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あなたのとりこ 524 [あなたのとりこ 18 創作]

 かねてからの打ち合わせ通り、従業員全員は自席に着座した土師尾常務を早速取り囲むのでありました。因みに日比課長は昼休みが終わって午後一番に、何となくばつの悪そうな風情でそそくさと会社を出て行くのでありました。
 で、土師尾常務はこの突然の事態に大いにたじろぐのでありました。
「何だ君達は。僕がちゃんと得意先に行って来たのかどうか疑ってでもいるのか?」
 これは思わず語るに落ちたと云うもので、後ろめたさにおどおど狼狽えて愚かにも態々自分が電話の通り家から得意先に直行したのではなく、仕事をサボった事を白状したようなものだと頑治さんは内心で憫笑するのでありました。小人のつく嘘てえものは得てしてこんなような頓馬な結果を齎すものだと云う好例でありましょうか。
「そんな事じゃありませんよ」
 土師尾常務の真横に最接近している袁満さんがその頭の上に、少し荒けない調子の言葉を振り掛けるのでありました。「まあ、その事も、後程問題にはしたいけど」
 袁満さんは調子を和らげて皮肉っぽく笑いながら続けるのでありました。
「じゃあ何なんだ、こんなただならない様子で僕を取り囲むのは」
「常務は唐目君に、会社を辞めてくれと云ったようですね」
 袁満さんにそう重ねられて、土師尾常務はすぐに袁満さんの横に立つ頑治さんの方に顔を向けて鋭角な視線を投げるのでありました。
「唐目君は早速皆に話したのか」
「土師尾常務に退職を勧められる前に、何か待遇変更なんかの話しが個別にあっても、それを個別に解決しようとしないで、組合員全員の問題として取り組もうと云う申し合わせが出来ていましたから、つまりそれに従った迄ですよ」
 土師尾常務のまるで告げ口を非難するような視線に対して、頑治さんは全くの無表情を以って事務連絡のような感じで応えるのでありました。
「黙っていてくれとちゃんと頼んだのに」
 土師尾常務は恨めしそうに頑治さんから視線を逸らして、当て付けがましい舌打ちの音を少し大きく立て見せるのでありました。これは自分の依頼を聞かずに皆に早々にお喋りして仕舞った頑治さんを手前味噌に腹立たしく思っての所作であり、その舌打ちの音の大きさで頑治さんを怯ませてやろうと云う意図からの仕草でもありましょう。
 土師尾常務は自分のそんな迫力ある怒りの表明に、頑治さんは大いにオロオロするであろうと踏んでいたようでありました。しかし頑治さんの様子に臆したような風情はとんと見られないのでありました。寧ろその全くの無表情に自分の企図が端から読まれていて、逆に小馬鹿にされているような屈辱を感じようで、土師尾常務はちらと頑治さんをもう一度上目に見てから、寧ろ自分の方が弱気にその視線を逸らすのでありました。
 まあ、頑治さんとしては特段の意図で以ってこの無表情を期した訳では全くないのでありました。しかしそれでも土師尾常務がそのように勝手に独り相撲を取るような事をするのなら、ま、それはそれでしめしめと云うところではありますか。
「それで、若し唐目君がダメだったら、他の者に同じ事を云う心算だったようですね」
(続)
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あなたのとりこ 525 [あなたのとりこ 18 創作]

 袁満さんが本題を続けるのでありました。「唐目君はそう云う常務の目論見をとんでもないと思ったから全員に周知したので、これは組合員として当然の行為でしょう」
「その次に一体誰を標的にする心算だったのかしら」
 頑治さんの次に控えた那間裕子女史が土師尾常務を睨むのでありました。
「そんな事今ここで態々、僕の口から云う筈が無いだろう」
 土師尾常務は不快感と一緒に恫喝めいた仄めかしも言葉に込めるのでありましたが、弱気からか那間裕子女史の顔には決して視線を向けないのでありました。
「云って置きますが、我々は不当な解雇には誰も応じませんからね」
 袁満さんが語気が強めると、ここで予てからの打ち合わせ通り組合員打ち揃って、そうだ、とか、当然だ、とか、声高く合いの手を入れるのでありました。計算通り土師尾常務はその声に怯んで、そわそわと眼鏡の奥の眼球を何度も微動させるのでありました。
「今は仕事時間中で、こうして僕と喧嘩腰に討論している時間ではない筈だが」
 土師尾常務は当座の逃げを打つためかそう云うのでありました。
「ああそうですか。それなら向後一切、不当な解雇を画策しないと今ここで確約してくださいよ。そうしたらこれ以上は何も云わず解散しますよ」
「それは、まあ、出来ない」
 土師尾常務は気圧されて気持ちの上ではすっかり不利ながらも、常務としての体面があるためか容易には引かないのでありました。「第一、こうしていきなり僕を組合員全員で取り囲んで、脅かすような真似をするのは卑怯じゃないか」
「一人々々個別に喫茶店か何処かに呼び出して、正当な理由もなく会社を辞めてくれないかと持ち掛ける事こそ卑劣と云うものですよ」
「ちゃんとした理由はあるよ」
 土師尾常務は意地からそう強弁するのでありました。
「ほう、ではそのちゃんとした理由とやらを聞かせてくれますかね」
 土師尾常務の机を挟んで袁満さんや頑治さん、それに那間裕子女史の側とは反対側の列の一番前に立っていた均目さんが訊くのでありました。
「それは、・・・経営判断だからここでは云えないし、君達に云う義務も無い」
「それならそれで結構ですが、そうなると我々は不実で強権的である常務の態度に抗するために、今からストライキを宣言することになります」
「ストライキだって?」
 土師尾常務はその言葉に怯むのでありました。そんなものは許さない、とすぐさま大喝したいのは山々ながら、しかしそれが労働組合に対する不当な扱いに認定されないかどうか心配で、言葉を続ける勇気が無いようであります。
「そうです、ストライキです。それで以って上部にこの話しを報告して、全総連全体として常務の卑劣な画策にとことん対抗していきますよ」
 均目さんは別に激した風でもなく冷静にそう宣するのでありました。
「ちょっと唐目君に提案してみただけで、何でそんな大袈裟な事になるんだよ!」
(続)
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あなたのとりこ 526 [あなたのとりこ 18 創作]

「常務は気楽な心算かも知れませんが、これは典型的な不当労働行為に当たります」
 均目さんが自信を持って云うのでありましたが、これだけで本当に典型的な不当労働行為に当たるのかどうか、頑治さんは少しあやふやな気がするのでありました。しかしそんな事を敢えてこの場で云い出す気は更々無いのでありましたけれど。
 要は均目さんとしては確信あり気に不当労働行為だと云い立てて、土師尾常務を慌てさせるのが狙いなのでありましょう。まあ、実は頑治さんも同類なのではありますが、土師尾常務の労働法規等に対する無知と無関心を利用しようと云う肚でありますか。
 この均目さんの策謀に土師尾常務はまんまと嵌ったようで、次の句を継ぐ事が出来ずに目線をあちらこちらに泳がせるのでありました。
「以後このような不当労働行為は、決してしないと確約して貰えますか?」
 袁満さんがそう云って土師尾常務を睨むのでありました。
「確約して貰えないとなると、我々は向後安心して働く事が出来ませんよ」
 那間裕子女史が云うとここで全員で、そうだ、の声を上げる段取りだったのでありましたが、何故か全員何となく臆したように切っ掛けを逸して、袁満さんが何やら妙な音声を一声尻窄みに上げた後、恥ずかしそうに取り繕いの咳払いなんかして誤魔化す以外、誰も声を発しないのは慎に以って無様な次第であると云うべきでありましたか。
「口頭で確約して貰えるなら、敢えて念書を取るところ迄はしませんよ」
 この醜態を急いで糊塗せんとしてか、均目さんが態と嵩にかかって土師尾常務を追い詰めるような事を余裕たっぷりに云って見せるのでありました。
「何で念書なんか書く必要があるんだ!」
 ここでも均目さんの狙いは功を奏したようで、土師尾常務は組合員の秘かな醜態にはすっかり目もくれずに、均目さんの不遜に対してのみいきり立って怒声を浴びせるのでありましたが、その眼鏡の奥の目には相変わらず怯えと狼狽がはっきりと見て取れるのでありました。考えたら土師尾常務と云う御仁は、意外と扱い易い人ではありますか。
「だから口頭で確約して貰えば良いと、そう云っているじゃありませんか」
 均目さんは静穏に返して、土師尾常務の見せる過剰な剣幕に、やれやれ困ったものだ、と云った憫笑等をして見せるのでありました。
「どうしてそんなに無礼な口を利くんだ、均目君は!」
「平気な顔で陰湿な不当労働行為をする事こそが、我々労働者の人格に対する、この上無い無礼になるのではないですか?」
「不当労働行為をしている心算なんかないよ!」
「常務にその自覚が無いだけですから、それは常務の不見識と怠慢ですよ。何なら不当労働行為に当たる事をここで法令から逐一証明して見せましょうか」
 均目さんはそう云ってワイシャツのポケットから小さなメモ用紙を取り出すのでありました。つまりこれは、そこに縷々、土師尾常務のした事が不当労働行為に当たると云う証明が書き記されてあるのだ、と云ったような思わせ振りでありますか。この辺はなかなかの演技力で、人の悪さでは土師尾常務より一枚上と云う風であります。
(続)
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あなたのとりこ 527 [あなたのとりこ 18 創作]

「いいよ別に、今は」
 土師尾常務は均目さんから逐一、己の不当を云い立てられるのは何とも不都合と、大袈裟且つ荒々しく掌を横に振って見せるのでありました。
「じゃあ、今後不当労働行為に当たるような事はしないと誓約して下さい」
 袁満さんが詰め寄るのでありました。
「態々そんな誓約を僕にさせて、君たちは一体何をしたいんだ。僕が君達の前で怖れ畏まって、あたふたしながらみっともなく謝る姿を見て留飲を下げたいのか?」
「静穏な労働環境を得たいだけですよ。別に常務の醜態を見て喜ぶ悪趣味なんか更々ありませんよ。そんな事は全くどうでも良い」
 均目さんが蔑むような笑みを口の端に浮かべるのでありました。
「僕は謝らないし誓約とやらもしない」
「そんなに意地になって駄々っ子みたいに問題を拗らすのは馬鹿げていると思うけど」
 那間裕子女史も均目さんと同様の笑みを頬に刻むのでありました。
「意地になっているんじゃないし、自棄になっているんでもない。一人をいきなり大勢で取り囲んで、ああだこうだと難癖をつける君達の遣り口こそ問題なんじゃないか」
「ああだこうだと難癖をつけているんじゃなくて、社員を一人々々呼び出して退職を迫るような不当労働行為は止めてくれと、労働組合として申し入れしているだけですよ」
 袁満さんが少し怒気を見せながら云うのでありました。
「兎に角君達の遣り口はひどいと思う」
 土師尾常務は意地っ張りと体面上、なかなか引こうとしないのでありました。
「じゃあ判りました。これから全総連小規模単組連合贈答社分会はストに入ります」
 袁満さんはそう宣して土師尾常務の傍を離れるのでありました。皆もそれに従うのでありましたが、均目さんだけ残って、このストライキは半日ストで、明日になったら通常通り出勤する旨土師尾常務に告げてから皆の後を追うのでありました。

 そそくさと帰り支度を終えて、一行は揃って会社を出るのでありました。袁満さんと那間裕子女史は経緯報告のため全総連本部に向かうのでありました。他の連中は頑治さんが土師尾常務から退社勧告を受けた喫茶店に集って、二人の帰りを待つのでありました。
 三十分もしない内に袁満さんと那間裕子女史が全総連専従職員の、贈答社労働組合立ち上げ時から世話になっている横瀬兼雄氏を伴って喫茶店に入って来るのでありました。
「なんだか色々厄介な事になっているようだね」
 横瀬氏はそう云いながら着席するのでありました。それから遣って来たウェイトレスに袁満さん、那間裕子女史諸共にブレンドコーヒーを注文するのでありました。
「まあ、あの土師尾常務がすんなりこちらの云う事を聞く筈がありませんからね」
 均目さんが鼻を鳴らすのでありました。
「昨日袁満さんからちらっと電話を貰っていたから気にはしていたけど、詰まる所この事態収束のシナリオはちゃんと出来ているのかな?」
(続)
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あなたのとりこ 528 [あなたのとりこ 18 創作]

「取り敢えず明日、もう一度土師尾常務と話してみて、そこで片が付けは良いですが、埒が明かないようなら団体交渉を申し入れる事になります」
「その時は全総連からも何人か入る方が良い訳だね?」
「ええ。出来れば一緒に団交に加わっていただければ、と思っています」
 袁満さんは、ここは一つよろしくお願いするように頭を下げるのでありました。
「ところで唐目君に訊きたいが、具体的にどういう風に退職勧告を受けたのかな?」
 横瀬氏は頑治さんの顔を見るのでありました。
「二人だけで話したいことがあると社外に連れ出されて、先ず前振りとして思ったように業績が回復しないと切り出されたんです」
「で、だから会社を辞めてくれと?」
「いやまあ、すぐにそう云う話しになったのではなく、辞めた片久那制作部長が自己主張の強い人で、これ迄自分や社長が如何に手古摺らされてきたかとか、お客さんに対しても無礼窮まる態度を取るし、ちゃんとした社会人として疑問に感じるような事もしていたとか、まあ、そんなような自分には直接関係の無い恨み言を先ず、縷々聞かされました」
「ふうん。まああの人なら、そんな場違いな愚痴も平気で云い出しそうだな」
 横瀬氏は苦笑して見せるのでありました。
「好い加減そんな居ない人への恨み言をウジウジ聞かされるのも腹立たしいから、話そうとしている事を端的に話してくれないかと、少しせっかちに催促したのです」
「で、辞めてくれと?」
「いやそんなにすんなり話しする人でないのは、横瀬さんも知っているでしょう」
「まあ、それはそうだな」
 横瀬氏はまた苦笑うのでありました。
「それから再び業績が云々という言葉を重々しく繰り返して、此の儘では暮れの一時金も出せないし、それどころか今年一杯会社が持つかどうかも判らないと嘆いて見せて、この儘なら人員整理と云う事も本気で考えなくてはならないと、やっとそんな言葉が出て来たものだから、自分の方から、要するに自分に会社を辞めてくれと云っているのかと聞いたのです。まあ、こういう話しであろうとは端からから察しは付いていたんですけど」
「色々持って回って勿体付けて、こちらとしては全く本意ではなくて、無念ながらの苦渋の選択なのであると云う点を、ちょっと弱気にそれとなく仄めかせて見せた訳だな」
「まあ、そうでしょうね。そう云うところは全く非情な訳ではないと云う点で、まあ、あの人は根っからの悪人と云う事もないのでしょうけど」
「ふうん、成程ね」
 頑治さんの最後の土師尾常務評には興味を示さないで横瀬氏は何度か頷いて、来たばかりのコーヒーを如何にも熱そうに一口啜るのでありました。「で、唐目君が辞める意志が無いなら、誰か別の人に当たる心算だと云う風に話しが展開した訳だ」
「まあ、概ねそうですね。だからこれは自分個人の問題としてだけ考える訳にはいかないと判断して、予てからの申し合わせ通り組合に報告したと云う次第です」
(続)
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あなたのとりこ 529 [あなたのとりこ 18 創作]

「誰か別の人、の筆頭格は多分あたしの筈よ」
 甲斐計子女史が前に云っていた事をここで繰り返すのでありました。
「それは何か根拠でもあるんですか?」
 横瀬氏は、甲斐計子女史がひょっとしたら自分より歳上かも知れないと云う辺りに気を遣ってか、一応敬語で聞くのでありました。
「春闘の時に新しい賃金体系になった折、社長と土師尾さんが二人グルになって、あたしにだけ前の儘のお給料で我慢しろ、なんて不当な事を云った事がありますからね」
「ああそれで、甲斐さんは組合に入る事になったんでしたねえ」
 横瀬氏は甲斐計子女史が組合員になる経緯を前に袁満さんから聞いていて、それをちゃんと覚えていたようであります。ま、年齢の方は失念しているとしても。
{いや、甲斐さんだと決まっている訳じゃないけどね}
 袁満さんが否定するのでありました。
「そうよ。それはあたしかも知れないし」
 那間裕子女史が云うのでありました。「あたしは元々尊敬もしていないから、土師尾さんにでもずけずけものを云うし、可愛気のない反抗的なヤツだと常日頃から苦々しく思っているんじゃないかしらね。まあ別に、あたしはそれで結構だけど」
「誰が候補なのかは今のところはっきり判らないけど、でも誰か一人、或いは複数を辞めさせようとしているのは確かみたいだ」
 均目さんが話しの舳先を元の方角に軌道修正しようとするのでありました。「ひょっとしたら明日朝、早速唐目君以外の誰かに声を掛けるかも知れない」
「まあ、朝、定時に出社して来れば、だけど」
 袁満さんがそう受け応えた後で慌てて那間裕子女史の方を窺うのは、今の言は別に、遅刻常習犯の那間裕子女史への当て擦りを企図して云った訳ではないからでありましょう。ひょっとして那間裕子女史に鞘当てだと勘繰られては全く不本意でありますから。
 勿論那間裕子女史もその辺りは弁えていて、別に袁満さんの言に拘る様子は見せないのでありました。しかし、無視するように目も向けないのではありましたけれど。
「だからこちらとしては土師尾常務が出社して来たらもたもたしていないで、何か変な動きをする前に機先を制して、今日の申し入れに対する返答を迫らなければならない」
 均目さんは何だか謀を回らしているような顔で云うのでありました。
「何なら今日の内に常務の退社時間を狙って、返答を要求すると云う手もあるかな」
 袁満さんがせっかちな事を云い出すのでありました。
「いや、今日は我々はストライキですから、今日の内にぞろぞろと連れ立ってまた会社に戻るのは何となく体面として無様なんじゃないですかね。それに常務の事だからしめしめとばかり退社時間前に、仕事放たらかしでこそこそ帰宅して仕舞うかも知れないし」
「ま、あの人の事だからそれもあり得るかもね」
 甲斐計子女史が納得の頷きをするのでありました。
「いや、それ程肝っ玉の太いヤツでも全然ないからなあアイツは」
(続)
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あなたのとりこ 530 [あなたのとりこ 18 創作]

 袁満さんが鼻を鳴らすのでありました。
「そうね。どちらかと云うとオロオロして、家に帰るタイミングを逸して、ネガティブな妄想に襲われながら、会社にくよくよ居残っているかも知れないわね」
 那間裕子女史が薄ら笑いながら云うのでありました。
「自分ではどうして良いのか判らずに、日比さんが帰って来るのを只管待っているかも知れないし、日比さんが帰ってきたら、待ってましたとばかり今日の出来事をすごい剣幕で洗い浚いぶち撒けて、取り敢えず自分への共感を得ようとするかも知れない」
 袁満さんがリアルにその様子を思い浮かべているような表情をするのでありました。
「まあ、日比さんじゃあんまり頼りにはならないから、取り敢えずある事無い事ぶち撒けるとしても、それで少し気持ちが落ち着くのを期待して、と云う程度だろうけどね」
 甲斐計子女史も頷くのでありました。
「非組合員である日比さんを確実に味方に付ける意図だな」
 均目さんが顎を撫でながら云うのでありました。
「そうね。それも確かにあるかも知れないわね」
 那間裕子女史が賛同するのでありました。
「でも日比さんも日頃から土師尾さんを決して好くは思っていないから、そう易々とは味方には付かないんじゃないかしら」
 甲斐計子女史は首を傾げるのでありました。
「いや、日比さんは結構な蝙蝠だから土師尾常務にも良い顔をしたいだろうし、ひょっとしたら条件次第では、結構すんなりと土師尾常務の側に付くかも知れないよ」
 袁満さんは日比課長とは長年しっくりいっているし、日頃から昵懇の仲のようにしているけれど、しかしなかなかその人間性に関しては少々懐疑的なようであります。
「なかなか油断出来ない人みたいだね、その日比課長と云う人は」
「いやまあ、案外チョロい人でもありますけどね」
 袁満さんは横瀬氏の言葉にそう返して片頬で笑むのでありました。「それに元々会社を辞めさせたかったのは、出雲君の次ぎは恐らく日比さんだったろうから、土師尾常務もそんなに簡単に日比さんを味方に付けようとはしないだろうし、日比さんの方も俄かには信頼が置けない土師尾常務の懐柔策には、そう簡単に乗れないだろうしなあ」
「でもそれは片久那さんが会社に居ると云う前提での話しで、それが崩れたら土師尾さんの態度も変わるし、日比さんも少しは抜け目なく計算を働かせるんじゃないかしら」
 甲斐計子女史が二人の気持ちを分析するのでありました。
「お互いの打算がここに来て合致するって事ね」
 那間裕子女史も甲斐計子女史の分析に頷いて見せるのでありました。

 ここで均目さんが語調を変えて話しの推移を調えるのでありました。
「まあ、土師尾常務の気持ちとか日比課長の打算とかはこの際別の話しとして、ここは明日になって土師尾常務にどう対するかと云う話しに戻ろう」
(続)
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あなたのとりこ 531 [あなたのとりこ 18 創作]

「それはそうね。今は余計な話しをしている場合じゃないし」
 那間裕子女史も口調を改めるのでありました。
「土師尾常務としては、良策はさっぱり思い付かないし、かと云ってこの儘すごすごとこちらの申し入れに従うのは癪だし、遂に持て余して、日比課長ではなく社長に話しを持って行って、明日になったら社長が出て来ると云う事はないかな?」
 袁満さんが別の懸念を口にするのでありました。
「まあ、それはあるかも知れないわね」
 甲斐計子女史も心配顔をするのでありました。
「今日は駐車場に、社長の車はありませんでしたよ」
 頑治さんがそんな事を云い出すのでありました。「社長は午前中に姿を見せなければ、その日は恐らく会社には来ないんじゃないですかね」
「午後からやって来る事は無いのかね」
 横瀬氏が頑治さんの顔を見るのでありました。
「これ迄の例からすると、社長の車が午後になってから駐車場に現れる事は、特別な用事が無い限り殆どなかったと思います。まあ、あくまでも俺が見た限りで、社長の車の在り無しから傾向を推察すると、と云う事になりますけど」
「確かにあの社長は、意外と律義に自分の決めた様式を守るところがあるかしらね」
 甲斐計子女史が頑治さんの推量を補強してくれるのでありました。
「云われてみればあの社長は、ウチの会社に顔を出すとすれば午前中に、と云う事が多かったかな。じゃあつまり、今日は社長は会社に遣って来ないと云う事だ」
 均目さんがまた顎を撫でるのでありました。「だったら土師尾常務は明日迄に社長に相談を持ち込む事は出来ないと云う事になるか」
「ま、電話と云う手段はありますけど」
 頑治さんは別の可能性も一応提示して置くのでありました。
「それはそうだけど、土師尾さんがこう云う件で、一々社長の家に電話を入れる事は無いんじゃないかしら。まあ、あくまであたしの想像だけど」
 甲斐計子女史が電話と云う線を否定するのでありました。
「でも、俺か別の誰か、或いは複数の誰かを辞めさせると云う謀は、既に社長と結託して遂行されている事かも知れませんよ。それに実は社長の考えに依るもので、土師尾常務は単にその意を受けて、実行に及んでいるだけかも知れませんよ」
 頑治さんが自分の推量を続けるのでありました。
「それはあるかも知れない」
 均目さんが頑治さんの推察に頷くのでありました。「会社の現状に関して、土師尾常務は実は、あんまり良好ではないだろうなあと云う薄ぼんやりした感触は持っていても、数字とかでちゃんとは掌握していないかも知れない。片久那制作部長が居た時もそんな風だったし。寧ろ現状を一応正確に認識している社長があたふたして、この人員整理と云う打開策を目論んだと考える方が、どちらかと云うとリアリティーがあるかな」
(続)
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あなたのとりこ 532 [あなたのとりこ 18 創作]

「じゃあ明日の事を確認するけど、明日土師尾常務が出てきたら早速団交を申し入れる事になる訳だが、それは当該だけで行うんだね?」
 横瀬氏が段取りを確認するのでありました。
「そうですね。申し入れは当該組合員だけで行います」
 袁満さんが頷きながら応えるのであり巻いた。
「団交は即日開催と云う訳もいかないだろうから、明日の土師尾常務への申し入れには社長は同席しない公算が大きいと云う事になるが、しかし日時を改めて設定した団交には、土師尾常務から報告を受けて社長も出席すると云う事になるんだね?」
「そうですね。土師尾常務とだけ話しても多分埒が開きませんし、社長が出て来ないと、実際は何も決められないでしょうし。寧ろ社長の出席はこちらから要求します」
「で、その団交には全総連から俺か、他に一人二人入れば良い訳だね」
「我々の目論見としてはそう云う事になりますね」
「じゃあ、一応組合立ち上げや春闘の時から馴染みがあるから、派江貫さんと来見尾さんに声を掛けて置こう。この二人ならお宅の社長とも顔見知りだし」
「三人に来ていただけるなら、大いに心強いです」
 そう云って袁満さんは横瀬氏に感謝のお辞儀をするのでありました。

 さて次の日、思った通り土師尾常務は定時に出社する事はないのでありました。しかし一軒だけ得意先に寄ってくるだけだから、午前十一時には会社に顔を出すと云う事でありました。昨日の事を気にして、オロオロして自宅で安楽に仕事をサボっていられなくて、誰よりも早く出社に及ぶ事もあるかと話していたのでありましたが、それ程応えていないのか、意外にあっけらかんと何時も通りの増長振りであります。
 日比課長は昨日の事を何も知らないのでありました。と云う事は帰社してから土師尾常務に縷々、ある事無い事ぶち撒けられた訳ではないようであります。日比課長が何も知らなかったと云う事は朝出社してから判明したのではなく、昨日の夜に袁満さんが家に電話して確認した事でありました。日比課長は土師尾常務の依怙地でとことん判らず屋の態度に組合員が怒って、ストライキに及んだ事態に大いに戸惑っているようでありました。
 実は日比課長は遅くなったので昨日は仕事先から直帰したのでありました。そうなら土師尾常務と昨日中には接触もなかったし、袁満さんの電話を受ける迄、終業時間前に従業員皆の顔が会社から消えている事を全く知らなかったでありましょう。
 土師尾常務は十一時を二十分程過ぎてから会社に遣って来るのでありました。組合員は土師尾常務が自席に着くと早々に彼の人を取り囲むのでありました。
 袁満さんが昨日の内に罫紙にしたためておいた、封筒に入った団体交渉申し入れ書を土師尾常務の机の上に如何にも重々しい様子で置くのでありました。
「何だね、これは」
 土師尾常務はそれを取ろうとせずに上から眺め遣るのでありました。すんなり手に取らないのは、自分を囲んでいる組合員に対する不快感を表している心算でありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 533 [あなたのとりこ 18 創作]

「団体交渉の申し入れ書です」
 袁満さんが不愉快そうに云うのでありました。
「労使の団体交渉として君達と話し合いをする意志はないよ」
 土師尾常務は袁満さんを天敵を見るような目で見上げるのでありました。
「じゃあこの、申し家れ書を無視すると云うのですか?」
 袁満さんの横に立つ那間裕子女史が云うと土師尾常務は、顔は動かさずに目だけを横にずらして那間裕子女史を睨むのでありました。
「組合と話し合いをする意志なんか無いと云う訳ですか?」
 那間裕子女史のそのまた横に立つ均目さんが目を剥くのでありました。
「無視すると云うのではないよ」
 土師尾常務は、顔はあくまでも袁満さんに正対させた儘、また目玉を横に動かして均目さんを見るのでありました。顔の正面に袁満さんを捉えた儘でいるのは、組合の委員長でありこの行動の主役たる袁満さんへの敬意からと云うのでは全くなく、均目さんや那間裕子女史よりも袁満さんの方が言葉を交わす相手として与し易いと考えて、主たる相手を袁満さんと限っているその魂胆の表れかと頑治さんはチラと考えるのでありました。
「じゃあ、どうしてこの申し入れ書を手に取ろうともしないのですか?」
 均目さんが机の上に置かれた団体交渉申し入れ書を指差すのでありました。
「労働組合と経営側と云う関係で話しをするのは嫌だと云っているんだよ」
 土師尾常務は、顔は不機嫌そうであるけれど、変にあたふたしたり頭から湯気を出して激昂したりするでもなく、意外に落ち着いたすげなさで返すのでありました。その様子から、屹度昨日の内に社長と連絡を取り合って、組合員のストライキの件と団交申し入れの件への対応を、予め打ち合わせたのであろうと頑治さんは憶測するのでありました。
 多分昨日社長は会社に現れなかったであろうと思われるのでありますが、土師尾常務は何とか社長に電話でのコンタクトを取ったのでありましょう。で、幸いにも連絡が取れたので、あれこれ二人で対処を打ち合わせたものと思われるのであります。
 そうでなければこの土師尾常務が昨日の組合員のストライキに対して、オロオロくよくよ狼狽えて、何とか体面を保つために必死に怒り狂った様子をして見せて、理不尽な難癖を付けずに済まそうとする筈がないと云うものであります。つまらない見栄や体裁のために態々話を紛糾させて仕舞うのは、この人の得意技の一つでありますから。
「それなら、労使の交渉と云う形でないなら、話しをしても良いと云うんですね?」
 那間裕子女史が訊くのでありました。この那間裕子女史の咄嗟の言葉は、ちょっと不用意な云い草ではないと頑治さんは咄嗟に危惧するのでありました。何だか土師尾常務の思惑にうっかり乗って仕舞ったのではないかと思えたのであります。
「そう。労使と云うのではなく、社内の全体会議としてなら、話し合う用意はある」
 成程それなら対立構図を鮮明にする事無く、それに社外の人の参加も拒否出来る訳であります。つまり全総連の案件ではなくなるから横瀬氏等の参加を拒めるのであります。これは恐らく土師尾常務の考えではなく社長からの入れ知恵でありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 534 [あなたのとりこ 18 創作]

「つまり全総連の関係者はオミットして、社内の人間だけで、と云う事ですね」
 均目さんも土師尾常務の、或いは社長の思惑に気付いたようでありました。
「それはダメですよ。もう全総連には話しをしているし、全総連としても労使の団体交渉として、この話し合いの中に入る体勢が出来ているし」
 袁満さんが顔の前で掌を横に何度も降って見せるのでありました。
「しかし別に態々、全総連が介入してくる必要はないじゃないか」
 土師尾常務が袁満さんのこのすぐさま鮸膠も無く掌を横に振る仕草に対して、反射的にムッとしたようなは口調になるのは、この袁満さんの挙動を自分と云う上司に対する配慮の無い生意気な態度であり、甚だしく無礼だと感じたためでありましょう。
「いや、解雇しようと云う事なんだから、純然たる労働問題ですよ」
 袁満さんは、これも売り言葉に買い言葉で喧嘩腰を見せるのでありました。
「解雇しようとしたんじゃなくて、辞める気は無いかどうか訊いただけだ」
「何をこの期に及んで誤魔化さないでくださいよ!」
 袁満さんは机を掌で叩くのでありましたが、それは何となく気弱な躊躇い気味の叩き方であり、土師尾常務を驚かす程大音響を響かせるようなものではないのでありました。
「何だその態度は!」
 でありますから、このような反撃がすぐに返ってくるのであります。どちらかと云うとこの土師尾常務の叱声の方が、まあ、それ程大した事はないように頑治さんは感じたのではありますが、しかし袁満さんの尻込み気味の机叩きよりは、迫力の点で優っているのではないかと、ここは残念ながら土師尾常務に軍配を上げるしかないのでありました。
「確かに袁満君の云うように、そう云う云い方は誤魔化しよ」
 ここで形勢不利な袁満さんに代わって那間裕子女史が出て来るのでありました。「それに誰か辞めさせようとして、誰彼構わず片っ端から声を掛ける心算だったようだから、寧ろ破廉恥さと無茶苦茶さではそちらの方が酷いと云うべきじゃないかしら」
 破廉恥と云われて土師尾常務は那間裕子女史を睨むのでありましたが、女史に対して変な苦手意識があるせいか、せっかちな罵声を思い止まるのでありました。それから一呼吸入れて自分を落ち着かせてから、敢えて静かな口調で返すのでありました。
「誰彼構わず、と云うのではないよ。経営者として会社にとって必要な人材かどうかの判断はちゃんとしてから、声を掛ける心算だったんだ。それに勿論、その人が辞めたくないと云うのなら、強制的に解雇するような事は、先ずしないし」
「全総連絡みの厄介な労使の団体交渉にエスカレートしたものだから、急にそんな聞いた風の言を構えて、あっけらかんと弁解にこれ努めているんじゃないかしら?」
 那間裕子女史は土師尾常務を見下ろして、猜疑の笑みを浮かべるのでありました。
「いや、そうじゃないよ」
 当然土師尾常務としては、体面上ここは迂闊に引けないのでありました。
「じゃあ、社内の全体会議としてなら、話しをする用意はあるんですね?」
 ここで均目さんが言葉を挟んでくるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 535 [あなたのとりこ 18 創作]

「そうね。これから先会社をどうしていくかと云う話し合いは、労使交渉でするよりも全体会議としてする方がしっくりいくんじゃないのか」
 土師尾常務はまんまと思う壺、とばかりに均目さんに視線を向けるのでありました。これは拙い方向に流れが出来ようとしていると頑治さんは思うのでありました。その思いは那間裕子女史も抱いたようで、咄嗟に猜疑の目を均目さんに向けるのでありました。
「つまり部外者にはあんまり聞かれたくない、会社運営上の機微に属する事柄も話しの俎上に上げなければならないから、社外の人間にはなるべくこの話し合いに参加して欲しくないと云うことですね、常務の考えとしては」
 均目さんは那間裕子女史の視線を感じたのか感じなかったのかは知れないけれど、土師尾常務とのこの遣り取りを進めるのでありました。
「そう。その方が率直に色んな事が話し合えるし」
「それは、労働組合の元締めたる全総連の人に聞かせては拙い、如何にも労働争議に発展しそうな事を我々に提案する心算だから、と云う事ですね、要するに?」
 那間裕子女史が均目さんに向けた目容をその儘土師尾常務に向けるのでありました。
「部外者が居ない方が真摯な話し合いには何かと好都合だろう」
「ちゃんと従業員の事を考えた真摯な話し合いをするなら、ですけどね、あくまでも」
 那間裕子女史は眉間に皺を寄せて、あからさまな敵意を表するのでありました。「どうせ本気で話し合いなんかする心算は更々無くて、一方的にあたし達に無理難題を押し付けようって云う肚なんでしょう。だから全総連に立ち会って貰いたくないのよ」
「でも、そうだとしても、結局その一方的な無理難題なるものは、後日確実に俺達から全総連に伝わる事になるだろうから、その話し合いの場に全総連の人が居ても居なくても、特に意味は無いんじゃないかな。寧ろ社員だけの方が確かに好都合かも知れない」
 均目さんが静かな口調で那間裕子女史に反論するのでありました。
「いやしかし部外者が居ると居ないとでは、話し合いの節度と云うのか、進行の上で何かとスムーズに行くんじゃないかな。お互い体裁があるから変にカッカとしないで済むし、変に話しが紛糾したり横路に逸れたりしても、客観的な目で仲裁して貰えるだろうし」
 袁満さんが那間裕子女史寄りの言葉を挟むのでありました。
「いや、全総連の人なんだから、結局我々組合側に昵懇の人と云う事でしょう」
 均目さんが袁満さんの方に顔を向けるのでありました。「客観的な目、と云うにはちょっとその目にはこちら側の色が付き過ぎているんじゃないですかね。それに仲裁者として話し合いに参加して貰う気なんか、こちらにはこれっポッチも無くて、あくまでもとことんこちらの援護射撃をして貰う心算で立ち会って貰おうとしている訳ですから」
 均目さんは、これっポッチ、のところで、顔の前で右手の親指と人差し指で微々たる隙間を作って袁満さんに示すのでありました。
「まあ、そう云われるとそうではあるけど。・・・」
 袁満さんは首を竦めるのでありました。この均目さんと袁満さんの遣り取りを聞きながら、土師尾常務はしめしめと云った感じで片頬に笑いを浮かべるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 536 [あなたのとりこ 18 創作]

 どう云う思惑に依るのか均目さんは何方かと云うと、組合にとって好都合でない方向に話しを進めようとしているように頑治さんは思うのでありました。
「常務がそう云うのなら、何はともあれ我々従業員と常務とで、率直な話し合いをする事が第一の目的なんですから、ここは我々としても労使の団体交渉と云う形に拘るよりは、社内の全体会議と云う形で妥協してはどうでしょうかねえ?」
 均目さんが袁満さんの目をじっと見入るのでありました。

 ここでまた那間裕子女史が均目さんに猜疑の目を向けるのでありました。
「でも労使交渉と云う体裁を放棄した時点でこちらは、誰かに会社を辞めて貰うと云う前提を、ある意味是認した事になるんじゃないの?」
「しかしそれはあくまでも要請と云う事で、強制的な事ではないんですよねえ?」
 均目さんは後半の言葉を発する時に那間裕子女史から土師尾常務の方に顔の向きを変えるのでありました。それは那間裕子女史の猜疑の目から、体良く逃れるための視線の移動のようにも頑治さんには思えるのでありました。
「勿論、誰かに辞めて貰うと云う前提そのものの妥当性から、先ず話し合う心算だ。そう考えるに至った経緯も率直に話すし、それが、組合員としてではなく贈答社社員としての君等に容認して貰えないのなら、他の方法をお互い知恵を出して話し合う用意もある」
 土師尾常務はそう云って均目さんの意見に従う方が、無意味な労使の対立図式を持ちこむよりは建設的だと云うところを匂わそうとするのでありました。
「そんな協力的なところなんか今迄見せた事は一度としてないのに、ここで急に微笑みながら妙にもの分かりの好い風の事を云われても、それは如何にも取って付けたようで調子の好い云い草としか思えないから、あたしとしては俄かには信用出来ないわ」
 那間裕子女史が均目さんに送ったものよりももっと強い猜疑の目を土師尾常務の顔に向けるのでありました。これは当然であろうと頑治さんも思うのでありました。
「確認しますが、若し全体会議と云う形でなら、誰かに辞めて貰うと云う前提を綺麗さっぱり抜きにして、知恵を出し合うと云う形で話し合うと云うのですね?」
 どちらかと云うとぎすぎす喧嘩腰で対立するよりは、何事に付けても穏便なる事を尊しとする気質の袁満さんが、均目さんと土師尾常務の方に寄っていくのでありました。
「勿論その心算だし、君達に会社の立て直しに対して何か良い考えがあるのなら、是非聞かせてほしいし、それを真摯に聞くチャンスでもあると考えているよ」
 土師尾常務はここぞとばかり、今迄見せた事もないような嫌に親和的な笑みを袁満さんに向かって投げかけるのでありました。入社以来今の今迄そんな顔をされた事が一度たりとも無かったものだから、ここで袁満さんが少しそわそわして仕舞うのは、袁満さんの持って生まれたしおらしさとでも云うべきものでありますか。
「よくもまあ、そんな事をいけしゃあしゃあと云えるわね」
 那間裕子女史は袁満さんの見事に絆された様子に苛々して、しかし袁満さんにではなく土師尾常務に向かって声を荒げるのでありました。
(続)
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