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あなたのとりこ 445 [あなたのとりこ 15 創作]

 要するに袁満さんとしては、自分の部下のような存在だった出雲さんが愈々会社を辞める事を公然化した事に、矢張り平静ではいられないのでありましょう。だから那間裕子女史や日比課長の言葉が如何にも無神経で不謹慎で苛立たしく聞こえて、竟々過敏な反応をして仕舞うのでありましょう。まあ、判るような気が頑治さんはするのでありますが。
「別に突っかかってなんかいないよ」
 袁満さんは日比課長を見ないで、しかしこれも不機嫌な口調で云うのでありました。
「片久那制作部長は一体どういう役回りを今、下で演じているんだろう」
 均目さんが顎を撫でるのでありました。
「例に依って、これ以上ないと云うような仏頂面で一言も喋らないで、兎に角立ち会う、と云ったスタンスでその場に座っているんじゃないのかしらね」
 那間裕子女史が社長室の様子を想像するのでありました。
「そうやって腕組みとかされて片久那制作部長に不機嫌に座っていられると、その場の人間は何となく妙な威圧感を感じて居竦んで仕舞うだろうけど、それはつまり出雲君への威圧の心算なんだろうか。それとも土師尾常務と社長に対するものだろうか?」
「それは多分、土師尾常務と社長への威圧感を醸し出しているんだろう。別に辞めていく出雲君をおどおどさせる必要なんかな無いし」
 日比課長が均目さんと同じように顎を撫でるのでありました。
「まあ、それはそうかな」
 均目さんは顎を撫でる指の動きを止めて、一つ頷くのでありました。

 そうこうしている内に、案外早く出雲さんが一人だけで上の事務所に戻って来るのでありました。そのドアが開け閉めされる気配を察して、制作部スペースに居た全員は、今度は営業部スペースの方にゾロゾロと移動するのでありました。
 皆は自席に座った出雲さんを取り囲むのでありました。これまで動かないでいた甲斐計子女史も、今度はその馬蹄形の囲みの中に遠慮がちに加わるのでありました。
「下で何の話しをしていたの?」
 那間裕子女史が訊くのでありました。
「まあ、これまでお世話になりましたとか、そう云ったありきたりの話しですよ」
「どうして辞めるのかとか、妙に根掘り葉掘り、場合に依っては詰るような調子で何やかやと文句を付けられたり露骨に愚痴を零されたりしなかったの?」
「まあ、土師尾常務からは冒頭そんな事もチョロっと云われそうになりましたけど、片久那制作部長がすぐに現れて、それを制止てくれて、まあ、後は比較的和やかに、これ迄ご苦労さんとか、そんな感じの対応になりましたかね」
「社長も何も云わなかったの?」
「そうですね。今君が辞めるのは残念だとか、まあ別に引き留めようと云う口調でも無かったですけど、一応の愛想でしょうけど穏やかにそんな事も云って貰えました」
「ふうん。じゃあ、穏便に辞意は受け入れられたと云う事ね?」
(続)
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あなたのとりこ 446 [あなたのとりこ 15 創作]

「まあ、そういう事になると思います」
 出雲さんは那間裕子女史の顔を見上げて頷くのでありました。「で、一応社長にも挨拶したから、許しを得て深々と一礼してから引き上げて来たんですよ」
「経営陣三人は社長室に居残って、一体何を話し合っているんだろう?」
 均目さんが腕組みして小首を傾げるのでありました。
「出雲君が居なくなった後の地方特注営業をどうするのか、その辺を話し合っているんじゃないかな。それに関連して新しい人を雇うかどうかとか、そんな事も」
 袁満さんが公式的でありきたりな推測を述べるのでありました。
「それはどうですかねえ」
 均目さんが傾げた小首を元に戻して即座に疑問を呈するのでありました。どだい地方特注営業と云うのは出雲さんを辞めさせるために考え出した方便みたいな仕事でありましょうから、出雲さんが辞めた後にまたそれに付いてどうこうする心算は土師尾常務にも社長にも、それから勿論片久那制作部長にも綺麗さっぱり無いと云う読みでありましょう。
「出雲君の退職金について話し合っているんじゃないかしらね」
 甲斐計子女史が袁満さんの肩越しに云うのでありました。
「それは多分社長も土師尾常務もチンプンカンプンか、或いは全く以って無頓着と云ったところだろうから、例に依って片久那制作部長が今迄の既定のルールに照らして、それにその他諸々妥当と思われる色んな査定とかも勘案して決めるんだろうなあ」
 均目さんが袁満さんの顔の向こうの那間裕子女史に向かって応えるのでありました。
「春闘では賃金や、妥当で公平な賃金式の確立とか、それに一時金とその他処遇に関する諸々の要求はしたけど、退職金に関しては別に失念していた訳じゃないんだけど、しかし実感として現実味が薄いので何も要求を出さなかったから、特に新たな取り決めもしなかったし、まあ、山尾主任の時と同じで、片久那制作部長の肚に一任と云う状態かな」
 袁満さんも均目さんの推察に頷いて見せるのでありました。
「そうなると、額はあんまり期待しない方が良いかな」
 日比課長が出雲さんを見下ろして片頬に皮肉な笑みを浮かべて云うのでありました。
「退職金の話じゃないならあの三人は、三人だけで社長室で何を長々と話し合っているのかしら。下らない戯れ言に現を抜かしている訳でもないだろうし」
 那間裕子女史がここで、最初の均目さんの疑問に立ち返るのでありました。
「社長室を出る時に、出雲君は何かしらの気配でも感じなかったかな?」
 日比課長が座っている出雲さんの肩を指で軽く叩きながら訊くのでありました。
「いやあ、別に何も感じませんでしたねえ」
 出雲さんが日比課長を見上げて申し訳無さそうな顔をするのでありました。
「製品引き取りとその後に配送があるので、倉庫の方に行っても良いですかね?」
 頑治さんが何となく申し出にくそうな様子で誰にともなく云うのでありました。
「ああ勿論。ここでこうしていないで俺達もそろそろ仕事復帰しなくちゃ」
 袁満さんが、今気が付いたと、云った表情をしながら頷くのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 447 [あなたのとりこ 15 創作]

 袁満さんの言葉の後に夫々は自席に戻るのでありました。どう云うものかそれを待っていたかのように営業部の方でも制作部の方でも電話の呼び出し音が鳴り出すのでありました。頑治さんは均目さんが素早く受話器を取って、はい贈答社です、と応答の言葉を電話の向こうに投げているのを聞きながら、甲斐計子女史の席の横辺りにある制作部用の扉から急に何時も同様に慌ただしくなってきた事務所をそろりと出るのでありました。

 昼休みになっても、社長と土師尾常務、それに片久那制作部長の三人の話し合いは続いている気配でありました。これ迄になかった、嫌に長々しい談合であります。
「来客があったから、片久那制作部長はあの後、一端事務所に戻って来たけど、接客が済んだらまたすぐそそくさと社長室に戻って行ったよ」
 昼休みに頑治さんと均目さんと那間裕子女史の三人で、錦華公園近くの日貿ビルの地下にある四川飯店で昼食を摂っている時に均目さんが云うのでありました。「その後にも来客があったからまた戻って来たけど、矢張りこれも用が済むと社長室にすぐに戻った」
「長々と何の話しをしているんですか、とか二回目に戻って来てまた社長室に戻ろうとする時にちょっと、それとなく訊いてみたんだけど、・・・」
 那間裕子女史が海老のチリソースを自皿に取りながら続けるのでありました。「うん、とか、まあ、とかつれない返事をして、またすぐ事務所から出て行ったわ」
「午前中ずっと話していて、それに未だその話し合いは続いているようですから、何だか小難しい込み入った話しを三人で頭を寄せ合ってしているんですかねえ」
 頑治さんは後輩の心掛けとして那間裕子女史が取り終えるのを少しの間待ってから、徐に自分も海老のチリソースに箸を伸ばすのでありました。
「何だか急に、降って湧いたような長話しだよなあ」
 均目さんは蟹玉が目当てのようであります。「出雲君の退職に絡んで、何かあの三人にとって重大な問題が持ち上がったと思われるけど、それが何なのかさっぱり判らない」
「春闘の時にもそんな事は無かったから、大いに気になるわね」
 那間裕子女史が海老を口に運び入れるのでありました。「何の話しか聞いた時の、片久那さんのあの面白くなさそうな顔と曖昧な返答からすると、妙に気になるわね」
「何の話しをしているのか皆目判らないところが不気味だよなあ」
 均目さんが蟹玉の後にすぐ飯を口の中に入れるのでありました。
「均目君が今、出雲さんの退職に絡んで重大な問題が持ち上がって、とか云ったけど、出雲さんの退職に絡んでなら、経営の三人でこんなに長く話し合いをする事なんかないんじゃないかな。話すとしてもせいぜい退職金に関してか、その後の出雲さんの跡目の事だろうから、それならこんなに長く話し合うような事項じゃないと云うみたい事だしね」
 頑治さんは箸の動きを止めて考え込むような表情をするのでありました。
「それはそうだな。と云う事は出雲君の事とは無関係な、何やらあの三人にとって深刻な問題が誰かから提起されたと云う事になるかな」
 均目さんも箸の動きを止めるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 448 [あなたのとりこ 15 創作]

「それはつまり土師尾さんと片久那さん二人の、自分達の待遇に関する何事かが急に、出雲君が出て行った後に社長から提示されたと云う事かしらね。そうじゃないと仕事そっち退けでこんなに長く社長と談判なんか、あの二人はしないんじゃないかしらね。逆にそう云う事なら、あの二人なら平気で仕事をそっち退けするって事だけど」
 那間裕子女史が別に皮肉を云う風でもなく至ってクールに云うのでありました。
「まあ、いざこざの種は何時も社長が蒔くとは限らないし、寧ろそれは土師尾常務のお家芸で、出雲君を予定通り退職に追い込んだんだから、何かご褒美を寄越せとか捩じ込んでいるのかも知れない。片久那制作部長も多分それに同調しているんだろう」
「恥知らずの土師尾さんならそんな事も遣らかしかねないけど、片久那さんがそこ迄如何にも浅ましい要求を社長にするかしら。かなり偏屈な人だけど、筋は通すし結構義理人情を重んじるみたいだし、外見をひどく気にする一面も濃厚にあるから」
「でも片久那制作部長にしても積極的に加担する訳ではないにしろ、出雲君を辞めさせるのは疾うに承知していた筈だし、土師尾常務の浅ましさに、一見消極的な装いはしながらも、ちゃっかり便乗するくらいのワルの一面もちゃんとあるし」
「自分が表立ってと云うのは都合が悪いけど、仕方なく浮世の義理から便乗する、と云う体裁なら、全く考えられない事でもないかしらね」
 那間裕子女史も均目さんも、片久那制作部長と云う人の人格的陰影の深さに対する畏怖から、一方に絶大なる心服の情を持ちながらも、もう一方で心底からは信頼出来ないと云う警戒心も一緒くたにして持ち合わせているのでありましょう。まあその割合は、頑治さんが見るところ信頼感七分に警戒心三分、と云った辺りでありましょうか。
「唐目君の読みに依ると、出雲君の次は日比課長と云う事になる」
 均目さんが箸を置いてウーロン茶を啜ってから云うのでありました。
「今度は土師尾さんの二番手たる日比さんを切る番だと云う訳ね」
 那間裕子女史も小振りの白いウーロン茶の茶碗に手を伸ばすのでありました。
「それは前にも云ったけど、何の根拠もない俺の推察以上ではないですけどね」
 頑治さんは如何にも自信無さそうに、且つそれに付いて責任も負い兼ねると云うような意気地無しの口調で云って、自分もウーロン茶の茶碗を手にするのでありました。
「でもその読みは多分当たっていると思うわ」
 那間裕子女史が一つ頷いてから茶碗に口を付けるのでありました。
「未だ当分、一悶着も二悶着もこれからあるって事かな」
 均目さんがやれやれと云った顔をするのでありました。それを潮に、と云う事にして立ち上がった三人は、割り勘で会計を済ませて足取り重く帰社するのでありました。

 未だ土師尾常務と片久那制作部長は社長室から帰って来てはいないのでありました。ここまで長い談合をしているとなると一体何をそんなに話し合っているのかと、何やら更に不安になって来るのは社員全員の心情と云うもので、頑治さん達が事務所に戻るとすぐ、袁満さんがそわそわしながら近付いて来て話しかけるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 449 [あなたのとりこ 15 創作]

「未だ土師尾常務も片久那制作部長も帰って来ないぜ」
 袁満さんは昼食から返って来た三人を見回して呆れたように云うのでありましたが、その目は明らかに大袈裟なくらいの動揺を宿しているのでありました。
「お昼になったから、三人で一緒にご飯を食べに行ったんじゃないの?」
 那間裕子女史が袁満さんの小心を鬱陶しがってか、すげなく返すのでありました。
「いや、俺も昼飯を食いに出て行く時と帰って来た時に、ちょっと社長室の前迄行ってみたけど、ずうっと中に居て三人で話し込んでいる気配だったよ」
「出雲君が社長室から一人出て来る時は、別に変った様子はなかったんだよねえ」
 均目さんが袁満さんのそわそわ顔から目を逸らして、その肩越しに自席に座ってスポーツ新聞を眺めている出雲さんの方に視線を遣って訊くのでありました。
「そうですね。特に変わった様子はなかったですねえ」
 出雲さんは顔を上げて愛想笑いながら返すのでありました。
「ま、ここであれこれ憶測して不安がっていても意味が無いし、まさかこの儘ずっと終業時間まで社長室に居続ける事はないだろうから、帰ってきたら訊き質せば良いわよ」
 那間裕子女史が袁満さんを窘めるように見てから、すぐにその後に出雲さんの方を見遣るのでありました。「それより出雲君は、この後何時まで出社するの?」
「規定では今日から一か月後迄、と云う事のようですが、給料計算の区切りが良いからと云うので、この二十日の締め日迄で良いと云う事になりました」
「ふうん。山尾さんの時と同じね、その辺は」
「そうですね。別に新しい人を雇って引継ぎする事も無いし、元々、新しい人なんか雇う予定はないと云う事のようっスから」
 それはそうでありましょう。出雲さんを担当にして始めた地方特注営業なんと云う仕事は、出雲さんの退社を秘かに狙って企まれた仕事で、本気の新しい営業方策なんぞでは端からなかったのでありましょうから、今後の継続も先ずないと云う事であります。
「じゃあ、それまでにちゃんとした送別会を企画しないとね」
「いやあ、一昨日新宿で、皆さんと飲んだあれが送別会と云う事で良いですよ」
 出雲さんは那間裕子女史に向かって掌を横に振って見せるのでありました。
「でもあれは会社としての送別会でも組合としての送別会でもなかったし、あの時唐目君も甲斐さんも出席しなかったから、強いて云えば有志の送別会って感じでしょう」
「それでも俺は充分ですよ」
「いやいや、唐目君と甲斐さんと日比課長も、それに土師尾常務も片久那制作部長も、出来れば社長も含めて、会社全体で送別会をしないと何となくけじめが付かないかな」
 均目さんが那間裕子女史の発案なる、ちゃんとした送別会、の開催提案に賛同の意を表するのでありました。「唐目君もそう思うだろう?」
「俺も一応、ちゃんとした送別会、と云う形で出雲さんを見送りたいかな」
 頑治さんも頷くのでありました。
「土師尾常務と片久那制作部長、それに社長も一緒に、か。・・・」
(続)
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あなたのとりこ 450 [あなたのとりこ 15 創作]

 袁満さんが日比課長は良いとしても、社長や片久那制作部長、それに何より土師尾常務が参加する送別会の企画に対して、少し体を斜にして見せるのでありました。その三者が参加すれば和気藹々の雰囲気が削がれると危惧するのでありましょう。
「何より出雲さんが、社長や片久那制作部長、特に土師尾常務も交えての送別会にはちょっと尻込みすると云うのなら、その辺は考慮するべきだとは思いますが」
 出雲さんが土師尾常務と同道した営業仕事の一件で会社を辞す最終決断をしたと云うのなら、それは当然自分の送別会に土師尾常務が同席するのはまっぴらご免と云った心持ちであろうかと考えて、頑治さんは敢えてそんな事をものしてみるのでありました。
「それもそうかなあ」
 均目さんが頑治さんの発言に理解を示すのでありました。
「確かに出雲君としては、土師尾さんの顔を見ながら楽しいお酒は飲めないわね」
 那間裕子女史も同調するのでありました。
「土師尾常務が参加するなら、何時もそうだけど、宴会自体が嫌に白々した雰囲気になりそうだな。それに土師尾常務本人も自分が元々、辞めさせようと秘かに画策してそれを実行したって云う一種の後ろめたさから、出雲君の送別会には出席し辛いだろうし」
 均目さんも会社全体での送別会、と云う理想をトーンダウンさせるのでありました。
「そんなデリカシーなんか、あの人にあるかしら」
 那間裕子女史はその意見には不同意のようであります。「完全な無関心と冷淡から、誘われても誘われなくても、あの人は送別会には出席しないかも知れないわ」
「そうだな。あの人には部下の気持ちを慮ると云う芸当は、逆立ちしても出来ないか」
 袁満さんが皮肉っぽく云って鼻を鳴らすのでありました。「じゃあ、日比さんだけは誘うとして、社員だけで組合主催と云う事で送別会をやるとするか」
「でも、片久那制作部長は誘えば来るんじゃないですかね」
 均目さんがどう云う思いからか、社員だけでと云う線に少しの異論を差し挟むのでありました。確かに片久那制作部長なら誘えば来そうだと頑治さんも思うのでありました。
「まあ、片久那さんなら参加してくれても構わないかな」
 那間裕子女史も承認の意を表すのでありました。「それなら、社長は?」
「社長も誘えば来るだろう。無邪気に酒に釣られて、と云うところだろうけど。まあそれに結構な狸だから、しれっと出雲君にそれっぽい餞の言葉なんか宣いそうだな」
 均目さんが社長のしれっとしたその顔を想像するような目をするのでありました。
「若し片久那制作部長も社長も来るとなったら、自分だけ無視されたと云うんで、土師尾常務が臍を曲げないかな。勝手に臍を曲げるのは良いけど、必ず俺達に露骨に報復をしようとするところがあるから、その辺が後々実に鬱陶しい気がする」
 袁満さんが顔を顰めるのでありました。
「まあ、出雲さんの送別会の内容はその後の諸般の事情やら推移に鑑みて、組合主催でやるかそれとも全社的にやるか決めるとして、この儘片久那制作部長と土師尾常務が夕方迄社長室から出てこないなら、今日の午後の仕事に何か差し障りがあるかな?」
(続)
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あなたのとりこ 451 [あなたのとりこ 16 創作]

 頑治さんが袁満さんの顰め面を何となく見遣りながら訊くのでありました。
「まあ特にはないけど、何となくこっちも終業時間になっても帰り辛いわよねえ」
 那間裕子女史が、云った後にそうなると決まったように溜息を吐くのでありました。
「その辺は、片久那制作部長はちゃんと判っているんじゃないの」
 均目さんが那間裕子女史の憂い顔に笑いかけるのでありました。「若しそんなような形勢なら、社長室にインターフォンで連絡してみれば良い事だし」
「それはそうだけど、・・・」
 那間裕子女史は一応頷くけれど、憂い顔は未だその儘なのでありました。「でも片久那さんが仕事そっち退けでこんなに長い時間自分のデスクを空けるのは、今迄なかった事だわね。少なくともあたしが会社に入ってからは初めてじゃないかしら」
「何か重大な話しをしているに違いないけど、その重大な話しの見当が付かない」
 那間裕子女史の憂い顔が均目さんに伝染するのでありました。「出雲君の退職金とか、或いは俺達社員に関しての何か重大な話しとかではないんだろうな、屹度。そんな話しなら適当に片付けて、こんなに異常に長い時間、社長と話し合いはしないだろうし」
「そうね、屹度自分に関わる重大な話しだから、日頃のクールさも、社長を手玉に取る事なんか訳がないとか云う嘗め切った余裕もすっかり忘れて、仕事そっち退けで談判しているんでしょうね。でもその談判の中身と云うのは一体何なのかしら」
 那間裕子女史は宙を見上げるのでありました。
「土師尾常務も帰って来ないところを見ると、こっちにも無関係ではないんだろうな」
 袁満さんが云うと那間裕子女史が袁満さんの方に顔を向けるのでありました。
「と云う事は、ひょっとしたらあの二人の待遇を、社長が見直すとか急に云い出したのかも知れないわ。だから二人結託して必死に社長に談判しているんじゃないかしら」
「そんな強気な事を、あの社長があの二人に云えるのかね?」
 均目さんが疑念を差し挟むのでありました。そこに丁度、茶を飲みたくなったためか、甲斐計子女史が均目さんのすぐ横を通り越そうとするのでありました。
「甲斐さん、ちょっと社長室に三人分の茶かコーヒーでも持って行って、中で何の話をしているのかとか三人の様子を探って来てくれないかな」
 袁満さんが甲斐計子女史の背中に云うのでありました。甲斐計子女史は話しには加わらないけど、自席でこちらの喋っている内容は聞いていたでありましょう。
「冗談じゃないわ」
 甲斐計子女史はすぐにふり返って首を横に何度か強く振るのでありました。「そんな厄介な場所に態々行くのは、誰に頼まれてもきっぱりお断りするわよ。何なら袁満君が行って様子を見て来れば良いじゃない。三人分のお茶はあたしが入れてあげるからさ」
 そう返されて、袁満さんもそんな勇気はないと及び腰を見せるのでありました。

 結局五時を過ぎた頃に片久那制作部長と土師尾常務は事務所に帰って来るのでありました。ほぼ一日の仕事時間一杯、二人は社長室に居たと云う計算であります。
(続)
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あなたのとりこ 452 [あなたのとりこ 16 創作]

 片久那制作部長はこれまで見た中で最上級の不機嫌顔をしていて、ぞんざいな手付きで椅子を引き出して、何だか嫌に荒々しい喧嘩腰を見せて椅子を軋ませながらそこに座るのでありました。頑治さんは丁度倉庫に行こうとしていたのでありましたが、片久那制作部長の妙に荒けない様子に何となく憚りを覚えて、こちらはなるべく音を立てないように椅子から立ち上がって、極力静穏且つ丁寧に椅子を机の中に仕舞うのでありました。
「唐目君は倉庫に行くのか?」
 片久那制作部長が不意に頑治さんに声をかけるのでありました。
「ええ。明日池袋の宇留斉製本所に行く用意がありますので」
「それは後にしてくれるか。ちょっと話しがある」
 片久那制作部長の言は懇願の口調と云うよりは命令調でありました。「唐目君だけじゃなくて、那間君も均目君も一緒に聞いてくれ」
 那間裕子女史はその日の夜は確か三鷹のアジア・アフリカ語学院での授業がある筈でありましたが、片久那制作部長の思いがけない厳色に少々まごまごした様子で、断りの言葉を発する機会を逸して椅子に座った儘身を固くするのでありました。均目さんも片久那制作部長の顔付きに染まって、険しい表情で肩と首に力を入れているのでありました。
「今迄社長と色々話したが、この会社を運営するに当たっての当面の方策も将来の方向性も、俺の考えとはまるで交わらないと云う実感を改めて持った」
 片久那制作部長はそこで息継ぎのために言葉を切って、頑治さん、均目さん、それに那間裕子女史の順に、夫々を刺々しい目付きで見据えるのでありました。まあ、この刺々しさはこの三人に向けられたものでは多分ないのでありましょうが、
「これ迄も大分我慢してきたが、・・・」
 片久那制作部長は益々こちらの気分が暗くになりそうなくらいの、慎に陰々滅々、且つささくれ立った物腰で続けるのでありました。「もう社長の考えには俺は付いていけないし、付いて行く気も完全に失せたからから、この辺できっぱりと去る事にした」
「と云う事はつまり、会社を辞める、と云う事ですか?」
 均目さんが忌憚の面持ちで確認するのでありました。
「そうだ」
 片久那制作部長は断固として頷くのでありました。均目さんは反射的に少し甲高い声で唸るのでありました。那間裕子女史も全く意外な片久那制作部長の言に、返す言葉を失くして茫然とした目付きをするのみでありました。勿論頑治さんも驚くのでありましたが、事務所に帰って来た片久那制作部方の顔を見た時に、何となくそう云う事がこれからその口で語られるのではないかと云う予感のようなものは持ったのでありました。
 暫くの間、重苦しい沈黙が制作部スペースの中に泥むのでありました。
「片久那制作部長が辞めたら、今後この制作部はどうなるんですか?」
 那間裕子女史が重苦しさに耐えかねたように言葉を発するのでありました。
「それより何より、この会社自体がどうなるんですか?」
 均目さんが空かさず続けるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 453 [あなたのとりこ 16 創作]

「さあ知らない。それはもう俺には関わりの無い事になる」
 片久那制作部方は不愉快そうに慎につれない事を云うのでありました。
「そんな無責任な」
 那間裕子女史が憤慨したような目で片久那制作部長を睨むのでありました。その視線に臆した訳ではないでありましょうが、片久那制作部長は苦笑うのでありました。
「まあ、常務を中心に纏まって会社を盛り立てていって貰う事になるだろうよ。制作の仕事は既存の地図とか冊子類、それに工作物に関しては修正作業とかはこれ迄遣っていた通りだから問題無いだろう。商品管理や材料管理に関しては唐目君が疎漏なくちゃんと心得ているから、唐目君と密に打ち合わせを取っていれば、材料や商品類の発注とか製本関連の仕事も、つまり営業とのスムーズな連関も、均目君はなんとか熟せる筈だ」
「しかし制作部全般の管理とかなると、ちょっと自信が無いですよ」
 均目さんが眉根を寄せるのでありました。
「それは次第に慣れて貰うしかないし、多少煩わしいけど、そんなにくよくよする程大変な仕事ではないよ。これ迄よりも少し細心さを心掛ければな」
 こう云う辺り、片久那制作部長は均目さんの仕事振りにもっと細心さが欲しいと日頃から思っていると云う事でありますか。「那間君は、仕事は少し遅いけど、様々な修正作業とか編集仕事に関しては、まあまあそつが無いからこれも多分大丈夫だろう。管理の仕事も少しは分担して貰えば均目君も助かるだろう。ただ、懸念と云えば、毎朝のほほんと朝寝なんかしていないで、ちゃんと始業時間迄に会社に出て来るなら、特に問題は無い」
 那間裕子女史に関しては、時間のルーズさを一番苦々しく思っていると云う事でありますか。「唐目君は業務仕事では、各商品在庫と営業の動きとの兼ね合いとか、その辺にもちゃんと目配りも手配も疎漏無く出来るし、制作や編集仕事に関しても、もう充分戦力になる。第一出張営業が無くなったから、様々煩雑だった業務仕事が一つ無くなっている」
 頑治さんは片久那制作部長が云う程、自分が業務仕事に於いても製作仕事に於いても、頼りになる社員であるかどうかはあんまり自信が無いのでありました。依って頑治さんは片久那制作部長の評言に対して、小首を傾げて自信の無さを表明するのでありました。
 とまれ、片久那制作部長としては自分が会社を辞めたとしても、制作部の仕事は然程に混乱はしないし、滞りも起こらないだろうと考えているようであります。まあ勿論、会社に残る均目さんや那間裕子女史、それに頑治さんに対して、そう云わないと責任上、会社を辞め辛くなると云うある種の引け目みたいな気持ちもあるでありましょうし。
「慣れて仕舞えば、この会社の仕事でそんなに難しいものは何も無いよ」
 片久那制作部長はそう云って確信あり気に一つ頷くのでありました。
 しかし均目さんとしては仕事量がまた増えるのと、これ迄より格段に責任が重くなるのが大儀と云ったところでありますか。しかしこれは、取締役になると云う目はないとしても、課長とか部長待遇になってその分の手当がちゃんと付けば、それはそれで納得も出来ようと云うものであります。那間裕子女史の方は三鷹の専門学校通いとか、会社での仕事以外のところで実現したい志望もある事から、色々悩ましいところでありましょうか。
(続)
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あなたのとりこ 454 [あなたのとりこ 16 創作]

 頑治さんとしては片久那制作部長が居なくなった後、会社が上手く回っていくのかどうか大いに気掛かりなのでありました。片久那制作部長と云う存在は、要するに扇の要のようなものでもあり、制作部に限らず、会社が会社として成立しているための結束点とでも云うべきでありましょう。要を失って仕舞うと、扇は扇でなくなるのであります。
 出雲さんが辞職すると云う既定の事実は、片久那制作部長のこの降って湧いたような衝撃的な発表に依って、頑治さんと均目さんと那間裕子女史の頭の中からすっ飛んで仕舞うのでありました。全く予期しなかった新しい展開と云うものであります。

 那間裕子女史が不機嫌そうに片久那制作部長の顔を窺い見るのでありました。
「抑々、何で急に会社を止める気になったのかしら?」
 これは質問と云うよりは、取りように依っては詰問の口調でありましたか。
「急に自棄を起こしたんじゃない。ここにきて竟に我慢の限界を超えたと云う事だ」
 片久那制作部長は不愉快そうに云うのでありました。
「それは社長に対して、と云う事ですか?」
 均目さんが那間裕子女史よりは柔らかな語調で訊くのでありました。
「そうだ。それに土師尾常務にもな」
 これは当然、制作部の空間を越えてマップケース越しに、営業部スペースの土師尾常務の席にも聞こえるような音量でありましたか。しかし何の気遣いも憚りも無く片久那制作部長がそう云い放っていると云うのではないのでありました。この言が発せられる前に、土師尾常務は疾うに家に帰るために事務所を出ていたのでありました。
 社長室から戻って直ぐに甲斐計子女史や袁満さん達に退社を告げる土師尾常務の声と、お疲れ様でした、と夫々バラバラに返す女史や袁満さんや出雲さんの声が制作部スペースにも漏れ聞こえていたのであります。依って気配として土師尾常務の不在は制作部の方にも了解されていた事でありました。尤も、土師尾常務が居ようが居まいが、今の片久那制作部長なら先の言を何憚る事なく発する事を何も躊躇わなかったかも知れませんが。
「一体社長と土師尾常務の何を、これ迄我慢していたって云うのですかねえ?」
 那間裕子女史が多少もじもじしながら質問を重ねるのでありました。
「何もかもだよ」
 片久那制作部長は応えるのも胸糞悪いのか、全く以って鮸膠も無いのでありました。
「そんな風に云われても、あたしには漠然としているだけですけど」
 那間裕子女史は、片久那制作部長の応えるぞんざいな態度に対してもカチンときたようで、当然ながらの不満の意を云い様で表明するのでありました。
「袁満君も出雲君も、それに甲斐君も、ちょっとこっちに来てくれるか」
 片久那制作部長は急に少し大きな声をマップケースの向こう側に送るのでありました。恐らく向う側では制作部のただならぬ様子が伝わっていたであろうから、その推移におどおどしながら聞き耳を立てていたでありましょう。依ってこの三人は片久那制作部長に呼ばれるとすぐに、マップケースのこちら側に顔を見せるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 455 [あなたのとりこ 16 創作]

 三人共に一様に緊張の面持ちをして、マップケースを背にして片久那制作部長の右斜め前に、袁満さんが先頭で、次に甲斐計子女史、出雲さんの順に居並ぶのでありました。
「未だ日比さんが営業回りから帰って来ていないが、ちょっと俺から皆に話しておきたい事があるんだが、先ずは今日の社長室での事だ」
 片久那制作部長は右側の今来た三人と、左側の夫々の席に座って、椅子を回して自分の方に顔を向けている制作部の三人を眺め回すのでありました。別に勿体を付けているのではないのでありましょうが、その目線に場の緊張がいや増すのでありました。
「社長室で一体何の話をしていたんですか?」
 袁満さんが訊くのでありました。
「だから今からそれを話す」
 片久那制作部長は、不必要な質問を差し挟むな、と云う言外の叱責を袁満さんに向けるのでありました。袁満さんはおどおどと額に脂汗を光らせて畏れ入るのでありました。その袁満さんの緊張が伝播したのか、甲斐計子女史も居心地悪そうに身じろぎするのでありました。出雲さんは竦んでのどぼとけを上下させて固唾を飲み込むのでありました。
「土師尾常務が出雲君を社長室に連れて行ったのは、社長へ退職の挨拶をさせるためと云うよりは、社長の前で出雲君に何だかんだと難癖を付けるためだろうと思ったから、そう云う陰湿な真似はさせたくなかったので、俺も後を追った訳だ」
 片久那制作部長はそう云って出雲さんを見るのでありました。「案の定、社長室に行ってみると、社長の机の前に出雲君を立たせて、自分もその横に立って、折角の新規の仕事を任せたと云うのに、何の成果も出せない内に勝手に辞めると云うのは、一体全体どういう了見なんだ、とか何とか詰問と云うか、云い掛かりをつけていたよ。なあ、出雲君」
 片久那制作部長は出雲さんを見つめながら表情だけの笑いを送るのでありました。出雲さんも苦笑って一つ頷いて見せるのでありました。
「土師尾常務は、何でそんな真似を態々辞めていく出雲君にするのでしょうかね?」
 これは均目さんが訊くのでありました。この言葉は先の袁満さんの一言とは違って、片久那制作部長に依って不必要と見做された訳ではない模様で、片久那制作部長は窘めるような視線は特に均目さんに対しては送らないのでありました。
「自分が必要以上に辛く当たって虐めたから、出雲君が辞める事になった訳ではないと云う点を社長に強調するためでもあるし、ひょっとしたら出雲君の辞職を限りなく懲戒扱いみたいにして、退職金を払わないで済ませる魂胆だったかも知れない。それとも例に依って人の弱り目に付け込んで、苦痛を倍加させ弄んでやろうと云う人格のさもしさからかも知れない。何れにしろ邪な目論見から社長室に出雲君を連れて行ったのは間違いない」
 土師尾常務が居ないものだからか、片久那制作部長は今迄用心深く慎んで来た筈の彼の人への人格に対する否定的言辞を意外に平気な顔でものすのでありました。
「つまりそう云う土師尾常務の目論見を阻止するために、片久那制作部長はすぐに後を追って社長室に行ったと云う事ですね?」
 袁満さんがまた邪険にされる事への警戒心から、遠慮がちに云うのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 456 [あなたのとりこ 16 創作]

「出雲君に何か瑕疵があって辞める訳じゃないからな」
「で、片久那制作部長は社長室に入って先ずは、要するに正義感から、出雲君に難癖をつけている土師尾常務に、そう云う陰湿な真似は止めろと云ったんですか?」
 均目さんが、正義感、と云う言葉に多少の揶揄を込めてか込めないでか、何となく言葉の遣り取り中にすんなりと収まりがよろしくないような云い草をするのでありました。
 片久那制作部長はその均目さんの言葉付きに対して、不愉快そうに眉根を寄せるのでありましたが、敢えて無関心を貫いて何も返答しないのでありました。
「片久那制作部長が突然入って来たものだから、驚いた土師尾常務がまごまごして俺を詰るのを中断してくれて、俺としてはすごく助かりましたっスよ。ちょっと肚の中でムカムカしてきていたところだったから、あれ以上土師尾常務の詰りが続いていたら、ひょっとしたら俺は歯向かうような事を竟、口走っていたに違いありませんからね」
 片久那制作部長の代わりと云う訳ではないでありましょうが、出雲さんが代わって均目さんに向かって云うのでありました。確かに出雲さんは普段は温厚そうであんまり人の云う事に拘るところがない風にしているのでありましたが、しかしこう云う人に限って怒りの感情に火が付くと、意外に強面になる事もありそうであります。
「具体的に土師尾常務は何て云ったの?」
 那間裕子女史が出雲さんのその言を受けて、片久那制作部長にではなく出雲さんに目線を向けて言葉を投げるのでありました。
「何とか俺の将来の事を考えて、頭打ちで先の見込みがまるでない出張営業から、新しい将来性の見込める地方の特注営業と云う仕事を任せる事にしたのに、その自分の恩義には一顧もくれずに、面白くないからとか上手くいかないからって早々に逃げ出すのは、人としてどうなのかとか、まあ、如何にも大仰にそんな事をガタガタ云ってきたんスよ」
「よくもまあ恥ずかしくもなく抜け々々と、そんな見え透いたお為ごかしを口に出来るわね。あの人は一体どう云う神経をしているのかしら」
 那間裕子女史は呆れたように云って舌打ちをするのでありました。
「まあ、根っからのインチキ野郎と云うのは疾うに判っていたけど」
 袁満さんも露骨に鼻に皺を寄せて見せるのでありました。
「土師尾常務がそう云う事を云うのは、その後に多分退職金を減額するとか、或いはまるっきり払わないで済まそうと云う魂胆があるんだろうし、屹度社長もグルだろうな」
 均目さんも顔色に怒りと軽蔑の色を添えるのでありました。それからチラと、そうとは知れないように片久那制作部長の方を見遣るのは、あんたもグルじゃないのか、と云う疑いをその視線に込めたのであろうと頑治さんは推察するのでありました。
「出雲君が辞めるとしたら退職金の件は、目論見として土師尾さんと社長は予め共有していたんでしょうね。だから態々出雲君を社長室に連れて行ったのよ」
 こう云いながら那間裕子女史も片久那制作部長を横目に見るのでありました。
「確かにそう云う話しは、前に土師尾常務から聞かされたことがある」
 片久那制作部長が頷くのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 457 [あなたのとりこ 16 創作]

 片久那制作部長がこういう云い方をするのは、その話しは知ってはいたけど、自分は加担する心算は毛頭無かったと云う事を言外に明示していると云う事でありますか。
「これに限らず土師尾常務の遣り口と云うのは、何時も薄汚いよなあ」
 袁満さんが顔を顰めるのでありました。
「均目君が今云ったけど、社長も結託していると云うのはその通りだ」
 片久那制作部長は話しを続けるのでありました。「寧ろ社長の方が一枚上手で、そう云う社長の意を受けて、土師尾常務がその実現にせっせと動いていると云って良いだろう」
「と云う事はつまり、社長が出雲君の退職金を払わないで済むように処置しろと、土師尾常務に命じたと云う事ですか?」
 袁満さんは片久那制作部長を凝視するのでありました。
「はっきり命じたと云うんじゃない。どうせなら払わないで済ませた方が会社としては助かるなあとか、そう云う仄めかしをして、それとなく仕向ける遣り口だな」
「土師尾常務は傀儡として忠実に無邪気に、張り切って実行しようとする訳ですね」
「その類の取るに足らない下らない企てに関しては、不思議な事に土師尾常務と社長の頭の中は、何時も見事にシンクロするからなあ」
 片久那制作部長は憫笑するのでありました。
「息もピッタリ、二人はツーカーの仲、と云う事ですね」
 袁満さんも皮肉を込めた笑いをするのでありました。
「品性下劣な同士はオツムの構造もピッタリ同じなのね。馬鹿じゃないの」
 那間裕子女史も罵倒するのせありました。「まさか片久那さんもグルじゃ?」
「そう云う何の得にもならない策術は、流儀として俺は好まんよ」
 那間裕子女史のどこか揶揄を滲ませた云い草を、片久那制作部長は軽めに一蹴するのでありました。社長と土師尾常務の計略に対して理知と倫理と合理の側にあらんとする自分は、全く以って無関係であると、これを以てはっきり表明した事になりますか。
 まあ確かに、片久那制作部長はなかなか食えない人ではありますが、同等に、かなり気位の高い人でもありますから、誰かに見られて後ろ暗くて見栄のよろしくない企みは忌み嫌って、自ら進んで加担はしないでありましょう。役員の中で一番、社員の信用をかち取っているのは自分だと云う自覚もあるでありましょうし、その評判に対する未練もまあまああるでありましょうし。まあ、事情に依っては違う場合もあるかも知れませんが、

 事務所の扉が開く音がするのでありました。営業回りしていた日比課長が帰社したのであろうと、頑治さんに限らず大方はそう判ったでありましょうか。
 少しして日比課長は制作部スペースの方に来て、マップケース越しに顔を出すのでありました。皆が制作部の方に集まっている気配を感じて覗きに来たのでありましょう。
「ああ、日比さん」
 袁満さんが声をかけるのでありました。それに励まされたように日比課長は出雲さんの横に進んで、制作部スペースに出来ている人の輪の中に加わるのでありました。
(続)
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