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あなたのとりこ 265 [あなたのとりこ 9 創作]

「あっちで仕事もありそうだし、お母さんの傍で暮らせるのなら、それは夕美にとって今のところベストな選択と云うものだろうなあ」
 頑治さんは自分の主観よりも客観的妥当性に重きを置くような事をものすのでありましたが、それは夕美さんには嫌にクールな云い草に聞こえるかもしれないと、云いながら思うのでありました。決して頑治さんの心の内は穏やかな筈がないのでありましたが。
 結局のところ夕美さんは修士課程を終えた後、郷里に帰って仕舞うのだろうと云う予感は前からしていたのではありました。少し前に本郷の中華料理屋だったか、そこで二人で食事をしていた折にお母さんの病気の事を訊いて兆したその好ましからざる予感に、頑治さんは意ならずも妙なリアリティーを感じて仕舞ったのでありましたか。
 夕美さんとそんな形で別れたくなんかないのでありました。二人が互いを強く求め合っているならば、どんな障害も何とか乗り越えられると思いたかったのでありましたし、その誠心がありさえすれば、様々な不都合も好都合に変えて仕舞うに違いないと云う、何の根拠の無い確信も一方に強く保持していたのでもありました。しかしそう云う得体の知れない楽観は何時か必ず打ち砕かれるに違いないと云う悲観にも、リアリティーを感じて仕舞う自分が居るのでありました。頑治さんの不安はいや増すばかりでありましたか。

 それはこの日より少し前の、ちょっとした一人散歩の折りの事でありました。アパートに近い本郷給水所傍に在るなかなかに豪壮な邸宅の庭から、板塀を越して道の方に松の枝が伸びているのでありました。枝は少し高い位置にあるため通行の邪魔にはならないのでありましたが、手を上に伸ばせば針葉の塊に届くのでありました。
 道に延びた松の枝を何の気無しに見上げていた時に、頑治さんの頭の内に故郷の子供の頃に暮らした実家の庭がふと現れるのでありました。そう云えば一頃、庭の松葉を組み合わせて引っ張り合いをして、右手に持った葉が左手の葉を割いて棄損しなければ何やらの慶事がその日の内に身に訪れるし、格別の良き事が無くともその日一日が幸運に包まれる筈だと云う吉凶占いを、秘かに毎朝、熱烈に繰り返していたのでありました。
 その占いが当たっていたのか外れていたのか、今となってはもう有耶無耶なのでありましたが、今こうして将来の大望も無く、しがない安月給の体力仕事で口を糊しながらフラフラと、無意味と云うも疎かに生きているところを見ると、大方のところ、外れ、と云うべきが正しいのでありましょう。それにまあ、これ迄の己が生の時々のディテールに於いてもさしたる幸運な椿事なんぞは、そうは無かったようにも思えるのでありましたし。
 とまれ頑治さんは、片手を伸ばして二股の松葉を二葉、枝の先から摘み取るのでありました。右手に持った松葉が事後に健在ならば夕美さんは東京に残るし、その松葉が千切れたならば夕美さんは東京に見切りを付けて故郷に帰る、と頑治さんは左右に持った二股の葉を搦め合わせて、少年の頃と同じように念を送りながら心の内で呟くのでありました。その直後、意を決したように固く目を閉じて、息を詰めて左右の前腕を、出来るだけ公平に引く力を作用させるようにしながら外に引き放すのでありました。ゆっくり瞼を開くと左手の松葉の元は千切れ、右手の松葉は二股の姿を健在に保っているのでありました。
(続)
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