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あなたのとりこ 568 [あなたのとりこ 19 創作]

「まさかこの前のストライキにもめげずに、性懲りもなく今度は袁満君に会社を辞めるように促すために喫茶店に誘った訳?」
「いやそうじゃなくて、何と云うのか、・・・」
 袁満さんは何とも話しにくそうに眉間に皺を寄せて、その後助けを求めるように頑治さんをちらと窺い見るのでありました。
「その席では袁満さん自身に関する事ではなく、どうしてかは俺にはさっぱり判りませんけど、那間さんの事が話題になったそうなんですよ」
 頑治さんがあっさりと代わりに云うのでありました。
「あたしの事?」
 那間裕子女史は自分の鼻を指差すのでありました。「つまりあたしを辞めさせたいと云う話しを、土師尾さんが袁満君にしたって事?」
「いや、はっきりとそう云う訳では、これがなさそうなんですよ」
 ここは袁満さんが口重そうに云って首を横に振るのでありました。
「じゃあ、あたしがどうして、二人の話しに登場したの?」
「それは未だにあやふやで、俺も良く判断出来ないんですけどね」
「で、内容は何だったの?」
那間裕子女史は袁満さんのこう云う話し振りが如何にももどかしいようで、視線をやや険しくして袁満さんを睨みつつ先を促すのでありました。
「那間さんが遅刻の常習犯であるとか、自分に対して敬語を使わないとか、社長に対しても敬意不足だとか、傲慢だとか、まあ、そう云った悪口です」
「ふうん。あたしの悪口をあれこれ云うために袁満君を喫茶店に誘ったって訳?」
「どういう魂胆があったのかは知れませんが、でもまあ、何だかんだと那間さんの行状について、批判がましい事ばかりを喋っていたと云うのは事実です」
「ふうん、そう」
 那間裕子女史はここで顎に右手の曲げた人差し指の背を添えて、視線は袁満さんに向けた儘ながらややその険しさを緩めて、考え込むような仕草をするのでありました。
「何かの布石として那間さんに対する批判をベラベラ並べ立てたのでしょうけど、それが何の布石であるのかは結局得心出来ませんでしたけど」
「で、袁満君はどうしてそんな話しを始めたのか、そこで確かめはしなかったんだ?」
「ええまあ。一方的に捲し立てるんで、こちらから喋るきっかけがなくて」
 袁満さんは面目なさそうに俯くのでありました。
「要するにあたしを退社に追い込むための布石、と云う事だわね」
 那間裕子女史はそう云って横の頑治さんを見るのでありました。
「まあ、俺も多分そんな辺りだろうとは思います」
「先ず袁満君にあたしへの批判を聞かせてみて、袁満君がその批判に敢えて反論しないようなら、それはつまり他の従業員も同様に積極的ではないにしろ反論はしないだろうと勝手に判断して、それを以って今度はあたしを喫茶店に連れ出すと云う算段かしらね」
(続)
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あなたのとりこ 569 [あなたのとりこ 19 創作]

「俺は那間さんが怠慢であるとか傲慢であるとかの土師尾常務の批判には、全く同意しませんし、それが那間さんを辞めさせる理由となるとも断固として思いません」
 袁満さんは決然として宣するのでありました。
「でもその場でそう云わなかったから、土師尾常務は全従業員を代表する形で袁満君も、強弱は別にして、自分と同じ考えを持っていると無理にも判断したと思うわよ」
「それは強引な誤解と云う事じゃないですか」
「そう云う自分勝手な誤解を得意とする人じゃないの、あの土師尾さんと云う人は?」
 そう詰め寄られて袁満さんは不本意ながら二の句が継げないのでありました。
「那間さんに辞意を迫るのが土師尾常務の次ぎの目論見だとして、それは明日にでも那間さんに直接告げる心算なのか、それとも今度の全体会議で社長や全従業員の前で電撃的に提起する心算なのか、その辺は袁満さんはどう考えますかね?」
 頑治さんが自分の前に置かれたグラスを触りながら訊くのでありました。
「土師尾常務は那間さんを、女性でもあるし、少し苦手にしているところがあるから、直接那間さんに差し向かいで云う事はしないんじゃないかな」
「では全体会議で、と云う事になるのですか?」
「その方が他の者にも衝撃度が大きい、とか考えているんじゃないかな」
「でもそれは著しく穏当ではないし、下手をすれば紛糾して従業員との仲が決定的に悪化すると云うくらいは、幾ら土師尾常務が頓珍漢な人でも容易に想像出来るでしょう。そうなったら会議は紛糾して、土師尾常務や社長が避けようとしていたのに、結局社内の会議では収まらずに労働問題化して、全総連の介入を許す事になるんじゃないですかね」
「確かにそのくらいは誰でも判るわよね」
 自分に対する理不尽であり、尚且つ不当に辱めるようなシチュエーションでの攻撃が予想出来ると云うのに、那間裕子女史が案外冷静な語調で口を挟むのでありました。
「それに土師尾常務には全総連介入以前に、全体会議の場で従業員全員を向うに回して、本気で怒りを態と買う程の度胸はないと思いますよ。勿論社長にも」
「それはそうだけど。・・・」
 袁満さんは考え込むのでありました。
「でも話し合いのどこかのタイミングで急に逆上して、後先を考えられなくなって、意図的じゃなくうっかり人の感情を逆撫でして仕舞うところはあるしねえ、あの人には」
 那間裕子女史がモスコミールを一口飲んでからそうも云うのでありました。まあ確かにその危険も、まあまあ排除は出来ないかもと頑治さんは考えるのでありました。
「要するに袁満君があたしの事を、口を極めて腐す土師尾さんの本意が何処に在るかを、その場でちゃんと問わなかったのが不味かったと云う事ね」
 これも別に激したところもない那間裕子女史の云い様でありました。しかし袁満さんは自分の落ち度を那間裕子女史に厳しく指弾されたと解したようで、抗弁したそうな表情はするものの、しかし土師尾常務と同じでこちらも那間裕子女史に対してどこか苦手意識があるものだから、無念そうに口を噤んで俯いて仕舞うのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 570 [あなたのとりこ 19 創作]

「しかし土師尾常務の言に変なところを感じたから、こうして那間さん本人に会議の前に予め話しをしている訳でもありますから」
 頑治さんがここでは不要ではあろうけれど、一応袁満さんを庇うのでありました。
「ま、そこには感謝するわ」
 那間裕子女史はそれ程恩に着ている風でもない無表情な顔付きながらも、一応の礼儀からか袁満さんの計らいに小さくお辞儀しながら謝意を表すのでありました。
「ひょっとしたら近々、この前の唐目君の場合と同じように、あたしが土師尾さんに喫茶店に同行を求められる事があるかも知れないわね」
 那間裕子女史はそう云ってグラスを口元に運ぶのでありました。「そうなったら丁度良いからあたしの方も、土師尾さんに対する批評をうんとぶち撒けてあげようかしらね」
 袁満さんはこの言が本気なのか冗談なのか俄かには判断出来ないようで、ちょっと怯んだような表情を見せるのでありました。屹度那間裕子女史なら対抗上咄嗟に、土師尾常務に大変な剣幕で食って掛かると云う図も慎にリアルに想像出来るのであります。
 確かに那間裕子女史なら、頑治さんがしたように抑制的に不快感を表して、予めの組合の申し合わせに依るとして土師尾常務の依頼を柔らかながらきっぱり拒絶する、なんと云う応対は先ず考えられないと云うものでありましょう。あの自尊心の強い女史でありますから、特段の仕事上のミスも落度も無いのに、会社を辞めてくれないかと云われて激昂しないで居られる筈がないのであります。まあ、朝寝坊の件はこの際脇に置くとして。
「その場で土師尾常務批判を展開するのですか?」
「まあ、土師尾さんの出方に依ってはね」
 那間裕子女史は袁満さんに思わせぶりに笑んで見せるのでありました。
「若し、そう云う事になった場合は、興奮に任せてその場で勝手に、と云うか自分だけの判断で変な返答なんかしないで、一応持ち帰って組合の方に相談してくださいね」
 袁満さんが、勝手に、と云うのを、自分だけの判断で、とかちょっと丸めた感じに云い直すのは、土師尾常務の言に堪忍袋の緒を切らす前に、自分の今の言に激昂されては困ると云う忌憚の表れでありますか。頑治さんもその弱気は、まあ、理解出来ますけれど。
「心配しなくても大丈夫よ、多分」
 那間裕子女史はここも思わせぶりに笑むのでありました。「こうしてあたしが辞職勧告のターゲットになっていると云う事を予め聞いていたら、この先予見出来る土師尾さんとの遣り取りにも冷静に対処する事も出来ると思うわ、恐らく、ね」
「恐らく、ですか?」
 袁満さんはこの那間裕子女史の云い様に不安を見せるのでありました。
「まあ、恐らく、よ」
 那間裕子女史は袁満さんをからかうような笑みを頬に浮かべるのでありました。

 その日の深夜、もう既に日を跨いだ時間になってから突然電話が鳴るのでありました。未だ寝てはいなかったので頑治さんはすぐに受話器を取るのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 571 [あなたのとりこ 20 創作]

「たった今、那間さんから電話があったんだ」
 先程新宿駅で別れた袁満さんからでありました。
 洋風居酒屋を出てから頑治さんは袁満さんと那間裕子女史と一緒にブラブラ新宿の街を駅まで歩いて、那間裕子女史からもう一軒付き合えと云うお誘いがからなかったものだから、三人はその儘夫々違う電車に乗って帰宅の途に就いたのでありました。那間裕子女史が珍しく二件目の酒場行きを誘わないで、意外にもあっさりと帰宅の方を選んだのは、どこか調子が狂ったような具合であると頑治さんは何となく思ったのでありました。
しかしそれを云ってそれなら二件目と云われるのも少々煩わしかったものだから、勿怪の幸いとさっさと駅の地下通路で二人にさようならを云ったのでありました。女史に特に変わった様子は見受けられなかったのでありましたが、ひょっとしたら自宅アパート近くの居酒屋か何処かで、一人で己が将来を考えながら飲んでいたのかも知れません。
 袁満さんは荒い息の気配を受話器から滲ませながら続けるのでありました。
「それで、色々考えたけど、結局会社を辞める事にしたって云うんだよ」
「でも、新宿で飲んでいた時には、そんな素振りは見受けられませんでしたけど」
「そうね、その時意外には思ったけど、何となく激昂するような素振りも、取り乱して仕舞うような風もなくて、結構淡々としていたように俺も感じていたけどね」
「電話の那間さんはどんな感じで、会社を辞める事を切り出したんですか?」
「新宿で別れた時よりもかなり酔っているような口調だったかな。まあそれでも、感情が昂って平静でいられない、と云った感じじゃなかったようだったけど」
「今、自分のしている事や云っている事が、ちゃんと判っているようでしたか?」
「酔ってはいるけど、意識はちゃんとしているようだったけど」
「袁満さんをからかっているような感じはありませんでしたか?」
「いや、それもなくて、ちゃんとした報告、と云った調子だったよ」
「じゃあつまり、全くの正気で、会社を辞める決断をした事を、袁満さんにその電話で明らかにしたと云う事になるんですかね?」
「そう、だと思うけど」
 袁満さんの、受話器の向こうで頷いている気配が伝わるのでありました。
「で、袁満さんはそれに対してどう云う反応をしたんですか?」
「それはすごく慌てたよ」
 袁満さんはそう云って落ち着くためか一拍の間を空けるのでありました。「だって新宿で飲んでいた時には、そんな事を後で云い出すとは思ってもいなかったから」
「まあ確かに、土師尾常務が那間さんに対する、ある事無い事の悪口を袁満さんにぶち撒けたって聞いても、意外にも落ち着いた受け止め方でしたね」
「俺も、反応から見ると大して応えてはいないと思っていたんだけどなあ。でも自分よりも歳下で後輩でもある俺や唐目君の手前、激しい怒りとかくよくよしているところとかは見せられないと、努めて気丈に、落ち着いている風を装っていたんだなあ」
「まあ那間さんは、気が強い、と云うキャラクターで売っている人ですから」
(続)
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あなたのとりこ 572 [あなたのとりこ 20 創作]

「なかなかの姉御肌のところもあったしなあ」
 袁満さんはそう云ってから黙るのでありました。
「しかし、土師尾常務が袁満さんに那間さんの批判を聞かせたと云うだけで、それが那間さんを辞めさせる布石なのかどうかは、未だあくまで俺達の推量と云うだけなんですけどねえ。まあ、その可能性はかなり高いと云う感じは、至って濃厚にしますけど。でもひょっとしたら土師尾常務は日頃から那間さんに好い印象を抱いていないところにきて、何やら那間さんのちょっとした言動がふと面白くなくて、しかし苦手意識から本人に直接云い辛いものだから、それでその代わりに、袁満さんに吐き出したのかも知れませんし」
 袁満さんの話しが途切れたから、この間の場繋ぎをしなくてはならないと云う義務感に駆られて、頑治さんはぼちぼちとそう喋るのでありました。
「いやあ、土師尾常務は何か秘かに含むところがあって、その段取りとして、俺に那間さんの悪口を態々聞かせたんだと考える方が正解かなあ」
 袁満さんは頑治さんの場繋ぎの言葉には然程の賛意を示さないのでありました。まあ頑治さんとしては、それはそれで全く構わないのでありました。どだい頑治さん自身も実のところそんな風には考えてなんかいないのでありましたし。それに元々、土師尾常務が那間さん批判を袁満さんに聞かせたのは、那間さんを辞めさせるための布石だと云うこの推量てえものは、頑治さんが袁満さんに倉庫で話したところの可能性でありましたし。
「ここで那間さんに辞められると、組合としても困りますよねえ」
 頑治さんは話しの舳先を少し曲げるのでありました。
「そりゃそうだよ。組合員がたったの三人になって仕舞う」
 袁満さんがそう云うのを聞きながら、別に三人でも二人でも、それはそれで問題と云う事ではないのではないかと頑治さんは考えるのでありました。一人と云うのは通常あり得ないでありましょうけれど、しかし上部組織に加入していたら一人と云うのも、やりにくくはあるけれど、まあ、それはあるかも知れません。ここではしかし、話しが横道に逸れるから、頑治さんはその意見開示は差し控えるのでありました。
「那間さんはあの後誰かに相談して、会社を辞める結論を出したんですかね?」
「さあ、それはどうだろう」
 袁満さんの首を傾げる気配が頑治さんに伝わるのでありました。「新宿駅で別れた後、誰かに逢ったかどうかは俺には全く判らないし」
「それはそうですかね」
 頑治さんはひょっとしたら前に上司であった片久那制作部長に、まあ、あの時間に呼び出すと云うのはどうかとしても、電話ででも相談したのかしらとふと考えたのでありました。しかし那間裕子女史は片久那制作部長を、会社の中では大いに頼りにはしてはいたけれど、仕事を離れたところで一緒に飲んだり、遠慮も忌憚も無く何時でも電話を掛けたりする程の仲でもなかったように思うのでありました。那間裕子女史と片久那制作部長がそんな昵懇の間柄であるとの話しも、女子からも片久那制作部長からも聞いた事も仄めかされた事もなかったのでありますし、噂としても耳にした事はなかったのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 573 [あなたのとりこ 20 創作]

 それに若し相談をしたとしても、片久那制作部長は自分がこれから始めようとしている仕事に那間裕子女史を誘う気はないようでありましたから、好い機会だから会社を辞めて自分の方に来たら、とか云うアドバイスは先ずしないでありましょう。寧ろ曖昧で一般論風の、明快な言葉を避けた助言に終始したろうと考えられるのであります。
 では均目さんに相談したと云う目は無いでありましょうか。均目さんと那間裕子女史はなかなかに親密な関係だと頑治さんは踏んでいたので、これはかなりな確率であり得べき事ではありますか。均目さんなら、新宿駅で頑治さんや袁満さんと別れた後の那間裕子女史がどこかの酒場か、若しくは自分の家に呼び出す事も如何にもありそうであるし、或いは均目さんの処に那間裕子女史の方が行くと云うのも実にあり得る事でありましょう。
 しかし何となく二人の仲にはここのところ齟齬の薄紙が一枚挟まったような、どことなくギクシャクとした気持ちの行き違いが生じているようではありましたか。それが何に起因するのかは頑治さんには確とは判らないのではありますけれど、多分制作部の責任者となった均目さんの頼り甲斐に対する那間裕子女史のちょっとした見込み違いだとか、その内秘かに片久那制作部長の方へ行く心算でいる均目さんの、それを未だ打ち明けていない後ろ暗さであるとかお呼びの掛かっていない女史に対する忌憚とか、まあ、色々。・・・
「兎に角、那間さんに今会社を辞められると、組合としては非常に痛い」
 袁満さんの苦渋の声が頑治さんの思念の中に流れ込んでくるのでありました。「組合として、と云うだけでなく、会社存続と云う点でも、衝撃が大きいと思うよ俺は」
「まあ、それはそうでしょうかね」
 組合としてとか会社存続の観点からと云うよりは、那間裕子女史の突然の辞意表明に一番ショックを受けて冷静さを喪失しているのは、どちらかと云うと何に依らず事態の激変を嫌う、のんびり気質の袁満さん自身でありましょうか。
「那間さんは明日にでも辞表を提出する心算でいるんだろうか?」
 袁満さんが頑治さんにそんな事を訊くのでありまあした。しかしそれは元より頑治さんには判断の付かない事でありました。
「何時提出するとか、そこのところは電話で那間さんは云わなかったですか?」
「うん。取り敢えず会社を辞めると云う決断を、電話で俺に知らせたという感じかな」
「まあ、実際に会社を辞める時期としては、明日辞表を提出したとしても、提出から一か月後、と云う事にはなりますかねえ」
「いやいや、そう云う事ではなくて、俺としては那間さんに辞表そのものを出して欲しくないと思っているんだよ。会社を辞めないで欲しいと」
「しかし辞めるとか辞めないとかは個人の判断だし」
「何だか、唐目君は冷たいんだなあ」
「いや、冷たいとか温かいとか云う話しではなくて、進退は結局本人だけの意志だと、単にそう云っているだけですよ、俺は」
「つまり他人にはどう仕様もないと、すげなく云っている訳ね?」
「まあ、そうです」
(続)
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あなたのとりこ 574 [あなたのとりこ 20 創作]

「それはそうだけど。・・・何だか冷たいよなあ、そう云うのは」
「袁満さんは那間さんに、会社を辞めないでくれと即座に云ったんですか?」
 頑治さんが訊くと袁満さんの一瞬口籠もる様子が伝わってくるのでありました。
「いや、ショックが大きくてそれは云えなかったけど、うっかりして」
「うっかりしなくとも、こういう云い方は申し訳無いですけど、那間さんの機嫌を損ねたくないから、結局袁満さんは弱気から云えなかったんじゃないですかね」
「まあ、実はそうかな」
 袁満さんの力なく頷く気配が受話器から伝わるのでありました。
「いやまあ、俺も多分同様だろうから袁満さんの弱気をどうこう云う心算は更々ないんですが、例え周りが止めたとしても、結局那間さんの意志次第だと思うんですよ」
「それはそうには違いないけど、でもしかし、・・・」
「ま、ここであれこれ那間さんの退職と直接関係の無い事で云い争っていても始まらないから、明日にでも俺も那間さんの真意を直接聞いてみますよ。ひょっとしたら酔った勢いで袁満さんに会社を辞めると断言してはみたけど、一晩寝て、朝起きたら少し冷静になっていて、ちょっと気持ちが変わっている、なんて事もない事もないでしょうから」
「そうだね。唐目君の方からちゃんと聞いてみてくれると有難い。確かに一晩寝ると気持ちが整理されて、迂闊に辞めると云った事を悔いているかも知れないし」
 袁満さんは那間裕子女史の気持ちの変化に対する切なる願望を述べるのでありました。
「まあ、那間さんが朝一番で土師尾常務に辞表を出さない事を祈ります」
「そうだね。そうなったらもう手遅れだしね」
「ま、大丈夫でしょう。今夜痛飲したようですから、何時にも況して明日は朝寝して遅刻する確率が非常に高いと思いますから。それに土師尾常務にしたって恐らく明日の朝も、例に漏れず得意先に直行すると云う電話が入るに違いありませんからね」
 頑治さんの軽い冗談に袁満さんは力無く笑うのでありました。

 電話を架台に置くと頑治さんはその日の、と云うか、もう夜中の十二時を回っているから前の日の夜の、那間裕子女史の新宿の洋風居酒屋での様子を思い浮かべてみるのでありました。見た目には土師尾常務が自分への中傷を袁満さん相手に並べ立てたという事を聞いても、それで激昂した様子とか思い詰めたような感じは窺えなかったのでありました。敢えて内心の動揺を只管隠そうとしているような風でも無かったのでありました。
 頑治さんの印象としては、那間裕子女史は土師尾常務の罵詈雑言なんぞは全く以って意には介さない、と云った余裕すら窺えたのでありました。元々土師尾常務その人を大した人物とは思ってはおらず、歯牙にかけるにも値しない小者だと評するような云い草も、普段から事あるにつけ頑治さんは聞かされてもいたのでありましたし。
 しかし内心は腸が煮えくり返っていたのでありますか。それに土師尾常務が袁満さんに自分の悪口を縷々並べて見せるのは、後日自分を攻撃する布石であろうとは想像が付くから、それなら先手を打ってやろうと云う一種の自棄を起こしたと云う事でありますか。
(続)
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あなたのとりこ 575 [あなたのとりこ 20 創作]

 それにそれとはちょいと違う事ながら、那間裕子女史が先ず袁満さんに会社を辞めるぞと電話をしたと云う事に、頑治さんは少し落ち着きの悪さを覚えるのでありました。組合の委員長としてその立場を尊重したからと考えれば考えられるでありましょうけれど、しかしこれ迄の付き合いとか親密さの度合いとか狎れとかを考慮すると、先ずは袁満さんではなく均目さんか自分に電話をかけて来ても良さそうなものであります。
 まあ、均目さんとはここのところ何となくしっくりいっていないような雰囲気でありましたから、それなら袁満さんよりは頑治さんの方に先に電話を寄越すのが順当のような気もするのであります。別に嫉妬とか隅に置かれているような不快感みたいなものからそう思う訳ではなく、順番の妥当性と云う点で落ち着きの悪さを感じて仕舞って、それは何やら那間裕子女史の一種の屈託がそこに挟んであるように思えるのであります。その屈託てえものが一体何であるのか、頑治さんには容易には目星が付けられないのであります。まあ、那間裕子女史には那間裕子女史なりの考えがあっての事ではありましょうけれど。
 頑治さんは電話機を何気なく見るのでありました。那間裕子女史の夜も遅いからと云う配慮の故か、それとも袁満さんに電話した後に遂に酔い潰れて寝て仕舞ったためか、何の音も気配も発することなく頑治さんの家の電話機は静まり返っているのでありました。まあ、結局は明日になれば色々と事情ははっきりするでありましょう。
 それならばもう寝るかと、頑治さんは布団を敷き延べるために立つのでありました。するとそこで不意に玄関のチャイムが鳴るのでありました。
 はて、こんな時間に訪う非常識者の心当たりはないのだがと訝るのでありましたが、しかしすぐに勘が働いて、那間裕子女史の顔が思い浮かぶのでありました。今の今迄袁満さんと電話でその人の事を話していたのでありましたが、まさかその当人がこんな時間に態々訪ねて来ると云うのは、それなりの妥当性はあるでありましょうか。いやまあ、那間裕子女史の事だから、まあ、妥当性なるものはあるかも知れないと云えはしますか。
 玄関の扉の覗き穴から外を窺うと、誰の姿も見えないのでありました。しかし頑治さんの幻聴と云うには余りにはっきりと、チャイムの音は部屋に鳴り響いたのであります。と云う事は、ひょっとしたら誰かの悪戯なのでありましょうか。
 それでも耳を澄ますと、何やら扉の下の方で何かをそこに擦りつけるような微かな音が聞こえて来るのでありました。この不気味な音は一体何でありましょうか。
 頑治さんは恐る々々玄関の扉を外に開こうとするのでありましたが、扉は微かに動きはするけれど、外から抑えられているようにそれ以上開こうとはしないのでありました。こんな夜中に誰が、全くどういう思惑を以ってこんな戯れをしているのでありましょう。
 頑治さんは重みに抗して強引に扉を押し開こうとするのでありました。すると僅かに空いた隙間の下方に、何か棒状のものが倒れるようににゅっと横に投げ出されるのが見えるのでありまあした。これは要するに扉に脱力して依りかかって座っていた誰かが、扉が押し開かれる力の影響に依って横様に頽れたという現象でありますか。
 ようやく顔が出せる程の隙間が空くのでありました。頑治さんは外に頭を突き出して、この状況を正確に把握しようとするのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 576 [あなたのとりこ 20 創作]

 扉の前に人が倒れているのでありました。頑治さんが推し量ったように、寄りかかっていた扉が押し開かれたのでそれに押されて倒れたのでありましょう。そうやって倒れたのであるし、倒れた儘特段身じろぎもしないで横たわっている様子から、これは気を失っているのか、或いは酩酊して前後不覚に陥っているのでありましょう。
 頑治さんは隙間から身を外に出すのでありました。それからしゃがんでその倒れている人物の顔を覗き見るのでありました。間違いなく、那間裕子女史でありました。
「那間さんじゃないですか。しっかりしてくださいよ」
 身動き一つしない女史に頑治さんは声を掛けるのでありました。しかし何の反応も無いのでありました。昏々と眠っているようであります。
 この儘にしておく訳にはいかないので、頑治さんは女史を何とか抱え起こすのでありました。全身脱力して頑治さんにグニャリと寄りかかって来る那間裕子女史はやけに重いのでありました。まあ、重いと云うよりは扱いづらいと云うべきかも知れませんが。
 どうにかこうにか部屋の中に運んで本棚に寄りかからせて座らせるのでありましたが、酩酊のせいで座位を保っている事が出来ずに、那間裕子女史はうっかり支えの手を離したりすると、すぐに横様に倒れようとするのでありました。よくもまあ、こんな様子でいながら頑治さんのアパート迄辿り着けたものであります。
 それに第一、那間裕子女史は頑治さんのアパートにこれ迄一度も来た事はなかったし、その在り処も詳しくは知らない筈であります。まあ、ぼんやり本郷に在ると云う事は知っていたとしても、詳しい地番やらアパートの名前なんかは、頑治さんは正確に伝えた覚えは無かったと思うのでありました。頑治さんが歩いて会社に通勤しているという事は知っていたし、順天堂大学病院の近くであるとか本郷給水所の近所だと云うのは、まあ、喋った事があるかも知れませんから、それを頼りに何とか探し当てたのでありましょうか。
 しかしそうやって訪ね歩くにはちょいとばかり酒が過ぎてはいないでありましょうか。こんな状態でフラフラと初めての訪問先を歩き探すと云うのは、これは如何にも無謀と云うものであります。まあ、酔った勢いがあるから無謀にもなれたとも云えますが。
 それにまた、那間裕子女史と別れたのは新宿であります。新宿で別れた後で那間裕子女史が態々その新宿からお茶の水とか神保町とかにまた遣って来て、そこで一人で飲酒していたと云うのは、ま、普通なら有り得ないような気もするのであります。それなら新宿に在る別の見知っている酒場とかバーとか、或いは女史のアパートの在る荻窪近辺の酒場と云うのが、妥当と云えば極めて妥当な場所と云えるでありましょうか。
 まあこの辺の事情なんぞは那間裕子女史本人に訊いてみないと良くは判らないのであります。しかしこうして前後不覚に酔い潰れて、自分で座っている事も出来ないような状態であるとなれば、訊いても全く以って詮無い事と云うべきでありましょう。
 でありますから当面、ずっと体を支えて座らせているのも頑治さんの腕が持たないと云うものでありますので、取り敢えず手を離してごろんと転がして、風邪を引かせては拙いので毛布でも掛けてやる事にするのでありました。しかしその儘頑治さんのアパートに朝迄寝かせておくのは、何やら少々具合の悪い事のようにも思われるのでありました。
(続)
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