SSブログ

あなたのとりこ 432 [あなたのとりこ 15 創作]

「と云う事は、先方もあれこれ気には掛けてくれているって事か」
「そんな感触っス。まあ、片久那制作部長への気遣いもあるでしょうから」
「そっちの方の仕事もうっちゃって会社を辞めるのか、出雲君は?」
 均目さんは出雲さんに対する糾弾としてその話しを収めるのでありました。そう云う風に話しが導かれた事が出雲さんは少々不本意のようでありましたが、それに間違いはないと考えるのか不愉快そうな表情をするものの抗議の言は返さないのでありました。
「それはちょっと酷な云い方じゃないの」
 那間裕子女史が頑治さんに後頭部を見せて、自分を挟んで頑治さんの向う側に座っている均目さんの方に顔を向けるのでありました。
「そっちの仕事は日比さんにでも引き継げばいいんだから、別に無責任に放ったらかしにして辞める、と云うんじゃないんじゃないかなあ」
 袁満さんが出雲さんの代わりに抗弁するのでありました。
「でもその仕事は片久那制作部長が、会社のためと云うよりは出雲君のために、と云う思いで紹介したものに違いないのだから、日比課長や、況や土師尾常務に引き継ぐと云うのは、片久那制作部長の真意からは逸れる事になるんじゃないかなあ」
「要するに、出雲君は片久那制作部長の厚意を足蹴にしている、と云いたいの?」
 那間裕子女史が少し険しい口調で均目さんに訊くのでありました。
「足蹴にしている、と云うのは少し大袈裟で強すぎる云い草だけど、でもまあ、片久那制作部長への申し訳無さは、あっても良いかなと思うんだけどね」
「それは確かに折角助力して貰ったんスから、俺も申し訳無いと思っています」
 出雲さんは悄気て俯くのでありました。
「それならそっちの方面から何か注文が入って、実績を一つ上げて、それ迄待ってからから会社を辞めても良いんじゃないかなあ」
 ここで均目さんの話しは出雲さんの慰留と云う本来方向に収束するのでありました。
「それ迄待っていられないくらい、出雲君はすぐに会社を辞めたいんだと思うよ」
 何も云わない出雲さんの代わりに袁満さんがその心の内を代弁するのでありました。
「そんなに、もう一時でも居たくはない程会社を忌み嫌っているのかな?」
 均目さんは背凭れから身を起こして蹲って、出雲さんの顔をテーブルに置いてあるコーヒーカップの上縁すれすれから覗き込むように、上目遣いに訊ねるのでありました。
「いやまあ、忌み嫌っている訳じゃないんスけど、仕事に意欲的でもないと云うのにダラダラ会社に残っていても、それは給料泥棒と云う事になっちゃいますし」
 これは会社を早々に辞めなければ、土師尾常務から屹度そう云われるに違いないと出雲さんが思い做していると云う事でありましょうが、その実現性は大ではありますか。
「仕事の意欲がすっかりなくなったと云う訳だね?」
 均目さんが確認するように問うのでありました。
 出雲さんは何も云わすにお辞儀するようにゆっくり一つ頷くのでありましたが、それはなかなか決然とした頷き様のように頑治さんには見えるのでありました。
(続)
nice!(11)  コメント(0) 

あなたのとりこ 433 [あなたのとりこ 15 創作]

「要するに土師尾さんの顔を、一刻でも早く見納めたいと云う事でもあるのね?」
 那間裕子女史が確認するのでありました。
「勿論それもあります。でも第一番には、もう本当に、今の会社で働く意欲がすっかり失せたんですよ。会社に未だ残っている皆さんの前でこういう云い方をするのは、ちょっと申し訳無いような感じは何となくするっスけど」
 出雲さんは額がテーブルの上のコーヒーカップに付くくらいの一礼をして見せるのでありましたが、これは心からの恐縮の表明なのでありましょう。
「別にあたし達に対して殊更申し訳無く思う必要は無いけど。・・・」
 那間裕子女史は出雲さんの後頭部に向かって声を掛けるのでありました。恐懼する出雲さんの姿が気の毒に見えてきたようであります。
「折角組合が出来たのに、春闘を終えたところで途中で抜けるのも、何だか裏切りを働いているようで、皆さんに対して済まない気持ちになります」
「まあ、それは仕方が無いけど、でも出雲君は正月の初出社以来色々気苦労があったし、それを親身になって聞いてくれる上司にも仲間にも恵まれなかったし、そういう経緯から相当思いつめたんだろうし、慰留するのは、何だか無理のようね」
 那間裕子女史は理解を示すような事を云いながら、この科白の中の、親身に聞いてくれる上司にも仲間にも、と云う辺りで袁満さんの方に視線を這わすのでありました。
「いや袁満さんにも、それにここには居ないけど日比課長にも、新しい地方特注営業の仕事をするに当たって、何くれとなく心配していただきましたっス」
 那間裕子女史が袁満さんに批判の矛先を向けようとしていると思って、それは不本意のようで出雲さんは袁満さんを庇う心算かそんな事をものすのでありました。
 その辺りで、頑治さんは地下フロアへの階段を下りて来る甲斐計子女史の姿を認めるのでありました。甲斐計子女史は近眼のせいかそれとも歩行に於ける足運びが不器用なためか、俯いて直下の足先に目線を落として、片手で手すりに掴まりながら恐る々々、慎にぎごちなさそうな足取りで階段を下りているのでありました。

 甲斐計子女史は階段を下り切った後立ち止まって辺りをキョロキョロと眺めるのは、頑治さん達の居る席を探しているのでありましょうが、なかなか見付けられないようでありました。頑治さんが座った儘テーブルの脇にやや身を乗り出して手を振ると、それでようやく見つけたようで趨歩しながらこちらの方に遣って来るのでありました。
「新宿なんか滅多に来ないから、駅からこの喫茶店が見つかるかどうか心配だったけど、案外簡単に来れたわ。でも店内か広いから、入ってからまごまごしたわよ」
 甲斐計子女史はそう云いながら、空いていた出雲さんの隣に座るのでありました。それから、すぐに遣って来たウェイトレスにブレンドコーヒーを注文するのでありました。
「まあ兎に角、俺の我儘で皆さんに大変な迷惑をおかけするのが非常に心苦しいです。そこはいくら謝っても謝り足りないと思っているっス」
 出雲さんはやおら立ち上がって、居住まいを正して深くお辞儀するのでありました。
(続)
nice!(12)  コメント(0) 

あなたのとりこ 434 [あなたのとりこ 15 創作]

「そんな事をされると困るわよ。早く座って」
 那間裕子女史が慌てて差し出した両手の、掌を下に向けて上下に何度も動かして出雲さんに着席するように促すのでありました。出雲さんはそれに従って素直に腰を下ろすのでありましたが、座った後でまた恐縮のお辞儀をして見せるのでありました。
 那間裕子女史と均目さんは、当初は出雲さんの退職を何とか思い止まらせようと云う意気込みでこの会合を持ったのでありましょうが、逢った端から出雲さんの決意の固さに気圧されて諦めたと云った風でありましたか。であるのなら自分が、同席せよとたって頼まれて夕美さんと久し振りに一緒に居られる時間を犠牲にして迄この会合に出て来たのは、一体何の意味があったのだろうかと頑治さんは胸中で溜息を吐くのでありました。まあしかし無表情を決め込んでそう云う憤慨は露骨に顔には表さないのでありましたけれど。
「出雲君、矢張り辞めるんだ、会社を」
 甲斐計子女史が顔を近付けて隣に座っている出雲さんに訊ねるのでありました。その事は均目さんか那間裕子女史からの今朝の電話で知らされてはいたのでありましょうが、ここでようやく事の現実味を実感したのでありましょう。
「はい。申し訳ありませんけど」
出雲さんは身を縮めるように一礼しながら詫びるのでありました。
「でもそれは、要するに土師尾さんの思う壺じゃないの?」
 甲斐計子女史は出雲さんの顔を覗き込むのでありました。その覗き込む様が、少し顔を接近させ過ぎてはいないかと、頑治さんは全く余計な事を考えるのでありました。
「まあ、そうかも知れませんが。・・・」
 出雲さんは項垂れるのでありましたが、その時判らないくらい僅かに自分の顔を甲斐計子女史の顔から遠ざけるのでありました。幾ら歳が十以上も離れているとは云え、女性とそのように顔を接近させた状態が、ちょっと照れ臭かったのでありましょう。
「確かに土師尾常務の目論見通りに事が進行するのは、かなり癪だよなあ」
 均目さんが腕組みしながら吐き捨てるのでありました。
「あんな奴にして遣られた感を持って仕舞うのは、腸が煮えくり返るようだ」
 袁満さんも憤怒を表明するのでありました。「何時か屹度、仕返しして遣るから」
「本当に済みません。・・・」
 出雲さんは袁満さんのその様子を見ながら余計に恐懼するのでありました。
「それが判っていても、それでも出雲君は会社を辞める方を選んだと云う事ね。ま、それも判るような気がするけどね」
 甲斐計子女史がここで出雲さんの決意に理解を示すのでありました。これで出雲さんの決意に対してここに集う全員が納得したと云う事になりますか。
「辞表は連休が明けたら早速出す心算なの?」
 那間裕子女史が冷めたコーヒーを一口啜ってから訊くのでありました。
「ええ、その心算でいます」
 出雲さんはここでも未だ申し訳無さそうな口振りなのでありました。
(続)
nice!(12)  コメント(0) 

あなたのとりこ 435 [あなたのとりこ 15 創作]

「出雲君の辞意に対して、皆それを尊重すると云う事で良いのかな」
 均目さんが話しの筋道をやや戻すのでありました。
「辞めるか辞めないかは、あくまでも出雲君の自由意志だもの」
 那間裕子女史がここで原則論をものすのでありましたが、その言葉に、結局ここに集う意味は特に無かったと云う事じゃないかとの、無力感と云うのか徒労感と云うのか、そう云った遣る瀬無さを更に頑治さんは心の底で強めるのでありました。であるのなら、久し振りに実現した夕美さんとの一時を犠牲にした甲斐が無いと云うものであります。ここに集ったのは、出雲さんの辞意を覆させるためではなかったのではありませんか。
 まあ、何れにしてもこう云う話しの結論を見たのなら、この辺で会合を打ち切っても良いでありましょう。そう考えて頑治さんは内心ソワソワし出すのでありました。
「じゃあまあ、出雲君に関する話しはこれで済んだと云う事にして良いのかな」
 袁満さんが皆の顔を見渡すのでありました。
「まあ、仕方無いですかねえ」
 均目さんが何度か曖昧な頷きをするのでありました。
「どうも済みません」
 出雲さんが今日何度目かのお辞儀をするのでありました。
「じゃあこれにて散会としますかね」
 頑治さんが内心のソワソワをそれと判らないように言葉にするのでありました。
「でも折角甲斐さんも来て貰って組合員が全員揃ったんだから、皆で少し早めの夕食と、その後飲み会と云うのはどうかな。組合としての出雲君の送別会兼激励会として」
 均目さんが腕時計を見ながら、語調を先程迄とガラっと変えて朗らかに提案するのでありました。「未だ夕食には時間が早すぎるから、もう少しここで駄弁っているとして」
「ええと、・・・俺はちょっとこの後、野暮用があるんで、これで失礼したいんだけど。だからその食事会と酒宴に出席するのも、申し訳無いけど遠慮させて貰おうかな」
 頑治さんは均目さんの顔を済まなさそうな面持ちで眺めながら、辞退の言を弱々しい声でものすのでありました。これ以上は付き合っていられないと云うものであります。
「何、この後、朝の電話に出た彼女とデートでもあるの?」
 那間裕子女史がからかうような笑みを浮かべるのでありました。
「まあ、そのような、そのようでないような。・・・」
 頑治さんは意味不明な事を云って有耶無耶に応えるのでありました。
「ああ、デートなら引き留められないなあ」
 均目さんが肩を持つような那間裕子女史と同じにからかうような、どちらとも付かない事を云って頑治さんに笑いかけるのでありました。若しからかいの方だとしたらそのからかいに乗って色々云い訳めいた事やら、もっと思わせぶりな事を云って挑発的に対抗するのは得策ではないと判断して、頑治さんは無言で笑うだけにするのでありました。
「時間潰しに俺達はもう少しここで粘って、それから夕食に行く心算でいるけど、若し帰りたいのなら、唐目君はもうこれで帰っても構わないよ」
(続)
nice!(12)  コメント(0) 

あなたのとりこ 436 [あなたのとりこ 15 創作]

 均目さんが頑治さんの付き合いの悪さを当て擦って冷ややかな云い草をするのでありました。何だか頑治さんが自分の都合を何より優先させて、出雲さんの事をちっとも親身に考えていないところを皮肉っぽく責められているような具合であります。
 しかし実際、別に出雲さんの辞意を何が何でも翻させる気も無かったのなら、態々自分を今日ここに誘う必要は無かったのではないかと頑治さんは思うのでありました。頑治さんはもう既に昨日、池袋の喫茶店に出向いて出雲さんの辞意を直接確認したのでありましたし、結局今日も同じ事の繰り返しに過ぎなかったのでありますし。
「じゃあ、お言葉に甘えて俺はこれで帰るよ」
 頑治さんは均目さんに無愛想に云うのでありました。
「あたしも帰ろうかな」
 甲斐計子女史が頑治さんに倣うのでありました。
「甲斐さんはこれから何か用でもあるの?」
 袁満さんが訊くのでありました。
「別に用はないけど、飲み会なら遠慮したいと思って」
「甲斐さんは俺達より遅れて来て、こんな短い時間で帰ったら、何のために態々この新宿迄出て来たのは判らないじゃないの」
 袁満さんが引き留めにかかるのでありました。
「でも飲み会なら、飲めないあたしが参加するのもつまらないし」
「じゃあ、せめて食事の方だけでも一緒にどうかな?」
「そうねえ、・・・」
 甲斐計子女史は少し考える風に小首を傾げるのでありました。「じゃあ、食事だけ付き合おうかな。帰って夕食を拵えるのも面倒臭いし」
「唐目君も食事だけでも付き合わないの?」
 那間裕子女史が頑治さんに向かって聞くのでありました。
「ああ、俺は食事の方も遠慮しますよ」
「何だかさっさと帰りたいみたいね」
 那間裕子女史も頑治さんの付き合いの悪さをやんわり責めるのでありました。
「どうも済みません」
 頑治さんが素直に頭を下げるのはまごまごしていないで、こう云う言葉の遣り取りを早々に切り上げて、夕美さんの処へ早く行きたかったためでありました。
 頑治さんは自分の分のコーヒー代を均目さんに渡して、そそくさと店を出るために一階に向かう階段の方へこの場から歩み去るのでありました。何となくすげない風ではありますが、夕美さんと一緒に過ごす方がこの際優先であります。

 頑治さんは喫茶店を出ると寄席の末廣亭の前に急ぐのでありました。夕美さんとそこで待ち合わせを約していたのでありました。未だ夜席には時間がありましたけれど、予め決めていた夕美さんとの約束時間にはギリギリのところでありました。
(続)
nice!(14)  コメント(0) 

あなたのとりこ 437 [あなたのとりこ 15 創作]

 夕美さんは落語家の名を記した幟のはためく末廣亭の出入口辺りに立って、何をそんなにと云うくらいせっかちに行き交う往来の人通りを眺めるともなく眺めながら、つんと澄ましたような無表情で頑治さんを待っているのでありました。
「随分待たせたかな?」
 目の前に立つ迄頑治さんに気付かなかった夕美さんは、そう声を掛けられて一瞬驚きの表情をするのでありましたが、すぐに頑治さんと認めて相好を崩すのでありました。
「ううん、そうでもないけど」
 夕美さんは首を小さく何度か横に振るのでありました。
「未だ昼席が終わらないか」
 頑治さんは腕時計に目を落とすのでありました。
「そうね。でも入場券は買って置いたわよ、二枚」
 夕美さんは左肩から右腰に袈裟に掛けていた黄色のポシェットから、入場券を二枚取り出して頑治さんの目の前に示すのでありました。
「夜席まで何処かで間を潰すにはちょっと時間が少ないし、かと云って行列も出来ていないここで待っていると云うのも何となく間抜けだしなあ」
 頑治さんは苦った顔をして見せるのでありました。
「そうね、中途半端な待ち時間の長さよね。でもまあ、時節柄寒くも暑くもないし、ここで人通りを眺めながら手持無沙汰に二人で待っているのも悪くないんじゃない」
 夕美さんは頑治さんの手を握るのでありました。手を握られた途端、頑治さんはそれもそうかと心持ちの結び目みたいなものが緩むような気がするのでありました。夕美さんが生来持っているところの大らかさが掌から浸みてきたのでありましょう。
「でものんびり田舎暮らしを始めた夕美には、こんなに気忙しそうに人の行き交う街の光景なんかは、気疲れして仕舞うんじゃないの?」
 頑治さんは冗談七分に訊くのでありました。
「そうでもないわよ。東京を引き払ったのは一月ちょっと前なんだから、未だそれ程田舎者にはなっていないわ。でもまあ、こういう光景が懐かしいような気分に今なっていると云う事は、つまりもう充分田舎者になったと云う事かしらね」
「俺なんか東京に住んでいても、向こうから出て来て以来、ずっと田舎者でい続けているような気がする。こういう人混みは何年見ていようと未だ何となく苦手かなあ」
「田舎者云々より、その人の持っている気質に依るって事でしょう」
「俺は人間観察はどちらかと云うと好きな方だけど、こういう処に立っているとそれは矢張り疲れるかな。観察するにしてもやけにせわしないからね」
「じゃあ喫茶店にでも入って時間を潰す?」
 夕美さんは、要するに頑治さんがここで立って待っているのが苦痛であると訴えているのだろうと思ったようでありました。「もうチケットは買ってあるから、少しくらい開演時間に遅れても大丈夫だし、多分そんなに混まないような気もするから」
「それも何となく無駄なような気がするなあ」
(続)
nice!(8)  コメント(0) 

あなたのとりこ 438 [あなたのとりこ 15 創作]

 と云う訳で結局二人は喫茶店に行く事もせず、末廣亭の前で何となく夜席の開演時間を待っているのでありました。一人ぽつねんと待っているのではなく二人で何やら四方山話ししながら寄り添って待っているのは、頑治さんも夕美さんもそんなに苦痛ではないのでありました。気候も寒くも暑くもないのでありましたし。
 ただ全くの計算違いであったのは、恐らく都営地下鉄の新宿三丁目駅に向かうのであろう先程別れた甲斐計子女史と出くわした事でありました。もうとっくに新宿を立ち去ったものと思っていたのでありましたが、どこかで寄り道をしていたようで、どうしたものか末廣亭の前を今時分に通るとは頑治さんは思いもしなかった事でありました。
 甲斐計子女史も頑治さんに気付いたようで、頑治さんの方に笑みかけようとするのでありましたが、傍に恐らく頑治さんの連れであろう見知らぬ女性が居る事に気付いて、笑みを作り始めた頬の表情筋の動きをやおら止めて、訝しそうな表情を送って寄越すのでありました。女史は色々慮ってか声を掛ける事も憚って頑治さんを無視するような態で前を通り過ぎるのでありました。頑治さんとしては別に声を掛けてくれても良かったのでありましたけれど、しかし頑治さんの方もどういう按配か声を掛けそびれるのでありました。
 頑治さんがあの喫茶店を出た後、食事も飲み会も断ってそそくさと皆と別行動に走ったのは、その後見知らぬ女の人と待ち合わせするためだと、連休明けに屹度甲斐計子女史の口から他の社員に告げられるのでありましょう。別に殊更隠し立てする心算は無いのだけれど、かと云って訊かれもしないのに態々こちらから進んで云う気も無い頑治さんの気分としては、会社の皆に夕美さんの存在を知られるのは何となく大儀でありました。
 均目さんと那間裕子女史は頑治さんに特定の彼女が居ると云うのはほんのりと判られているようでありましたが、社員の殆どがそれを認知すると云うのは実に億劫な事態でありますか。特に日比課長辺りに知られると、下卑た憶測等を露骨にされそうで何となく嫌な気がするのであります。しかしながらまあ、実は頑治さんがそうやって危惧する程に会社の皆は興味を示さないのかも知れません。であれば、まあ、幸いであります。
「何、どうしたの?」
 頑治さんが急に黙り込んで何やら考える風の表情をしているのを訝って、夕美さんが覗き込むように下から顔を近付けてくるのでありました。
「ああいや、別に何でもないよ」
「何か急に考え事?」
「そんな訳でもないけど、何となくぼんやりして仕舞ったんだよ」
「ふうん、ぼんやり、ねえ」
 夕美さんは頑治さんの返答に満足していないようでありました。
「そろそろ昼席が終わって人が出てくる頃かな」
 頑治さんは先ず下を向いて自分の腕時計を見て、その後に後ろを振り返って末廣亭の出入り口の方に視線を投げるのでありました。未だそこには昼席を観終えて外に出てこようとする人々のさざめく気配は全く無いのでありました。しかしだからと云ってこれから喫茶店に行って時間を潰す程の余裕は既になさそうでありましたけれど。
(続)
nice!(12)  コメント(0) 

あなたのとりこ 439 [あなたのとりこ 15 創作]

「そうね、ぼちぼち昼席と夜席の入れ替え時間になるわよね」
 夕美さんも自分の腕時計に目を落とすのでありました。
 所在なく夕美さんと二人で寄り添って末廣亭の前で入場時間を待っているのも、それ程つまらない時間でもないと思っていたのでありましたが、どうしたものか甲斐計子女史の姿を見付けて目が合ってから、頑治さんはこうして往来で夕美さんと二人で無防備に身を曝しているのがちょっと苦痛になるのでありました。それは甲斐計子女史に見つかったのだから、食事とその後の出雲さんの送別会がてらの飲み会をやらかそうと云う他の会社の連中にも、ひょっとしたらここで出くわすかも知れないからでありました。まあ可能性は低いのでありましょうけれど、しかし絶対無い事とは云い切れないでありましょうか。
 だからと云っておどおどする必要は無いとは思うのであります。見つかったとしても、大いに照れて見せればそれで済む話しであります。しかし要は、折角の夕美さんとの二人だけの時間に、他の会社の連中に無遠慮に割り込まれるような気がする訳であります。
 頑治さんとしては、この連休では夕美さんとの逢瀬をじっくり堪能すると云う訳にはなかなかいかなかったような気がしていて、夕美さんに対しては実に以って相済まない気がしているし、自分としても折角の夕美さんとの久々の逢瀬を台無しにしているようで実に以って歯痒いのでありました。別に会社の連中に無根拠に悪態をつく意は無いけれど、しかし心の底で沸々と泡を立てる無念さをどうしてくれようと云う憤慨は、一方に濃厚にあるのであります。まあ、何の正統性も無い憤怒であるのは判っていながら。・・・
 とか何とか頑治さんが考えている内に、末廣亭の出入り口に人々のさざめく気配が起こるのでありました。ようやく昼席が跳ねたのでありましょう。会社の他の連中に見つかる事もなくどうやら中に入る事が出来そうであります。しかしまあ、だからと云って別にホッと安堵の溜息を吐く程の事でも実際は無いのではありましたけれど。

    もっと激震が

 ゴールデンウィークを地方で過ごして帰郷した旅行客が東京駅の構内に溢れているのでありました。到着した上りの新幹線の出入口からは多くの旅客が吐き出されるけれど、逆に地方へ向かう下りの新幹線のホームには然程の混雑は見られないのでありました。とは云ってもまあ、普段よりは混雑はしていましたけれど。
「何だかちっとも落ち着かないゴールデンウィークだったなあ」
 頑治さんが列車の到着を待つ列に並ぶ夕美さんの横で云うのでありました。
「まあ確かに慌ただしい感じだったし、ゆっくり頑ちゃんとの時間を過ごせたと云う風でもなかったけど、でも頑ちゃんの変わらない様子を見られただけでも良かったわ」
「当初は夕美と一緒に色んな事をやろうと考えていたんだけど、変な用事が色々入って残念ながら何だか消化不良と云った心持ちだな。夕美に済まない気持ちもあるし」
「仕方が無いわよ。別に済まないとか思う事ないわ」
 夕美さんは顔を横に何度か振って見せるのでありました。
(続)
nice!(13)  コメント(0) 

あなたのとりこ 440 [あなたのとりこ 15 創作]

「そう云ってくれると少し気が楽になる」
「今度会えるのは何時になるかな」
「そうね、夏休みと云う事になるけど、頑ちゃんは夏休みはどうなるの?」
「会社で一斉に休むと云う感じじゃなくて、七月か八月の適当なところで仕事との兼ね合いで夫々取ることになる、と云う風に聞いているよ」
「日取りなんかは未だはっきりしないわよね?」
「まあ早い目に申し出ておけば社内で色々都合が付けられると思うけど」
 倉庫の仕事や定期不定期を含めて配達や梱包配送なんかは、出雲さんが居なくなるので、業務を代行して貰えるのは袁満さんか手の空いた時の日比さん辺りでありましょうか。編集の方に関しては均目さんと那間裕子女史、それに片久那制作部長も含めて四人で日取りを擦り合わせして交代で休む事になるでありましょうか。
「期間はどのくらい取れるの?」
「何でも夏休み自体は三日間なんだけど、今迄の慣習だとその後二日間有給休暇を取って、前後の土日で最長九日間取れるらしいよ」
「丸々一週間と土日の組み合わせね。意外にのんびり夏休みが取れるのね」
「原則はそうだと聞いているけど、でも今年は辞める人が居たり各自の仕事内容が変更になったりで、従来通り呑気に九日間の夏休みが取れるかどうかは判らないかな」
「これは一応あたしの腹案なんだけどさ」
 夕美さんはそう云って自分の鼻を人差し指で差して見せるのでありました。「頑ちゃんが七月の最終週に取って田舎に帰って来て、あたしが八月の第一週目に取って一緒に東京に出て来れば、二週間続けて二人で一緒に居られる事になるわ」
「ああ成程。夕美も丸々一週間夏休みが取れる訳だな」
「七月八月九月のどこかで、あたしも多分頑ちゃんと同じ要領で休めるわ」
「でも博物館は、夏だからと云って特別の休館日はないだろう? 寧ろ小中学校とか高校生の夏休み期間は何時もより忙しくなるんじゃないの?」
「それはそうだけど、学芸員は結構纏まった夏休みが取れるらしいの」
「ふうん、そうなんだ」
 頑治さんはここで莞爾として顎を撫でるのでありました。「二週間夕美と一緒に夏休みを過ごせると云うのは、これは実に魅力的だなあ」
「そうでしょう」
 夕美さんは嬉しそうに笑うのでありました。「
「でも果たしてそう云う時期に上手く休みが取れるかなあ」
 頑治さんは顎を撫でる手の動きを止めるのでありました。
「七月の最終週と八月の第一週にならないとしても、何とか二週間二人一緒に過ごせるように都合すれば良いじゃない」
「それはそうだな。未だ時間があるから、何とかそう云う方向でお互い夏休みが取れるように努力しよう。それが叶うなら今からワクワクと云うところだな」
(続)
nice!(12)  コメント(0) 

あなたのとりこ 441 [あなたのとりこ 15 創作]

「未だ夏休み迄は時間があるから、色々じっくりお互いに摺り合わせして、何とか目論見通り二週間一緒に夏を過ごしましょうよ」
 夕美さんはそう云いながら頑治さんの手を握るのでありました。頑治さんとしてもこの先の夕美さんとの逢瀬の算段が付いたような気になって嬉しくなるのでありました。
 列車が入線するぞと云うアナウンスが頭上に響くのでありました。夕美さんと頑治さんは下に置いていた夕美さんの旅行カバン二つを夫々取るのでありました。愈々これでゴールデンウィークの夕美さんとの逢瀬は終わるのであります。
 夕美さんの頑治さんと繋いでいる手に力が籠るのでありました。頑治さんもそれに応えて強く握り返すのでありました。上手くゆけばまた三か月もしない内に逢えるのではありますが、頑治さんとしては矢張り夕美さんとの別れが寂しいのでありました。夕美さんも名残り惜しそうに頑治さんの顔を見上げているのでありました。

 出雲さんは出社してすぐに土師尾常務の机の傍らに赴いて退職願いを机の上に置くのでありました。頑治さんはその少し前に土師尾常務の机上の伝票入れから、その日の発送指示書を取ってその場で暫し眺めていたのでありましたが、出雲さんが傍に遣って来たのでそれと察して立っている位置を出雲さんに譲ったのでありました。
 土師尾常務は机上に置かれた退職願いと万年筆で表書きしてある封筒に暫しの間目を落としてから、ゆっくりと無表情に出雲さんを見上げるのでありました。
「どう云う事かな?」
 どう云う事も何も、出雲さんの手で退職願いが机上に置かれたのでありますから、事態としては慎に明快な筈で、頑治さんにはこの土師尾常務の問いは如何にも間抜けに聞こえるのでありました。事態が把握出来ないくらい土師尾常務が取り乱したと云う訳ではないでありましょう。まあ要するに、この人なりに勿体を付けているのかも知れません。
「会社を辞めたいと思います」
 出雲さんは生真面目な表情でそう云って一礼するのでありました。
「もう少し詳しく話を聞こうか」
 土師尾常務は立ち上がってから事務所の出入り口の方に向かって顎をしゃくって見せるのでありました。ここではなく外で話そうと云う事でありますか。まあ恐らく、社長室に出雲さんを連れて行こうと云う心算なのでありましょう。
 会社の実務は一応体裁の上だけでも土師尾常務が司っているのでありますから、殊更大袈裟に社長同席の上で一緒に出雲さんの辞めたいと云う気持ちを聞き質す必要は無いと云うものであります。社長へは事後報告で済む話しでありましょう。
 それを敢えて社長同席で話しを聞こうとするのは、これは会社を辞めていく出雲さんに一種のプレッシャーを感じさせようと云う魂胆で、出雲さんの気持ちを弄んで面白がってやろうと云う悪心からでありますか。人が窮地に、或いは緊張状態にあると見たらそれに対して嬲って喜ぼうとするのはこの人の得意芸の一つであります。出雲さんも社長室に連れていかれるとすぐに踏んで、少しの狼狽を見せるのでありました。
(続)
nice!(12)  コメント(0) 

あなたのとりこ 442 [あなたのとりこ 15 創作]

 頑治さんは出雲さんと土師尾常務を見送った後、倉庫に下りる前に編集部の方にある自分のデスクに発送指示書を持って一端行くのでありました。
「出雲君が会社を辞めるのか?」
 片久那制作部長が、自分のデスクに発送指示書を置いて座ろうとする頑治さんに訊くのでありました。と云う事は、出社して早々と云う事もあって、均目さんから出雲さんが会社を辞める決断を下したと云う件を未だ聞いてはいないのでありましょう。因みに那間裕子女史は例に依って多分朝寝坊で、未だその顔はこの場にはないのでありました。
「今、退職願いを出したようです。それで少しその件について話そうと云う事になって、土師尾常務と二人連れ立って外に出て行ったのです。行先は告げられていませんが、多分出雲さんは社長室に連れて行かれんじゃないですかね」
 頑治さんの説明を聞いて片久那制作部長は、ふうん、と云うように少し下唇を突きだして微かに頭を上下させて見せるのでありました。出雲さんに紹介した、自分の大学時代の友人で、静岡で広告代理店をやっていると云う人と出雲さんとの仕事の推移がどのようになっているのか、出雲さんの突然の仕事中段で、紹介した自分の顔が或いは潰されるような事がないのかどうか、その辺が気掛かりなのでもありましょう。
「出雲君が今朝辞表を出す事を、唐目君はもう知っていたのか?」
 片久那制作部長に聴かれて頑治さんは顔を向けるのでありました。
「知っていました。連休中に直接池袋で逢ってその件を聞きましたから」
「均目君も知っていたのか?」
 片久那制作部長は、今度は均目さんの方に目線を向けるのでありました。
「ええ。俺も別の日に逢いましたから」
「組合員は全員既知っていたんだな?」
「そうですね。先ず袁満さんと唐目君が聞いて、次の日に他の組合員も新宿に全員集合して、そこで出雲君から辞表を出すまでの経緯も含めてあれこれ直接聞きました」
 均目さんが連休中の出来事を説明するのでありました。
「ああそうか」
 片久那制作部長は頷くのでありました。それから少し考える風の面持ちをしていて、何やらやれやれと云った感じで億劫そうに立ち上がるのでありました。頑治さんも均目さんも片久那制作部長のそう云う動作を黙って見ているのでありました。
「ちょっと社長室に行ってくる」
 片久那制作部長は自席を離れようとするのでありました。
「社長室に行ったようだと云うのはあくまで自分の推察で、ひょっとしたらそうじゃなくて近くの喫茶店か何処かに行ったのかも知れませんよ」
 頑治さんが云い添えるのでありました。しかし片久那制作部長も出雲さんを伴った土師尾常務の行き先は社長室に違いないであろうと踏んでいるようでありました。
 片久那制作部長の姿がマップケースの向こうに消えると、頑治さんと均目さんは目を見交わして、互いに何となく困惑の表情を浮かべて見せるのでありました。
(続)
nice!(13)  コメント(0) 

あなたのとりこ 443 [あなたのとりこ 15 創作]

 片久那制作部長が事務所を出て、ドアが完全に閉まる音を聞いてから均目さんが頑治さんの方に顔を向けて話し掛けるのでありました。
「社長室の中で土師尾常務と、それに社長と片久那制作部長も含めて、三人で出雲君を取り囲んで一体何を話し合うんだろうな?」
「三人で出雲さんを取り囲んで、と云うのは、場の雰囲気を表現する言葉としてちょっと違うかも知れない。後から加わる片久那制作部長の立ち位置が、土師尾常務や社長と同じ側にあるのか、それとも出雲さんの側にあるのかちょっと判断出来ないからなあ」
「しかし出雲君を引き留めに掛かるとは思われないだろう。元々出雲君を辞めさせる魂胆が土師尾常務にあって、それに積極的に賛成している訳じゃないけど、かと云って反対もしていないと云うのが、片久那制作部長のスタンスと云う事じゃなかったっけ?」
「まあ腹積りとしてはそんな辺りだとしても、それなら出雲さんの件は営業の責任者たる土師尾常務に総て一任で良い訳で、土壇場の今に及んで、態々その重苦しいげんなりするような現場に、自ら乗り込む必要なんかないだろう」
「それはそうだな。そこに態々行く片久那制作部長の目論見は何だろうな」
 均目さんは考える風に腕組みして小首を傾げるのでありました。
 袁満さんと日比課長がマップケースのこちら側に遣って来るのでありました。
「この期に及んで土師尾常務と片久那制作部長、それに社長の三人は出雲君と社長室で今更何を話し合う必要があるんだろう?」
 袁満さんも出雲さんは社長室に連れて行かれたと踏んでいるようでありました。
「まあ、会社を辞める理由とか経緯を少し詳しく訊いているんでしょうけどね」
 均目さんは土師尾常務と片久那制作部長、それに社長が一緒くたになって出雲さんの話しを聞いているような袁満さんの想像図に、片久那制作部長は立ち位置が二人とは少し違うんじゃないかと云う、今の今頑治さんと話していたところをまわりくどくて面倒臭いからかスッポリ端折って特に想像図中に再設定しようとしないのでありました。
「ところで日比課長は、出雲さんが辞めると云うのを既に知っていたんですよね?」
 均目さんが日比課長を座った儘見上げながら訊くのでありました。
「うん。電話を貰っていたから」
「別に引き留めはしなかったんですか?」
 均目さんは別に詰る心算は更々ないと云う気を遣った語調で訊くのでありました。
「まあ、このところずっと元気が無かったから、ひょっとしたら会社を辞める心算なのかなとは、ちょっと思っていたよ。それも無理も無いかとも考えていたし、敢えて引き留めるのも、別の意味で出雲君が可哀想かなとか云う気持ちもあったし」
「いざとなったら、日比さんは薄情だからねえ」
 袁満さんがぼやき口調で云うのでありました。
「別に薄情とかじゃなくて、この儘土師尾常務に露骨に意地悪をされながら、ネコに追い詰められた鼠みたいに居竦んでいるよりは、将来を考えると今の内に別天地を求めた方が幸せかも知れないと思うからだよ。出雲君は未だ若いから幾らでも潰しが利くし」
(続)
nice!(11)  コメント(0) 

あなたのとりこ 444 [あなたのとりこ 15 創作]

 この日比課長の話しの中の、ネコに追い詰められた鼠、と云う件で頑治さんは全く無関係な事ではありましたが、自分のアパートの部屋に夕美さんが置いて行ったネコのぬいぐるみを頭の中に思い浮かべるのでありました。夕美さんの命令に依りあのネコのぬいぐるみは頑治さんの監視役として部屋に残されたのでありますから、まあ、追い詰められてこそいないけれど、頑治さんはさしずめ鼠の役回りと云う事になりますか。

 そこに那間裕子女史がようやく出社して来るのでありました。那間裕子女史は全くあっけらかん、という風でなないけれど、妙にいじけたり不貞腐れたりとかするところもなく、云ってみれば遅刻の熟達者のような、陰湿にはならない、或る意味で堂々たる忌憚としおらしさとを体現しながら編集部スペースに入って来るのでありました。
「あら、片久那さんは今日はお休み?」
 片久那制作部長の机から遅刻した自分に向けられる毎度の険しい無言の視線がその日射して来ないのを訝って、那間裕子女史は頑治さんの顔を見ながら訊くのでありました。
「出雲さんがさっき退職願いを提出したので、その件で詳しく話しを聞くために出雲さんと土師尾常務と一緒に社長室に行っていますよ」
「ああそうか。出雲君はちゃんと退職願いを出したのね」
「新宿で逢って話した時にそう云っていたでしょう」
 袁満さんが那間裕子女史の、ちゃんと、と云う言葉にちょっと引っ掛かって、女史を不審そうな横目で見遣りながら云うのでありました。
「それは確かにそうだったけど、でもひょっとしたら今日になって急に、考え直す場合もあるかなって思っていたからさあ」
「あの新宿の喫茶店で、皆の慰留にもめげずにあんだけ確然とした決意を表明したんだから、今朝になって突然、止めた、なんていう筈がないでしょう」
 袁満さんは那間裕子女史の言に、出雲さんへの見縊りをふと感じたためか、険を宿した目で女史を睨みながら少し不機嫌に云うのでありました。
「でも態々社長室で三人雁首を揃えて何を訊こうと云うのかしら?」
 那間裕子女史は袁満さんの不機嫌に頓着することなく小首を傾げるのでありました。
「訊く事なんか何もないよ。事を必要以上に大袈裟に持って行って、出雲君をビビらせて負担に思わせてやろうと云う、土師尾常務の何時もの、チャンスと見たら人をいたぶって喜ぼうと云う悪趣味からだろう。あの人のやる事は何時もそんな程度だから」
 均目さんが皮肉な笑いを口の端に浮かべるのでありました。
「仕事にしても、土師尾常務が出雲君から引き継ぐ程のものはないしなあ」
 日比課長が無意識にではありましょうが薄笑いを湛えた顔でそう云うと、袁満さんは那間裕子女史の時と同じに険しい目をそちらに向けるのでありました。
「どうせ今まで、出雲君は大した仕事はしていないと云う意味かな?」
「いやそんな事を云っている訳じゃないけど、・・・」
 日比課長はまごまごするのでありました。「何だか妙に突っかってくるなあ」
(続)
nice!(13)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。