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あなたのとりこ 336 [あなたのとりこ 12 創作]

 他の組合員にしても片久那制作部長にこう宣されると、夫々弱味の一つや二つは感じ持っていたものだから、たじろいで視線を外す他ないようであいました。
「ちょっと那間君」
 今迄すっかり出番の無かった土師尾営業部長が徐に口を開くのでありました。「前から感じていたけど、自分の上司に向かって、さん付けで呼ばわるのは不謹慎じゃないか」
 ここで嘴を差し挟んでくるこの人の了見なんと云うものは、今次の役員人事に於いては自分ももう一人の当事者であると云うのに、皆の質問やら視線やらが片久那制作部長だけに向いていて、こちらには全く及んで来ないのを甚く心外に思ったと云うところでありましょうか。本題から脇に逸れた遊閑地の辺りで自己主張を展開しようとするのはこの人の得意芸で、あんまり尊崇を得られないところのなまくら然とした常套手段でありました。こうして何時も鬱陶しがられていると云うのにちっとも懲りないようであります。
「ああそうですか、済みませんねえ」
 那間裕子女史はぞんざいな云い草で往なそうとするのでありました。
「他の人はちゃんと、片久那制作部長、と云う風に上司に対する礼儀を弁えた云い方をするのに、那間君だけはそう云う呼び方をしないのは、何か理由でもあるのか?」
「名前の後に役職名を付けるのが、上司への礼儀を弁えた呼び方になるのかしら?」
「そう云う事になるんじゃないのかな、普通は」
 改まって目を見据えられてそう訊かれるとはっきり自信がない、と云った面持ちで土師尾営業部長は眼鏡の奥の黒目を揺動させるのでありました。
「それは特に世間一般に広く認知された決まり事、とか云うのでもないし、当然我が社にそうしろと云う規定も無いし、役職名を付けない呼び方が失礼と思うのは、全くの土師尾さんの個人的感覚と云う事でしかないでしょう。第一その呼び方をあたしはこれ迄片久那さんに注意された事はないし、無礼に呼んでやろうと云う気持ちも元々ないし」
「別に呼び捨てしているわけじゃないんだから、無礼とは云えないよなあ」
 袁満さんが独り言の体裁で、那間裕子女史への援護の言葉をものすのでありました。
「そんな事じゃなくて、心掛けを問題にしているんじゃないか」
 土師尾営業部長は声を荒げるのでありました。女性に対して縷々小言を云うのは何となく荷が重かったようで、ここで好都合にも野郎がしゃしゃり出て来たものだから、土師尾営業部長は早速そちらに居丈高な視線を投げつけるのでありました。
「役職名で呼ぶ方が、心掛けが良いと云う風にも云えないでしょう。役職名より、ちゃんと名前を呼ぶ方が真心が籠っている、と云う解釈もあるでしょうから」
 何時もなら土師尾営業部長との口論を面倒臭がって逆らわない流儀の袁満さんが、どう云う心算からか珍しくここは引き下がらないのでありました。
「片久那制作部長もそんな那間君の態度を、内心非常に不快に思っているだろうし」
「別に不快になんか思っていないよ」
 ここで片久那制作部長自身が土師尾営業部長の言を、まるで机の上の消しゴムの滓を吹いて落すように、全くの無表情で鮸膠も無く退けるのでありました。
(続)
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