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あなたのとりこ 264 [あなたのとりこ 9 創作]

「これからウチの会社はどうなるんだろうな」
 均目さんが嘆息するのでありました。
「会社の先行きとか組合結成の事を考えるのも、何となく億劫になってきたわね」
 那間裕子女史も溜息を吐くのでありました。頑治さんも二人に同調して力無い呼気に及ぶのでありましたが、実は頑治さんは、恐らくこの二人よりももっと無惨な推移を考えているのでありました。しかしこの席で酒の肴にそれを口にしようとは思わないのでありました。酒の肴にするには少々腹凭れが過ぎるように思われたからでありました。

 夕美さんは前髪が額に落ち掛かるのを留めていたヘアピンを外して、それを両手で弄びながら頑治さんの顔色を窺うのでありました。
「そうなる可能性の方が、今のところ高いと云う事ね」
 そう云ってから夕美さんは頑治さんから目を逸らすのでありました。
「矢張りお母さんの病気が一番大きな理由かな」
「そうね。でもまあ、それだけじゃないけど」
 食欲を失くして久しい夕美さんのお母さんは、精密検査の結果、胃に悪性腫瘍が見つかったのでありました。二月の下旬には市立病院で手術と云う段取りのようであります。
「大分悪いのかな?」
「そうね。お兄ちゃんに依ればかなり進行していると云う話しね」
「お母さんご本人は自分の病気の事をちゃんと知っているのかな?」
「ううん。当然本人には知らせてはいないの。胃潰瘍とか云ってあるみたい」
「そうか。まあ、一般的な対応としてはそうだよなあ」
 頑治さんは陰鬱な顔をして俯くのでありました。
「手術が成功しても大体は一年で、別の部位に転移したのが見つかって再入院、と云う事になるだろうって、お父さんとお兄ちゃんはお医者さんから告げられているらしいの」
「ああ、そうなのか。・・・」
 頑治さんと夕美さんが差し向かいで座っている炬燵の上に、重苦しい空気が泥むのでありました。その気圧に手指の自由を奪われたせいでもないでありましょうが、夕美さんが弄んでいたヘアピンが、竟うっかりと云った風情で夕美さんの指の間から毀れて炬燵の上に落下するのでありました。ヘアピンはほんの小さな落下音を立てるのでありました。
 そう云うお母さんの状態、それにその先行きがあるものだから、夕美さんは博士課程への進学か在京企業への就職と云う選択を諦めて、故郷に帰る心算になったようでありました。そう云う可能性の方が高い、等と未だはっきりと決断した訳ではないような話し振りではあるけれど、夕美さんの気持ちはもう既に大方のところは決しているように見えるのでありました。頑治さんにとっては全く好ましからざる事態の推移でありました。
「じゃあ、故郷に帰った後は県立博物館の研究員になるのかな?」
「そうね。そのために帰ると云う体裁の方が、お母さんに変な憶測をされないで済むだろうし。まあ、これはあたしが余計な気を回しているだけかも知れないけど」
(続)
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