ、愛想で冷蔵庫にあった焼酎をオンザロックにして出したけど」
「それでもぐでんぐでんになった様子は無かったと云う事かな?」
「そうだね。来た時とあんまり変わらないような気配だったけど」
「しかし現実として、俺の家に来てピンポンを押した後にもう完全に意識を喪失したようで、外廊下でへたり込んで玄関の扉に寄りかかっていたよ。時間から見て、均目君の家を出てから何処か街中で飲むと云うのはなさそうだけどなあ。そうすると那間さんはどうやって俺の家に来る迄の間に、あんだけとことん酔っちまったんだろう?」
(続)
あなたのとりこ 579 [あなたのとりこ 20 創作]
「それは俺には判らない。後で那間さんに聞くしかないかな」
これは尤もな均目さんの意見でありましたか。
「まあそれはそれとして、・・・」
頑治さんは語調を改めるのでありました。「こう云うお願いはひょっとしたら筋違いかも知れないけど、と云うか、俺としては強ち均目君に頼むのがそんなに不自然でもないとも思うけど、つまり、今から那間さんを迎えに来てくれないかな」
頑治さんにそう云われて均目さんはすぐには返事しないのでありました。この頑治さんのお願いが突拍子もないもので思わず言葉を失ったのかも知れませんが、若しそう云う事でないとしたらすぐさま、自分には関わりない事とか、そう云う義理も義務もないと億劫がるだろうと踏んでいたのでありましたが、まあ、そうではないのでありました。これはあくまで頑治さんの胸中で拵えた文脈の上での均目さんの反応ではありましたけれど。
「判った。今から迎えに行くよ」
暫くあれこれ慮って逡巡していたからか、ちょっと長い目の間を挟んでから均目さんはボソッとそう請け合うのでありました。
「うんまあ、頼むよ」
「判った」
均目さんはもう一度そう云って静かに電話を切るのでありました。
約一時間してから、頑治さんの部屋の呼び出しチャイムが鳴るのでありました。
「電車もない時間なのに、ご苦労さんだったかなあ」
頑治さんは開けたドアの取手から手を離しながら云うのでありました。
「仕方がないからタクシーで来たよ」
均目さんはやや不機嫌な口調でそう返してから、素早く玄関の中に身を入れて自分の手でドアを静かに閉めるのでありました。
「那間さんは未だ目を覚まさないのかな?」
均目さんは部屋の奥を覗き込むような仕草をするのでありました。
「ずっとこんな感じで、無邪気に高いびきだな」
頑治さんはやや持て余したような笑いを作って云うのでありました。
それから二人で那間裕子女史の寝姿を見下ろしてから、頑治さんに促されて均目さんは那間裕子女史の腹側に胡坐をかいて座るのでありました。
「俺に那間さんを迎えに来いと催促してきたのは、つまり唐目君は俺と那間さんの関係をとっくに知っていたという事だよね?」
均目さんは女史を挟んでその背中側に、同じく胡坐に座った頑治さんに向かって特に表情を作らずに訊くのでありました。
「ちゃんと認知していたと云うんじゃなくて、そうじゃないかと当たりを付けていたと云うところかな。実はかなりあやふやな勘繰りで、図星の確信があった訳じゃないよ」
「ふうん、なかなか鋭い、と云うのか、侮り難いよなあ」
(続)
これは尤もな均目さんの意見でありましたか。
「まあそれはそれとして、・・・」
頑治さんは語調を改めるのでありました。「こう云うお願いはひょっとしたら筋違いかも知れないけど、と云うか、俺としては強ち均目君に頼むのがそんなに不自然でもないとも思うけど、つまり、今から那間さんを迎えに来てくれないかな」
頑治さんにそう云われて均目さんはすぐには返事しないのでありました。この頑治さんのお願いが突拍子もないもので思わず言葉を失ったのかも知れませんが、若しそう云う事でないとしたらすぐさま、自分には関わりない事とか、そう云う義理も義務もないと億劫がるだろうと踏んでいたのでありましたが、まあ、そうではないのでありました。これはあくまで頑治さんの胸中で拵えた文脈の上での均目さんの反応ではありましたけれど。
「判った。今から迎えに行くよ」
暫くあれこれ慮って逡巡していたからか、ちょっと長い目の間を挟んでから均目さんはボソッとそう請け合うのでありました。
「うんまあ、頼むよ」
「判った」
均目さんはもう一度そう云って静かに電話を切るのでありました。
約一時間してから、頑治さんの部屋の呼び出しチャイムが鳴るのでありました。
「電車もない時間なのに、ご苦労さんだったかなあ」
頑治さんは開けたドアの取手から手を離しながら云うのでありました。
「仕方がないからタクシーで来たよ」
均目さんはやや不機嫌な口調でそう返してから、素早く玄関の中に身を入れて自分の手でドアを静かに閉めるのでありました。
「那間さんは未だ目を覚まさないのかな?」
均目さんは部屋の奥を覗き込むような仕草をするのでありました。
「ずっとこんな感じで、無邪気に高いびきだな」
頑治さんはやや持て余したような笑いを作って云うのでありました。
それから二人で那間裕子女史の寝姿を見下ろしてから、頑治さんに促されて均目さんは那間裕子女史の腹側に胡坐をかいて座るのでありました。
「俺に那間さんを迎えに来いと催促してきたのは、つまり唐目君は俺と那間さんの関係をとっくに知っていたという事だよね?」
均目さんは女史を挟んでその背中側に、同じく胡坐に座った頑治さんに向かって特に表情を作らずに訊くのでありました。
「ちゃんと認知していたと云うんじゃなくて、そうじゃないかと当たりを付けていたと云うところかな。実はかなりあやふやな勘繰りで、図星の確信があった訳じゃないよ」
「ふうん、なかなか鋭い、と云うのか、侮り難いよなあ」
(続)
あなたのとりこ 580 [あなたのとりこ 20 創作]
均目さんはそう云って余裕を見せるためにか片頬に笑いを作るのでありました。ただその笑いなんと云うものは、不用意に油断したり疎かにしたりは出来ないなと云った、頑治さんへの一種の畏怖を宿したような引き攣った笑いになるのでありましたか。
「まあ、俺の認識については一先ず脇に置くとして、でも、均目君の家を出た那間さんが、その後どうして俺のアパートに態々やって来たんだろう?」
「那間さんは俺の家を出た時には、かなり怒っていたからなあ」
均目さんは直接頑治さんの質問とは無関係な事を云うのでありました。
「何に対して那間さんは怒っていたんだろう?」
「まあ、ちょっと順を追って詳しく話した方が良いかな」
均目さんは少し語調を改めるのでありました。「俺の家に来た時、那間さんはかなり酒に酔っていたんだよ。まあ、ぐでんぐでんに、と云う感じではなかったけれど」
「那間さんは会社が終わってから俺と袁満さんと、新宿の、均目君とも時々行った事のある洋風のあの居酒屋で飲んでいたんだよ。まあ、二時間くらい」
「そこに袁満さんが居るのが、ちょっと俺にしたら奇異と云えば奇異な感じがする」
「今度予定している会社の全体会議で、ひょっとしたら那間さんが解雇要員としてやり玉に挙げられる可能性があるから、予め那間さんにその恐れを承知して置いて貰うためと、まあ出来たら何らかの対策を考える心算で、三人で会合したんだよ」
「うん、その辺の経緯は那間さんからちょろっと聞いた」
均目さんは二度程頷いて見せるのでありました。
「ところで那間さんは、何時頃均目君の家に来たんだい?」
「さっきも云ったように十時頃だったかな」
「と云う事は俺と袁満さんと新宿駅で別れたのが八時を回った頃だったから、その後すぐに均目君のところに行ったんじゃなくて、屹度一人で何処かで飲んでいたんだな」
「まあそうだろうな。会社帰りに二時間程飲んだだけの酔い方ではなかったからなあ、俺の家に来た時の様子は。あれはもう結構きている感じだったからなあ」
「均目君と那間さんは、まあ殆ど毎日、どちらかの家で、二人で一緒に過ごしていたんじゃなかったのかな、まあ、会社を出る時間は違っていたとしても」
頑治さんはちょっと質問の色を変えるのでありました。
「いや、殆ど那間さんの家で週末を一緒に過ごすくらいだったかな。平日は大体はお互いの家で別に過ごしていたんだ。その方が始終一緒にいるより気楽だし」
「と云う事は今日、と云うかもう昨日になるけど、那間さんが均目君のアパートに遣って来たのは、イレギュラーな出来事と云う事か」
「まあそうだね。それに団体交渉の申し入れをした時以来、何となくお互いつんけんしていて、気まずい感じでいたから余計にね」
「ああ、均目君が団体交渉を土師尾常務の意に沿うように、社内の全体会議の方に誘導したあの申し入れね。あの時那間さんはとことん団体交渉派だったからなあ」
「いや別に俺は、土師尾常務に阿た訳では無いよ」
(続)
「まあ、俺の認識については一先ず脇に置くとして、でも、均目君の家を出た那間さんが、その後どうして俺のアパートに態々やって来たんだろう?」
「那間さんは俺の家を出た時には、かなり怒っていたからなあ」
均目さんは直接頑治さんの質問とは無関係な事を云うのでありました。
「何に対して那間さんは怒っていたんだろう?」
「まあ、ちょっと順を追って詳しく話した方が良いかな」
均目さんは少し語調を改めるのでありました。「俺の家に来た時、那間さんはかなり酒に酔っていたんだよ。まあ、ぐでんぐでんに、と云う感じではなかったけれど」
「那間さんは会社が終わってから俺と袁満さんと、新宿の、均目君とも時々行った事のある洋風のあの居酒屋で飲んでいたんだよ。まあ、二時間くらい」
「そこに袁満さんが居るのが、ちょっと俺にしたら奇異と云えば奇異な感じがする」
「今度予定している会社の全体会議で、ひょっとしたら那間さんが解雇要員としてやり玉に挙げられる可能性があるから、予め那間さんにその恐れを承知して置いて貰うためと、まあ出来たら何らかの対策を考える心算で、三人で会合したんだよ」
「うん、その辺の経緯は那間さんからちょろっと聞いた」
均目さんは二度程頷いて見せるのでありました。
「ところで那間さんは、何時頃均目君の家に来たんだい?」
「さっきも云ったように十時頃だったかな」
「と云う事は俺と袁満さんと新宿駅で別れたのが八時を回った頃だったから、その後すぐに均目君のところに行ったんじゃなくて、屹度一人で何処かで飲んでいたんだな」
「まあそうだろうな。会社帰りに二時間程飲んだだけの酔い方ではなかったからなあ、俺の家に来た時の様子は。あれはもう結構きている感じだったからなあ」
「均目君と那間さんは、まあ殆ど毎日、どちらかの家で、二人で一緒に過ごしていたんじゃなかったのかな、まあ、会社を出る時間は違っていたとしても」
頑治さんはちょっと質問の色を変えるのでありました。
「いや、殆ど那間さんの家で週末を一緒に過ごすくらいだったかな。平日は大体はお互いの家で別に過ごしていたんだ。その方が始終一緒にいるより気楽だし」
「と云う事は今日、と云うかもう昨日になるけど、那間さんが均目君のアパートに遣って来たのは、イレギュラーな出来事と云う事か」
「まあそうだね。それに団体交渉の申し入れをした時以来、何となくお互いつんけんしていて、気まずい感じでいたから余計にね」
「ああ、均目君が団体交渉を土師尾常務の意に沿うように、社内の全体会議の方に誘導したあの申し入れね。あの時那間さんはとことん団体交渉派だったからなあ」
「いや別に俺は、土師尾常務に阿た訳では無いよ」
(続)
あなたのとりこ 581 [あなたのとりこ 20 創作]
「でも那間さんはそう考えていた」
「それはそんな感じだったかな」
均目さんは小さく頷くのでありました。「でも俺としては、穏便な会議にした方が今後の土師尾常務や社長との関係が良好に行くと考えたんだよ」
ここで頑治さんはやや険しい顔になるのでありました。
「関係が良好に行く必要を、均目君は本当に考えていたのかな?」
これは勿論、均目さんが片久那制作部長の誘いに依ってそう遠くない将来、確実に会社を辞める心算である事を踏まえた質問でありました。その頑治さんの思いは均目さんにもすぐに伝わったようで、均目さんは決まり悪そうな笑いをするのでありました。
「まあ、確かに俺はこの先そう長く会社に残らないだろうから、会社の将来像に対して実は何の切実さも有していないと見做されても仕方ないけどね」
「要は大袈裟な労働問題になったりして、社長や土師尾常務との関係を妙な具合に拗らせたくなかったと云う事だろう。関係が拗れると何となく辞め辛くなるから」
「まあ、本音はその辺に在るのは認めるよ」
その均目さんの云い草を聞いて、頑治さんは特に頷きもしないのでありました、それから不意に、と云った感じで立ち上がるのでありました。均目さんは何か頑治さんの気に障るような事を云ったかしらと、やや身構えるような様子を見せながら頑治さんを、息を詰めたような強張った顔で見上げるのでありました。
「話しが長くなると云う事だから、ここいらでちょっとコーヒーでも淹れてくるよ。何となくその方が手持無沙汰じゃないからね。勿論、飲むだろう?」
頑治さんは均目さんの警戒心を解すように静かな調子で云うのでありました。
「ああ。コーヒーなら貰うよ」
均目さんは遠慮しないのでありました。
横たわる那間裕子女史を挟んで、頑治さんと均目さんは酒酔いのために少し早い目の寝息を立てている女史を、夫々の方向から見下ろしているのでありました。
「疑いを持って聞いていてくれても構わないけど、俺としては社長との関係を拗らせない方が、俺が辞めたとしてもその後も未だ会社が存続する目はあると思ってはいたんだ。社長が労使対立でうんざりして、自棄でも起こしたらそれこそお仕舞いだからね」
均目さんはそう云ってからコーヒーを一口啜るのでありました。
「会社存続のためにも、社長のご機嫌を取り結びたかったと云う事かな?」
「ご機嫌を取り結ぶ、と云うのはちょっと俺の本意とは違うけど、でもまあ、そう取られても別に構わないけどね。社長の方は土師尾常務よりは話せるところが少しはありそうだから、そこに何とか手を施して会社存続の可能性を残したかったんだ。じきに辞める俺ではあるけれど、これでも会社が無くなる事を避けたいと本当に思っていたんだよ」
「余計なお世話、と云う感じも、ま、するけどね」
頑治さんはあくまで冷たく反応するのでありました。
(続)
「それはそんな感じだったかな」
均目さんは小さく頷くのでありました。「でも俺としては、穏便な会議にした方が今後の土師尾常務や社長との関係が良好に行くと考えたんだよ」
ここで頑治さんはやや険しい顔になるのでありました。
「関係が良好に行く必要を、均目君は本当に考えていたのかな?」
これは勿論、均目さんが片久那制作部長の誘いに依ってそう遠くない将来、確実に会社を辞める心算である事を踏まえた質問でありました。その頑治さんの思いは均目さんにもすぐに伝わったようで、均目さんは決まり悪そうな笑いをするのでありました。
「まあ、確かに俺はこの先そう長く会社に残らないだろうから、会社の将来像に対して実は何の切実さも有していないと見做されても仕方ないけどね」
「要は大袈裟な労働問題になったりして、社長や土師尾常務との関係を妙な具合に拗らせたくなかったと云う事だろう。関係が拗れると何となく辞め辛くなるから」
「まあ、本音はその辺に在るのは認めるよ」
その均目さんの云い草を聞いて、頑治さんは特に頷きもしないのでありました、それから不意に、と云った感じで立ち上がるのでありました。均目さんは何か頑治さんの気に障るような事を云ったかしらと、やや身構えるような様子を見せながら頑治さんを、息を詰めたような強張った顔で見上げるのでありました。
「話しが長くなると云う事だから、ここいらでちょっとコーヒーでも淹れてくるよ。何となくその方が手持無沙汰じゃないからね。勿論、飲むだろう?」
頑治さんは均目さんの警戒心を解すように静かな調子で云うのでありました。
「ああ。コーヒーなら貰うよ」
均目さんは遠慮しないのでありました。
横たわる那間裕子女史を挟んで、頑治さんと均目さんは酒酔いのために少し早い目の寝息を立てている女史を、夫々の方向から見下ろしているのでありました。
「疑いを持って聞いていてくれても構わないけど、俺としては社長との関係を拗らせない方が、俺が辞めたとしてもその後も未だ会社が存続する目はあると思ってはいたんだ。社長が労使対立でうんざりして、自棄でも起こしたらそれこそお仕舞いだからね」
均目さんはそう云ってからコーヒーを一口啜るのでありました。
「会社存続のためにも、社長のご機嫌を取り結びたかったと云う事かな?」
「ご機嫌を取り結ぶ、と云うのはちょっと俺の本意とは違うけど、でもまあ、そう取られても別に構わないけどね。社長の方は土師尾常務よりは話せるところが少しはありそうだから、そこに何とか手を施して会社存続の可能性を残したかったんだ。じきに辞める俺ではあるけれど、これでも会社が無くなる事を避けたいと本当に思っていたんだよ」
「余計なお世話、と云う感じも、ま、するけどね」
頑治さんはあくまで冷たく反応するのでありました。
(続)
あなたのとりこ 582 [あなたのとりこ 20 創作]
「そう云う風に云われると、もう後は黙るしかないけどね」
均目さんは不機嫌に云い棄てて頑治さんから目を逸らして、自分の口元を盾で隠すようにコーヒーカップを唇の前に翳すのでありました。
「片久那制作部長からそろそろ来い、と云う話しは未だないのかな?」
頑治さんは話頭を変えるのでありました。
「そんな事は余計なお世話だけど、まあ、未だないよ」
確かにその通りで、均目さんは先程頑治さんに云われた、余計なお世話、と云う語に対してここで意趣返しするのでありました。
「ところでさっき、十時頃那間さんは均目君の家に来て、十一時半頃出て行ったと云っていたし、その時にはかなり怒って出ていたとも云っていたけど、それはどういう経緯で、それに何に対して怒って均目君の家を出て行ったんだろう?」
「来て早々に那間さんが俺を、何だかここのところ、組合員である筈の俺がまるで経営側に阿るように変節していると詰り出して、そんな事があるとかないとか暫くあれこれ云い争っていて、で、まあ何となくの話しの流れから、片久那制作部長に将来片久那制作部長が興す筈の会社に来るように俺が誘われている、と云う話しをポロっとしたんだよ」
「その話しを聞いて、那間さんが逆上したって事かな?」
「まあ、そんなところだな」
均目さんはコーヒーを一口啜るのでありました。「成程それで俺の態度がこのところおかしいのが良く判った、なんてさも軽蔑するように云って、俺が愛想に出した缶ビールを無愛想にグッと空けて、それで引き留めるのも構わずにプイと出て行ったんだ。まあ、もう既に電車の終わっている時間でもなかったし、俺も何だかムシャクシャして仕舞って、別に引き留めもしなかったよ。まあ、ちゃんと自分のアパートに帰ると思ったんで」
「那間さんにしたら、突然均目君が裏切り者の正体を現した、と云ったところかな」
「まあ、そんなところなんだろうな、屹度」
均目さんは特にその点に関して弁解しないのでありました。
「那間さんがそうやってプイと出て行くのを、ムシャクシャして仕舞ったからと云う理由だけで、全く引き留めなかったと云う事になるのかな?」
「まあその内、那間さんが落ち着いた頃を見計らって、その辺の経緯とか俺の気持ちとかを縷々説明すれば、那間さんも判ってくれるだろうと思ったんだよ」
「で、出て行くのに任せたと云う事ね」
「逆上している時に俺が何か云ったところで、返って逆効果になるしね。で、俺としては那間さんはその儘自分のアパートに帰るんだと思っていたんだよ」
「ところが然にあらずで、突然俺から電話が入った、と云う経緯か」
「そう云う事、だね」
均目さんは寝ている那間裕子女史を見下ろしながら頷くのでありました。
「まあしかし、こうしてちゃんと那間さんを迎えに来たのは、殊勝ではあるか」
頑治さんは少し語調を緩めるのでありました。
(続)
均目さんは不機嫌に云い棄てて頑治さんから目を逸らして、自分の口元を盾で隠すようにコーヒーカップを唇の前に翳すのでありました。
「片久那制作部長からそろそろ来い、と云う話しは未だないのかな?」
頑治さんは話頭を変えるのでありました。
「そんな事は余計なお世話だけど、まあ、未だないよ」
確かにその通りで、均目さんは先程頑治さんに云われた、余計なお世話、と云う語に対してここで意趣返しするのでありました。
「ところでさっき、十時頃那間さんは均目君の家に来て、十一時半頃出て行ったと云っていたし、その時にはかなり怒って出ていたとも云っていたけど、それはどういう経緯で、それに何に対して怒って均目君の家を出て行ったんだろう?」
「来て早々に那間さんが俺を、何だかここのところ、組合員である筈の俺がまるで経営側に阿るように変節していると詰り出して、そんな事があるとかないとか暫くあれこれ云い争っていて、で、まあ何となくの話しの流れから、片久那制作部長に将来片久那制作部長が興す筈の会社に来るように俺が誘われている、と云う話しをポロっとしたんだよ」
「その話しを聞いて、那間さんが逆上したって事かな?」
「まあ、そんなところだな」
均目さんはコーヒーを一口啜るのでありました。「成程それで俺の態度がこのところおかしいのが良く判った、なんてさも軽蔑するように云って、俺が愛想に出した缶ビールを無愛想にグッと空けて、それで引き留めるのも構わずにプイと出て行ったんだ。まあ、もう既に電車の終わっている時間でもなかったし、俺も何だかムシャクシャして仕舞って、別に引き留めもしなかったよ。まあ、ちゃんと自分のアパートに帰ると思ったんで」
「那間さんにしたら、突然均目君が裏切り者の正体を現した、と云ったところかな」
「まあ、そんなところなんだろうな、屹度」
均目さんは特にその点に関して弁解しないのでありました。
「那間さんがそうやってプイと出て行くのを、ムシャクシャして仕舞ったからと云う理由だけで、全く引き留めなかったと云う事になるのかな?」
「まあその内、那間さんが落ち着いた頃を見計らって、その辺の経緯とか俺の気持ちとかを縷々説明すれば、那間さんも判ってくれるだろうと思ったんだよ」
「で、出て行くのに任せたと云う事ね」
「逆上している時に俺が何か云ったところで、返って逆効果になるしね。で、俺としては那間さんはその儘自分のアパートに帰るんだと思っていたんだよ」
「ところが然にあらずで、突然俺から電話が入った、と云う経緯か」
「そう云う事、だね」
均目さんは寝ている那間裕子女史を見下ろしながら頷くのでありました。
「まあしかし、こうしてちゃんと那間さんを迎えに来たのは、殊勝ではあるか」
頑治さんは少し語調を緩めるのでありました。
(続)
あなたのとりこ 583 [あなたのとりこ 20 創作]
「知ったこっちゃないと不貞腐れないだけ、未だ俺にも救いがあると云う訳か」
均目さんはそう云って自嘲的になのか、或いはひょっとして頑治さんの、殊勝ではあるか、と云う評価を冷笑する心算でか、歪んだ笑いを頬に刻むのでありました。
「余計な事かも知れないけど、那間さんを那間さんの家に送り届ける心算かな?」
「いや、取り敢えず俺の家に連れて帰るよ。その方が手間が少ないだろうから」
「均目君のアパートは調布の仙川だったっけ?」
「まあ最寄り駅は仙川だけど、住所は世田谷区の上祖師谷だよ」
「タクシーで帰る心算かな?」
「それしかないだろうからね」
均目さんはそう云って苦笑うのでありました。
「ここからはかなりの距離だなあ」
頑治さんはタクシーの代金の事を気の毒に思うのでありました。均目さんにすれば思ってもみなかった散財、と云う事態でありましょうから。
「若し負担なら、始発電車が動き出すまでここで過ごしていても、俺は構わないぜ」
「いや、酔いつぶれた那間さんを運ぶのは、まあ、慣れているから、折角だけどこのコーヒーを飲み終えたらタクシーで帰るよ」
どう云う考えからかは確とは判らないけれど、均目さんはそう云って頑治さんの申し出をきっぱり断るのでありました。ここに居続けるのも頑治さんに対して何やら気まずいと云う気持ちもあるだろうし、これ以上自分と那間さんの事で頑治さんに世話は掛けられないと云う、生真面目な遠慮からでもあるでありましょうか。
「どうしても帰ると云うのなら、それはそれで構わないけどね」
頑治さんは自分の厚意を無にされたと云う不快感は全く無いのでありましたが、何となく云い方に、取りように依ってはそれが滲み出ているかのように受け取られるかも知れないと恐れるのでありました。若しそうならそれは慎に不本意ではありましたから。
ところでしかし、那間裕子女史はどうして均目さんとの喧嘩の後で、頑治さんのアパートに態々やって来たのでありましょう。しかもほとんどへべれけに酔い潰れて前後不覚の状態で。女史の何が、そう云う行動を導いたのでありましょう。
これは屹度均目さんの抱いた疑問でもありましょう。どうして頑治さんがここで俄かに二人の間に登場してくるのか、と云うのは一種の苦さに包まれた疑問と云うものでありましょうか。頑治さんからの突然の電話がある迄、那間裕子女史と均目さんの仲に頑治さんの登場する余地なんかは、殆どないものであった筈でありましょう。
例え多少の気持ちの行き違いが起きる場合もあったとしても、那間裕子女史の気持ちが均目さん以外の男にも向かうとは、均目さんは屹度考えてもいなかったでありましょう。そこは恐らく那間裕子女史を信頼していたでありましょうし、あのプライド高い那間裕子女史に選ばれた男として、自信も恍惚れも多分に持っていたでありましょう。
であるのに酔った那間裕子女史は均目さんではなく、頑治さんに一場の救いを求めたのであります。これは単なる当て擦りと云うだけではなさそうな気配であります。
(続)
均目さんはそう云って自嘲的になのか、或いはひょっとして頑治さんの、殊勝ではあるか、と云う評価を冷笑する心算でか、歪んだ笑いを頬に刻むのでありました。
「余計な事かも知れないけど、那間さんを那間さんの家に送り届ける心算かな?」
「いや、取り敢えず俺の家に連れて帰るよ。その方が手間が少ないだろうから」
「均目君のアパートは調布の仙川だったっけ?」
「まあ最寄り駅は仙川だけど、住所は世田谷区の上祖師谷だよ」
「タクシーで帰る心算かな?」
「それしかないだろうからね」
均目さんはそう云って苦笑うのでありました。
「ここからはかなりの距離だなあ」
頑治さんはタクシーの代金の事を気の毒に思うのでありました。均目さんにすれば思ってもみなかった散財、と云う事態でありましょうから。
「若し負担なら、始発電車が動き出すまでここで過ごしていても、俺は構わないぜ」
「いや、酔いつぶれた那間さんを運ぶのは、まあ、慣れているから、折角だけどこのコーヒーを飲み終えたらタクシーで帰るよ」
どう云う考えからかは確とは判らないけれど、均目さんはそう云って頑治さんの申し出をきっぱり断るのでありました。ここに居続けるのも頑治さんに対して何やら気まずいと云う気持ちもあるだろうし、これ以上自分と那間さんの事で頑治さんに世話は掛けられないと云う、生真面目な遠慮からでもあるでありましょうか。
「どうしても帰ると云うのなら、それはそれで構わないけどね」
頑治さんは自分の厚意を無にされたと云う不快感は全く無いのでありましたが、何となく云い方に、取りように依ってはそれが滲み出ているかのように受け取られるかも知れないと恐れるのでありました。若しそうならそれは慎に不本意ではありましたから。
ところでしかし、那間裕子女史はどうして均目さんとの喧嘩の後で、頑治さんのアパートに態々やって来たのでありましょう。しかもほとんどへべれけに酔い潰れて前後不覚の状態で。女史の何が、そう云う行動を導いたのでありましょう。
これは屹度均目さんの抱いた疑問でもありましょう。どうして頑治さんがここで俄かに二人の間に登場してくるのか、と云うのは一種の苦さに包まれた疑問と云うものでありましょうか。頑治さんからの突然の電話がある迄、那間裕子女史と均目さんの仲に頑治さんの登場する余地なんかは、殆どないものであった筈でありましょう。
例え多少の気持ちの行き違いが起きる場合もあったとしても、那間裕子女史の気持ちが均目さん以外の男にも向かうとは、均目さんは屹度考えてもいなかったでありましょう。そこは恐らく那間裕子女史を信頼していたでありましょうし、あのプライド高い那間裕子女史に選ばれた男として、自信も恍惚れも多分に持っていたでありましょう。
であるのに酔った那間裕子女史は均目さんではなく、頑治さんに一場の救いを求めたのであります。これは単なる当て擦りと云うだけではなさそうな気配であります。
(続)
あなたのとりこ 584 [あなたのとりこ 20 創作]
それは一体どんな那間裕子女史の思いから来た行動なのでありましょうか。まあ、様々な詮索やら手前味噌な想像は働くのではありますが、しかしそれは取り敢えず面倒を回避するために知らん振りを決め込んで、さらっと脇に避けておくに如くはない思案であると頑治さんは思うのでありました。まあ、要は一種の遁走でありますけれど。
均目さんがここで高く付くタクシー代と云う痛い出費も顧みず、那間裕子女史を連れてコーヒーを飲み終えたら是が非でも帰ると云い張るのは、つまり頑治さんを自分と那間裕子女史の間から綺麗さっぱり排除したいと云う意図が明快にあるためでもありますか。那間裕子女史の身に関しては自分だけに決定権と全責任があるのであり、頑治さんの容喙する余地は全くないと云うところをはっきりさせたいが故の態度表明であります。
頑治さんとしてはそれはそれで、面倒回避の魂胆からも尊重するに全く吝かではない均目さんの態度でありました。夕美さんの手前、と云うのか夕美さんへの忠義の証と云う点に於いても、均目さんのこの行動は大いに歓迎すべきものでもあります。
コーヒーを飲み干した均目さんは横たわる那間裕子女史に目を落として、ごく小さくではあるけれど溜息を吐くのでありました。それから不可能だろう事は承知の上で、那間裕子女史の覚醒を期待してその体を少し強めに揺さぶるのでありました。
「ねえ、起きてくれよ」
そんな均目さんの声掛けに対して那間裕子女史は慎につれなく、微動だにしないのでありました。均目さんはもう数度那間裕子女史の体を揺するのでありました。
「何ならハイヤーを呼ぼうか?」
均目さんの徒労を見兼ねて頑治さんが訊くのでありました。
「いや、大通り迄出るとタクシーが掴まるだろう」
頑治さんの申し出にそう返して、均目さんは未だ那間裕子女史への揺さぶりを止めないのでありました。何とか薄っすらでも意識を取り戻してくれれば、脇を支えて大通り迄歩かせる事が出来るかも知れませんが、昏睡した儘なら、抱き上げて運ぶしかないでありましょう。それは全く以ってげんなりと云うものでありましょうか。
均目さんは那間裕子女史を覚醒させる事を諦めたのかその腕を取って自分の肩に回し、もう片方の腕を女史の腰に回して女史を何とか引き起こそうとするのでありました。すっかり意識も力も抜けきった那間裕子女史の体は重く、グニャリと支えどころなく柔らかくて、如何にも扱い難そうでありますが、しかし頑治さんが手助けすると云うのはどこか憚られるのでありました。ここは均目さんの独壇場でなければならない筈であります。
均目さんが何とか那間裕子女史を起き上がらせて殆ど自分の肩にその全身を支えると、那間裕子女史が垂れていた頭をぐらりと揺らすように少し起こすのでありました。それから小さく不快気な呻き声を上げるのでありました。
「起きたの?」
均目さんが声を掛けると那間裕子女史は片目を薄く開いて、またすぐにその目を閉じるのでありました。起きたと云う訳ではなく、まあ、不如意に起き上がらされたことが心外で、反応として無意識に薄目を開いただけなのでありましょう。
(続)
均目さんがここで高く付くタクシー代と云う痛い出費も顧みず、那間裕子女史を連れてコーヒーを飲み終えたら是が非でも帰ると云い張るのは、つまり頑治さんを自分と那間裕子女史の間から綺麗さっぱり排除したいと云う意図が明快にあるためでもありますか。那間裕子女史の身に関しては自分だけに決定権と全責任があるのであり、頑治さんの容喙する余地は全くないと云うところをはっきりさせたいが故の態度表明であります。
頑治さんとしてはそれはそれで、面倒回避の魂胆からも尊重するに全く吝かではない均目さんの態度でありました。夕美さんの手前、と云うのか夕美さんへの忠義の証と云う点に於いても、均目さんのこの行動は大いに歓迎すべきものでもあります。
コーヒーを飲み干した均目さんは横たわる那間裕子女史に目を落として、ごく小さくではあるけれど溜息を吐くのでありました。それから不可能だろう事は承知の上で、那間裕子女史の覚醒を期待してその体を少し強めに揺さぶるのでありました。
「ねえ、起きてくれよ」
そんな均目さんの声掛けに対して那間裕子女史は慎につれなく、微動だにしないのでありました。均目さんはもう数度那間裕子女史の体を揺するのでありました。
「何ならハイヤーを呼ぼうか?」
均目さんの徒労を見兼ねて頑治さんが訊くのでありました。
「いや、大通り迄出るとタクシーが掴まるだろう」
頑治さんの申し出にそう返して、均目さんは未だ那間裕子女史への揺さぶりを止めないのでありました。何とか薄っすらでも意識を取り戻してくれれば、脇を支えて大通り迄歩かせる事が出来るかも知れませんが、昏睡した儘なら、抱き上げて運ぶしかないでありましょう。それは全く以ってげんなりと云うものでありましょうか。
均目さんは那間裕子女史を覚醒させる事を諦めたのかその腕を取って自分の肩に回し、もう片方の腕を女史の腰に回して女史を何とか引き起こそうとするのでありました。すっかり意識も力も抜けきった那間裕子女史の体は重く、グニャリと支えどころなく柔らかくて、如何にも扱い難そうでありますが、しかし頑治さんが手助けすると云うのはどこか憚られるのでありました。ここは均目さんの独壇場でなければならない筈であります。
均目さんが何とか那間裕子女史を起き上がらせて殆ど自分の肩にその全身を支えると、那間裕子女史が垂れていた頭をぐらりと揺らすように少し起こすのでありました。それから小さく不快気な呻き声を上げるのでありました。
「起きたの?」
均目さんが声を掛けると那間裕子女史は片目を薄く開いて、またすぐにその目を閉じるのでありました。起きたと云う訳ではなく、まあ、不如意に起き上がらされたことが心外で、反応として無意識に薄目を開いただけなのでありましょう。
(続)
あなたのとりこ 585 [あなたのとりこ 20 創作]
頑治さんは那間裕子女史を背負った均目さんと一緒に通りに出るのでありました。が、那間裕子女史の介抱は均目さんに任せて頑治さんは全く手を出さないのでありました。
夜中の街はすっかり人気が失せていて、本郷通りを行き交う車の通りも至って疎らでありました。那間裕子女史を背負った均目さんと頑治さんは、大通りを偶に通りかかる空車のタクシーを目当てに無言で目を前の道路に釘付けているのでありました。
「大概は客を乗せているタクシーばかりで、なかなか空車が見つからないなあ」
頑治さんが声を掛けると均目さんは頷くのでありました。それから背負っている那間裕子女史が背中を滑り落ちないように、全身で少し跳ね上がるような仕草をして女史の体を抱え直すのでありました。眠っている女子の体はさぞや重たかろうと頑治さんは均目さんを気の毒に思うのでありましたが、ま、手出しは決してしないのでありました。
ようやく一台、頑治さんと均目さんは同時に駒込方面へ向かう空車のタクシーを発見するのでありました。均目さんの両手がふさがっているものだから、頑治さんが少し大仰にそのタクシーに向かって手を挙げるのでありました。若そうな男二人連れでしかもその内の一人は背に女性を負ぶっているものでありますから、タクシーの運転手が胡散臭く思っておいそれと止まってくれないのではないかと、頑治さんは冷や々々するのでありましたが、均目さんと頑治さんの目の前にタクシーはゆるゆると停車するのでありました。
ドアが開くと均目さんは先ず那間裕子女史を奥に押し込めるのでありました。何となくぞんざいな押し込めようであるのは、タクシーが来る迄の間背負っていた那間裕子女史の体の重さを、ほとほと持て余していたからでありましょうか。
後に続いて均目さん自身が乗り込むと、すぐに閉まろうとするドアを手でつっかい棒に遮って車内から均目さんが脇に立つ頑治さんを見上げるのでありました。
「何だかあれこれ世話を掛けて悪かったなあ」
「いやまあ、均目君がそんなに気に病まなくても良いよ。このすったもんだは、云ってみれば思いがけない事故みたいなもの、・・・だから」
頑治さんが特に笑いも添えずにそう云うと均目さんは思わず、と云った感じで口の端を笑いに動かすのでありましたが、別に何も言葉は返さないのでありました。
均目さんがつっかい棒の手を離すと、ドアは待っていましたとばかりすぐに閉まるのでありました。未だドアが閉まり切らないくらいのタイミングで、タクシーはいやに焦って動き始めるのでありました。このがさつさは真夜中に不審な男女を拾う羽目になった運転手の不愉快の無言の表明であろうかと、頑治さんは思うともなく思うのでありました。
夫々の思惑
二回目の全体会議に於いても社長と土師尾常務の態度てえものは全く変わらないのでありました。会議の皮切りに於いて一回目のそれよりも寧ろ、脅し半分ではありましょうが会社解散の意をより強く仄めかすような風でありましたか。その挨拶代わりみたいな脅しの後に、早速土師尾常務による那間裕子女史への攻撃が開始されるのでありました。
(続)
夜中の街はすっかり人気が失せていて、本郷通りを行き交う車の通りも至って疎らでありました。那間裕子女史を背負った均目さんと頑治さんは、大通りを偶に通りかかる空車のタクシーを目当てに無言で目を前の道路に釘付けているのでありました。
「大概は客を乗せているタクシーばかりで、なかなか空車が見つからないなあ」
頑治さんが声を掛けると均目さんは頷くのでありました。それから背負っている那間裕子女史が背中を滑り落ちないように、全身で少し跳ね上がるような仕草をして女史の体を抱え直すのでありました。眠っている女子の体はさぞや重たかろうと頑治さんは均目さんを気の毒に思うのでありましたが、ま、手出しは決してしないのでありました。
ようやく一台、頑治さんと均目さんは同時に駒込方面へ向かう空車のタクシーを発見するのでありました。均目さんの両手がふさがっているものだから、頑治さんが少し大仰にそのタクシーに向かって手を挙げるのでありました。若そうな男二人連れでしかもその内の一人は背に女性を負ぶっているものでありますから、タクシーの運転手が胡散臭く思っておいそれと止まってくれないのではないかと、頑治さんは冷や々々するのでありましたが、均目さんと頑治さんの目の前にタクシーはゆるゆると停車するのでありました。
ドアが開くと均目さんは先ず那間裕子女史を奥に押し込めるのでありました。何となくぞんざいな押し込めようであるのは、タクシーが来る迄の間背負っていた那間裕子女史の体の重さを、ほとほと持て余していたからでありましょうか。
後に続いて均目さん自身が乗り込むと、すぐに閉まろうとするドアを手でつっかい棒に遮って車内から均目さんが脇に立つ頑治さんを見上げるのでありました。
「何だかあれこれ世話を掛けて悪かったなあ」
「いやまあ、均目君がそんなに気に病まなくても良いよ。このすったもんだは、云ってみれば思いがけない事故みたいなもの、・・・だから」
頑治さんが特に笑いも添えずにそう云うと均目さんは思わず、と云った感じで口の端を笑いに動かすのでありましたが、別に何も言葉は返さないのでありました。
均目さんがつっかい棒の手を離すと、ドアは待っていましたとばかりすぐに閉まるのでありました。未だドアが閉まり切らないくらいのタイミングで、タクシーはいやに焦って動き始めるのでありました。このがさつさは真夜中に不審な男女を拾う羽目になった運転手の不愉快の無言の表明であろうかと、頑治さんは思うともなく思うのでありました。
夫々の思惑
二回目の全体会議に於いても社長と土師尾常務の態度てえものは全く変わらないのでありました。会議の皮切りに於いて一回目のそれよりも寧ろ、脅し半分ではありましょうが会社解散の意をより強く仄めかすような風でありましたか。その挨拶代わりみたいな脅しの後に、早速土師尾常務による那間裕子女史への攻撃が開始されるのでありました。
(続)