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あなたのとりこ 307 [あなたのとりこ 11 創作]

「ベアの部分はもう動かせないのですか?」
 袁満さんが意を励まして少し粘るのでありました。
「週に三十分時間短縮した分、時給は上がる計算になる」
「何だか申し訳のような、当て擦りのような回答ですね」
「申し訳でも当て擦りでもない。ギリギリの線だ」
「一時金にしても二十割と云うところは動かないのですね」
「繰り返すがギリギリの線だ。つまらない駆け引きをしようと云う気は無い。大体ウチの一時金の算定に、今迄は一律金と云う考えは無かったが、歳の若い者、基準内の低い層を手厚くすると云うそちらの発想だろうから、それにはちゃんと則っている心算だ」
 この片久那制作部長の、つまらない駆け引きをしようと云う気は無い、と云う言葉の前には、社長や土師尾営業部長のように、と云う言葉が屹度省略されているのでありましょう。勿論社長も土師尾営業部長もそれにはとんと気付かない様子で、片久那制作部長と同じような深刻顔を必死に装っているのみでありましたが。
 それに矢張りこの二次回答には、片久那制作部長の社員への当て擦りが濃厚に込められているように頑治さんには思われるのでありました。春闘要求の回答として最低限の誠意は見せるけれど、しかしそれ以上の誠意は示す心算なんか毛頭無いと云うそれとない態度も然り、それにこの自分に誠意を要求する社員達の方に、それなら今迄、自分の仕事に全力で誠実に対してきたのかと云う逆質問が物腰の裏に用意されているような気配も然りであります。それ故の片久那制作部長の無愛想であり、語調の冷ややかさであり、どこかしら取り付く島も無いようなつれなさであり、不愉快そうな佇まいなのでありましょう。
 そんな片久那制作部長の気分も、頑治さんは判るような気がするのでありました。ただ春闘の団体交渉の席でそれを持ち出して話しを態々無責任に紛糾させるような、まあ、土師尾営業部長的な愚行を犯さないクールさと云うのか抑制力と云うのか、それにしたたかさと周到さなんかを片久那制作部長は持ち合わせていると云う事でありますか。
 一次回答の時と同じに、組合員はまた一旦席を外して別室での内部協議に入るのでありました。組合員は三階の事務所を出て一階の倉庫に向かうのでありましたが、夫々の胸中に一次回答の時のような感奮は無いのでありました。一次回答ではある種の勝利感があったから、倉庫に向かう足取りも大いに弾んだ調子があったのでありましたけれど、二次回答は思っていた程の強い手応えが無くて肩透かしされた感じでありますか。
「どうする、これで妥結する?」
 倉庫の作業台代わりの机を囲んだ一同を袁満さんがグルリと見回しながら、あんまり弾まない声で訊くのでありました。
「なんかちょっとがっかりだわね」
 那間裕子女史が気落ちした素振りで云うのでありました。
「これ以上粘っても、もう上乗せは期待出来ないかな」
 均目さんも項垂れるのでありました。「この二次回答をどう思います?」
 均目さんは目を上げて横瀬氏に問うのでありました。
(続)
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