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あなたのとりこ 293 [あなたのとりこ 10 創作]

「まあ、初めて逢った時の印象だけど」
「でも、そういう経営者は往々にして、とんでもない仕打ちに出てくるかも知れない」
 派江貫氏が少し深刻な表情をして見せるのでありました。
「とんでもない仕打ちをするには、あの社長は好い格好したがり屋過ぎないかな」
 これは来見尾氏の見解でありました。
「でも実のところ社長はこの際どうでも良くて、問題は片久那さんがこういう事態を、どんな風に思うかって云う点に掛かっているんじゃないかしら」
 那間裕子女史がそう云うと、その言葉に誘われて皆は頭の中から社長を追っ払って、片久那制作部長の顔を思い浮かべるような表情をするのでありました。
「社長よりももう一人の部長よりも、会社の実情や社員の気分をしっかり判っている実質的なボスは、その片久那部長だと云う事だったけど、団交の席では陰気そうに黙りこくったまま必要な事以外は殆ど声を発しなかったよね、あの人は」
 横瀬氏が振り返るのでありました。
「ちょっと不気味な凄みは感じたけど」
 来見尾氏は眉根を寄せるのでありました。「なかなか手強そうな印象だよね」
「でも片久那制作部長に実権を握って貰っていた方が、社長や土師尾営業部長にあれこれ素っ頓狂な対応をされるより、信頼感は格段にあると思うけど」
 袁満さんが云うと横の出雲さんが笑みを漏らしながら頷くのでありました。
「社長や土師尾営業部長はあの要求書に書いてある内容も、上手く理解出来ないんじゃないかな。賃金式なんか初めて目にしただろうし、チンプンカンプンだろう」
 袁満さんがそう続けるのでありましたが、その袁満さんも賃金式とか賃上げ式を始めて目にした時に、定昇分とかベアとか、式中にある(N―18)とかの記述に何となく鈍い反応をしたのではなかったかしらと、頑治さんは秘かに思うのでありました。まあ、尤もな事で、普段の生活にはそんな言葉や数式は何の意味も持たないのでありますから。
「社長や土師尾営業部長に出来るのは、ゼロ回答か満額回答のどちらかしかない」
 袁満さんがそんな冗談を飛ばして笑うのでありました。
「要求では、ベア一万五千円プラス定昇八千円、それに勤続手当加算分の五百円を足した額だよね。で、それから基準内の賃金式が十八歳で十八万円、後は年齢に応じて一歳毎に八千円ずつ加算。賃上げでこの賃金式に満たない場合はその分是正加算する、と云うものだったけど、賃上げ二万三千五百円なんて、そんな回答があっさり出て来る筈が無い」
 均目さんがここで要求額をなぞるのでありました。
「そりゃそうだ、業績不振でオタオタしているんだから」
 袁満さんが他人事のように笑うのでありました。しかしその不謹慎も宜なる哉で、この要求額は全総連の小規模単組連合の統一要に則ったものであり、先ずは高いところを吹っ掛けておいて様子を見る、と云う代物だと云う認識は何も贈答社組合員に限った事では屹度ないでありましょう。高度成長真っ只中ならいざ知らず、ここ何年もの不景気の下では、特に小規模単組連合にあっては、これはもう夢物語と云うべきものであります。
(続)
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