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あなたのとりこ 328 [あなたのとりこ 11 創作]

 出雲さんは自席から動かずにこちらに視線を投げているのでありました。何となく出遅れたようでありますし、自分迄もが事態の深刻さを内心面白がりながら、甲斐計子女史を取り囲んで必要以上に騒ぐのはどう云うものかと尻込みしたのでもありましょう。
「さっき云った事をもう少し正確に云ってくれるか」
 片久那制作部長は立った儘で甲斐計子女史を見下ろして、なるべく穏やかな口調で女史を徒に威迫しないように、しかしながら厳とした物腰で云うのでありました。厳とした云い草は勿論、甲斐計子女史ではなく社長に向けている事を滲ませながら、であります。
「あたしがやっている仕事に、この四月分から適用する事になったお給料は見合わないと云うのよ、あの社長は。でも組合員には約束だから払わなければならないけど、組合に入っていないあたしは、その適用外で構わないと云うの。だからあたしは賃上げは無しで、今貰っているお給料の儘で我慢しろって。それが嫌なら会社を辞めろってさ」
 甲斐計子女史は激した気持ちを何とか抑えてここ迄云うと、後は声を詰まらせて、悔しさに堪え切れなくなったようにハンカチで目頭を押さえるのでありました。
「ひでえな、それは」
 袁満さんが唇の端からそう漏らすのでありました。
「俺もこの後呼び出されて、同じ事を云われるのかな」
 日比課長が心配そうに片久那制作部長を見るのでありました。片久那制作部長はそんな日比課長に視線を向ける事無く唇を引き結んだ儘、迫力満点に目元を怒らせて事務所から急ぎ足に出て行くのでありました。社長室に談判に向かったのは明白であります。
「袁満さんも一緒に行った方がいいんじゃないですか?」
 均目さんが茫然として動かない袁満さんを促すのでありました。
「そうね。社長のルール違反の目論見は組合としても看過出来ないわね」
 那間裕子女史も均目さんに同調するのでありました。
「それはそうだけど、・・・」
 袁満さんが躊躇いを見せるのでありました。
「ほら、袁満君、あたしも一緒に行くから」
 気後れて袁満さんが動きを失くしているのに焦れて、那間裕子女史が袁満さんの腕を取って決然たる行動を促すのでありました。「全従業員の待遇に関して、組合が一元的に会社と交渉すると云う事は向こうも認めたんだから、組合も今すぐ社長室に行くべきよ」
「でも確かに甲斐さんは組合員じゃないし」
 袁満さんはなかなか決然たる意気込みを見せないのでありました。
「全従業員、というのは、組合員と非組合員に限らず、と云う事よ」
 那間裕子女史は焦れったそうに続けるのでありました。
「ああ、確かにそれはそうだよな。じゃあ、判りましたよ」
 袁満さんがやっと頷くのを見て、那間裕子女史はその腕を取って先導するようにそそくさと事務所を出るのでありました。余計事ながら、袁満さんの日頃の弱気と那間裕子女史の強気が見事に対照された一場面だなと頑治さんは秘かに思うのでありました。
(続)
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