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あなたのとりこ 255 [あなたのとりこ 9 創作]

「辞表を出す前に我々に相談する事は、考えの他だったのでしょうかね?」
 均目さんが遠慮がちに訊ねるのでありました。
「これは自分一人で考えて、考え抜くべき問題だからね」
 山尾主任は決然とそう云うのでありましたが、本当に考え抜いたのかどうか、頑治さんは山尾主任のその云い草を聴きながら少しく不審を覚えるのでありました。と云うのも、酷な云い方になるのかも知れませんが、山尾主任は一種の悲壮感とか潔さとか云う気分に酔っているのではないかと云うような気が、ふと兆したからであります。
 それに、考え抜く筈が途中で考えるのが億劫になってやけを起こして考える事を止めたがための短絡として、今の自分の抱え持つ状況を一切合切放擲して仕舞うと云う方法を選び取ったのではないでありましょうか。前に均目さんが、山尾主任の新妻さんが家を出て実家に帰ったのは山尾主任が山に遁走した故と云ったのでありましたが、あの時は山に、そして今度は会社を辞めると云う選択に只管縋り付いて、今の苦境を固く目を閉じて遣り過ごそうとしているちっとも潔くない営為と云う風に見えて仕方が無いのであります。まあそれは兎も角として、情に於いて色々と気の毒に思うのは勿論ではありますけれど。
「組合の方はどうなるのかねえ?」
 袁満さんが溜息を吐くのでありました。
「それは副委員長の袁満君を中心に、新しい体制でやっていって貰うしかないかな」
 山尾主任はか細い声で云って俯くのでありました。
「そこが無責任と云うのよ」
 那間裕子女史が俯いた山尾主任の旋毛に向かって云い立てるのでありました。「抑々と云うもの、労働組合を創ろうと云い出したのも、誰にも相談せずに独断で全総連に話しを持って行ったりしたのも、当の山尾さんじゃないの」
 那間裕子女史に詰られて山尾主任は痛々しそうに身を縮めるのでありました。
「今更それを云い出したって無意味じゃないか。それより、先を考えようや」
 均目さんが那間裕子女史の怒りの消火活動を担うのでありました。確かにこの期に及んで縷々、山尾主任に何時までも怒りをぶつけていても埒が明かないと云うのは判るので、那間裕子女史は不愉快そうな顔はその儘ながら嘴の方は噤むのでありました。
「山尾主任が抜けても、組合は創るんだよね?」
 今この状況で那間裕子女史に話し掛ける事に袁満さんは何となく及び腰になっているようで、均目さんの方に念押しするような云い草で確認するのでありました。
「事がここまで動き出して仕舞った以上、今更後には引けないでしょう」
「それはそうだよなあ。全総連との兼ね合いもあるしなあ」
 袁満さんはまた大きな溜息を吐くのでありました。
「矢張りここは、結成迄は袁満さんを新しい委員長として、新体裁で組合創りを継続する事になるでしょうね。結局それしか無いもの」
「どうしても俺が委員長になるのかい?」
「それが順当だし、そう云う不測の事態に備えての副委員長でもあるし」
(続)
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