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あなたのとりこ 215 [あなたのとりこ 8 創作]

「那間さんはちっとも、山尾主任の結婚を祝福していないみたいだね」
 均目さんが皮肉るような云い様をするのでありました。
「そんな事もないけど、でもとても嬉しく思っているかと云うと、それもそうでもないけどね。まあ、どうでも良いと云うのか無関心と云うのか」
「そう云えば山尾主任が片久那制作部長に、今度結婚することになったからと報告して、それに付いては一月十九日からの新婚旅行休暇をと切り出した時に、片久那制作部長は、まあ、一応は祝福の言葉をかけたんだけど、それでは休暇の取得を了承してくれますかって山尾主任が確認すると、それは仕方が無い、とか応えていたなあ」
 均目さんが思い返すような目容をしながら云うのでありました。「その、仕方が無い、と云う云い草がさ、横で聞いていた俺は少し失礼だなあと思ったんだ。人の慶事を、仕方が無い、とか云って了承するって法はないよなあってね。心根の内で実はそう思っていたとしても、もっと負担を感じさせないような配慮した云い方があるんじゃないかな」
「そう。ふうん」
 那間裕子女史のこの合いの手は、均目さんのその時の心情にあんまり同調しないようなやけにあっさりしたトーンでありましたか。山尾主任に対して普段から肩入れもしていないし、思い入れも大して持っていないからでありましょう、その冷淡さに於いては、那間裕子女史も片久那制作部長と同じ程度だと云うところでありましょうか。
「ちっとも失礼だとは思っていないようだね、那間さんは」
 均目さんが少しがっかりしたような声を出すのでありました。
「別に失礼だとか思うような事じゃないんじゃないの。片久那さんもあっけらかんと無意識にそう云う云い方をしただけで、別に悪気なんか無いんじゃないのかなあ」
「悪気は無いかもしれないけど、でも優しさも無いよなあ」
「片久さんに優しさを求めている訳、均目君は?」
 那間裕子女史は憫笑のような笑いを口角に上せるのでありました。
「そう云う訳じゃないけどさ」
「まあ、その時の均目君の心情なんてものは、要するに山尾主任への同情が主意ではなくて、片久那制作部長に対する日頃から抱いていた不満の発現だと云う事かな」
 頑治さんがしたり顔でそんな事をものすのでありました。
「ああ成程ね。それじゃあ均目君は矢張り、要するに片久那さんに対して、もっと優しくあれと願っている、と云う事にもなる訳ね」
 那間裕子女史のこのもの云いは冷やかすような口調でありました。
「優しくあれ、と云うよりは、大らかであれと云う事かな」
「大して大らかとも思えない均目君が、良く云うわ」
 那間裕子女史は鼻を鳴らすのでありました。
「いやいや、実は俺は、こう見えても根は大らかなヤツなんだよ」
「ふうん。大らかの国から大らか教を広めに来たような人?」
 この那間裕子女史の云い草は頑治さんの口真似のようでありました。
(続)
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あなたのとりこ 216 [あなたのとりこ 8 創作]

 那間裕子女史は云った後で頑治さんの方に瞳を流して笑むのでありました。これで良かったかしら、と云った頑治さんへの確認の心算でありましょうか。
 この成句は実は、ずっと前に上野の鈴本演芸場で志ん朝師匠の『三枚起請』と云う落語を聴いて覚えたものでありました。その噺の中の花魁の科白に「親切の国から親切を広めに来たような人」と云うのがあって、どう云う訳だか何となく気に入って、親切、をあれこれ違う言葉に云い換えて頑治さんは時々会話の中で使うようになったのでありました。序に云えば、この場合だったら、親切を広めに、を、親切教を広めに、と変えるのは別に頑治さんが複製権に配慮したためでも何でもなく、単なる勘違いからでありましたが。
「とまれかくまれ、喜ばしかるべき結婚旅行を二週間後に控えたところで、こういう配置転換の話しを持ち出されるのは、山尾主任としては堪らないよなあ」
「それこそ、仕方が無い、とか云う科白を通り越して、ひどいよね」
 この点は那間裕子女史も山尾主任に同情的なようでありました。
「どうしてこのタイミングでそんなひどい話しを出して来たんだろう?」
 均目さんは暗に片久那制作部長を批判しているようでありました。
「山尾さんの結婚旅行の日取りと、配置転換の話しを出す今日と云うタイミングには、特にはっきりとした関連はないんじゃないの」
「でも片久那制作部長は山尾主任の結婚の日取りを知っていた筈だし」
「配置転換の話しは片久那さんより土師尾さんの提起でしょうし」
「それでも、山尾主任が結婚旅行から帰ってからでも良かったろうに」
 先程の、仕方が無い、と云う科白との兼ね合いも含めて均目さんは片久那制作部長の非情さと云うのか、せめもてもの思いやりの無さに憤っているようでありました。
「土師尾さん主導で、提案に今日が選ばれたんじゃないの」
「片久那制作部長がもう少し待てと云えば、力関係から土師尾営業部長は従う筈だぜ」
「それもそうだけど、まあ結局、片久那さんにも山尾さんに対するそれ程の敬意とか配慮とかは無かったと云う事ね、つまり」
 那間裕子女史は皮肉っぽい笑いを片頬に浮かべて云うのでありました。

 そう云えば以前、片久那制作部長は山尾主任を実際のところそんなには買ってはいないとか云う話しを、均目さんからだったか那間裕子女史からだったか、聞いた事があるのを頑治さんは思い出すのでありました。それは会社での仕事振りに於いても、それにその人間的要素に於いても、と云ったニュアンスでありましたか。
 仕事では、云われた事は最低限そつなく熟しはするけれど、気が利くタイプでは無いからそれ以上の期待は出来ないと云う点で物足りないようであります。人間的要素の点では、頑固さとか融通が利かないところとか、冗談が通じないとか洒落が判らないとか、何となく須らく考えに甘さが見える辺りとか進取の気概に欠けるとか、まあ、色々とあるのでありましょうが、要は、片久那制作部長と山尾主任とは馬が合わない同士と云う点に尽きるのでありましょうか。そう云って仕舞えば身も蓋も無いでありましょうけれど。
(続)
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あなたのとりこ 217 [あなたのとりこ 8 創作]

 しかし片久那制作部長の方も、何時も陰鬱な顔をしていて気難し屋で、こちらもかなりの頑固者で、頭の回転が早いから云う事為す事万事が目から鼻に抜けるような人で、そうであるから他人の言動がまどろっこしくて、屡人を置いてきぼりにして自分だけが随分前に突出して仕舞って、それを意にも留めない一種の情義の薄い一面も見られるのでありました。それからこれは美点でもあるのでありましょうが自分に厳しい分人にも厳しくて、それが陰性に発露するから大体に於いて人を軽蔑する傾向が強いようでもありますか。
「ところで居酒屋で、片久那制作部長と山尾さんはどんな話しをしているんだろう」
 均目さんが顎に手を当てて考えを回らすような素振りをするのでありました。
「屹度しめやかな雰囲気で、口数少なくお酒を飲んでいるんでしょうけど、要するに制作部から営業部への配置転換を受け入れるように、あれこれ言葉を並べて片久那さんが山尾さんを説得しているんでしょうね。まあ、説得と云うより一種の強要でしょうけど」
「山尾主任はその説得だか強要だかを受け入れるでしょうかね?」
 頑治さんが猪口をグイと空けてから聞くのでありました。
「結局、渋々でも受け入れるしかないんじゃないかしら。会社に残る心算なら」
「結婚間近なんだから、この今は会社を辞めるタイミングではないだろうなあ」
 均目さんが未だ顎を撫で続けながら云うのでありました。「それから山尾主任一人に限らず、日比課長にしても袁満さんにしても、それから出雲君にしても、営業部はこれから先、仕事内容が今迄とは激変すると云う事になりそうだよなあ」
「そうね。営業部再編と云った感じよねえ」
 那間裕子女史がやや深刻そうな面持ちで頷くのでありました。
「制作の方だって山尾さんが抜ける分、那間さんも俺もその分仕事量は増える」
「そうね。でも片久那さんの話しに依ると、あたしはこれ迄やってきた仕事と同じ内容の仕事が増えるだけみたいだけど、均目君は色々煩わしそうな仕事が増えそうね」
「ああ、管理関係の仕事ね」
 均目さんはげんなりと云った口調で応えるのでありました。「でも、山尾主任のこれ迄やっていた管理方面の仕事だったら、まあ、俺でも熟せるだろうと思うよ」
「でも営業から依頼された制作費の見積もりとか、営業との連携での制作管理もあるとか云っていたでしょう、さっきの話しで片久那さんは」
「そうね。まあ、山尾主任の今までのそっち方面の仕事は、片久那制作部長がすっかり事の全体を掌握していて、その指示の下であれこれ補助的に動くと云った風だったけど、何かさっきの話しでは、片久那制作部長経由ではなく俺がもっと主体的に動くようにと云ったニュアンスだったかなあ。そうなると、ちょっと面倒にはなるかな」
「山尾さんの仕事振りでは全然物足りなかったのよ。だから片久那さんとしてはすっかり安心して全部を任せられなかったのね。均目君にはもっと頼りになる仕事ぶりを期待していると云う事よ。だからまあ、精々頑張ってね、均目君」
 那間裕子女史は冗談めかしてそう突き放して、如何にも無責任そうな笑いを頬に浮かべて均目さんを励ますような、或いは委縮させるような事を宣うのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 218 [あなたのとりこ 8 創作]

「と云う事は、那間さんと均目さんは労働量強化になるけど、片久那制作部長は労働量軽減と云う事になるんですかね、その目論見に依れば」
 頑治さんは均目さんの真似ではないけれど、顎を手指で撫でるのでありました。
「まあ、そんな風にも云えるかもね」
 那間裕子女史が成程と云った面持ちをして頷くのでありました。「でも確かに、これ迄は片久那さんに他の社員全員がすっかり頼り切りでいたのは事実ね。片久那さんとしてはもういい加減夫々自律的に仕事してくれと云ったところかもね」
「社員が皆、仕事に於いて独り立ちしろと云う事ね」
 均目さんが反省点として、大いに覚えがあるような面持ちで呟くのでありました。
「独り立ちって云う自立もそうだけど、何でも片久那さんを当てにしないで、夫々自分の判断、自分の思慮の上で主体的に仕事をしてくれと云う事」
「皆さんは今迄、そんな風に仕事をしてこなかったと云う反省があるのですかね?」
 頑治さんが別に批判的な物腰と云う訳ではなくて、全く素朴な疑問、と云った声色で、話し掛ける相手としては那間裕子女史とも均目さんともつかないような目線で訊くのでありました。まあ、敬語を使っているのでありますから、どちらかと云うと那間裕子女史の方を対象として質問していると云った色が濃い事になるのでありましょうが。
「慎に面目無い」
 那間裕子女史ではなく、先に均目さんが、冗談口調を演じてはいるけれど、半分くらいは本心と云った様子で頭を掻いて頑治さんにお辞儀して見せるのでありました。
「確かに、片久那さんにかなりな部分寄りかかった仕事振りではあったかな」
 先んじて均目さんが曲がりなりにも正直な告白を口に上せたせいか、那間裕子女史も何時も条件反射的にする、自分への批判に対して挑みかかるような対抗心をここでは表に出さないで、少々しめやかな表情で頷くのでありました。
「まあ、那間さんも均目さんも、片久那制作部長に比べれば実務経験が未だありませんからね。それは仕方が無いかもしれませんよ」
 頑治さんが優しい言葉を掛けるのでありました。
「と云っても、均目君は未だ入社して二年とちょっとだけど、あたしはもう四年も経つんだものね。経験不足とか云う話しじゃないかもしれないわ。片久那さんにしたって、会社に激変があって、制作部を任されたのは入社して二年半くらいの頃らしいから」
「片久那制作部長が何事に於いても人に任せるより、自分の手で総てやった方が早いと云うスタイルの人のようだし、他の社員がなかなか仕事に習熟出来ないのは、その辺も影響しているんじゃないですかね、まあ、良くは判りませんけど」
 頑治さんはあくまで那間裕子女史と均目さんに寛容な発言をするのでありました。
「それは、反省も込めて云うけど、云い訳にはならないと思うわ」
  那間裕子女史はどうした按配かあくまでもしおらしいのでありました。
「確かに数か月で業務仕事の効率化や、倉庫の整理整頓や美化を劇的に成し遂げた唐目君に比べれば、恥じ入るばかりだね、俺としても」
(続)
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あなたのとりこ 219 [あなたのとりこ 8 創作]

 均目さんが冗談抜きの真顔で頑治さんを持ち上げるのでありました。「まあ、前任者がちゃらんぽらんで相当にひどかったからと云う理由もあるけど」
 そうですね、と云うのも何となく不謹慎のようで憚られて、頑治さんは曖昧な笑いを浮かべて均目さんの言には頷かないのでありました。
「まあしかし、今度の配置転換とか業態の変更は、春闘時に予定している労働組合結成の件との兼ね合いで、どう云う風な経緯を辿るんだろうかねえ」
 頑治さんが思いを回らすような顔で云うのでありました。すると那間裕子女史も均目さんも同様の表情で沈黙して、静かな飲酒の時間が暫し流れるのでありました。
 宴も終わり間際になって那間裕子女史が酔い潰れて寝て仕舞うのは件の如し、でありましたか。これも例に依って均目さんが横から女子の体を支えて住処まで送り届けるのでありましたが、二人が寄り添って神保町駅の階段を改札に向かって降りて行く後ろ姿を見届けてから、頑治さんは歩いて自分のアパートへの帰路を辿るのでありました。

   混乱と不信と大儀

 色々とごたごたした初出社の日より遡る事一日、一月四日には正月休みで帰省していた夕美さんが郷里から東京に戻って来るのでありました。頑治さんは約束通り午後三時少し前に東京駅の東海道新幹線ホームに出迎えに赴くのでありました。予め夕美さんの乗った列車の指定席番号を聞いていたから、頑治さんはちょうどその車両が停止する目印辺りで二十分くらい、無表情にぽつねんと立って待っているのでありました。
 列車が到着してドアが開き、何人目かに夕美さんがパンパンに膨らんだデイパックを背負って、右手には大振りの旅行カバン、それに左手には大判の紙袋を引っ提げて、その紙袋が重くて持ちにくいのか頻繁に待ち直しながらホームに下り立つのでありました。荷物の多さもさりながら、そのせいで夕美さんが何となくあたふたしているような風情に、頑治さんはいじらしさ六分と微笑ましさ四分を覚えるのでありました。
「よう、お帰り」
 頑治さんは目が合ってすぐに破顔して声を掛けるのでありました。
「頑ちゃん、ただいま。と云う前に、先ずは明けましてお目出とう」
「ああ、お目出とう」
 頑治さんはそう返して畏まって小さく礼をするのでありました。その様子を見て夕美さんは笑って、こちらも律義らしく頭を下げるのでありました。
 頑治さんは夕美さんの両手の荷物を預かるのでありました。
「有難う。ああ重かった」
 夕美さんはこれでようやく荷物から解放された、と云った風に両手首を振って手指の血行を促す動作をするのでありました。とは云っても、高々座席から出口までの距離ではありますから、この夕美さんの所作は些か大仰とも云えるのでありましたが、まあしかし頑治さんが手に持ってみると二つの荷はなかなかに重くはあるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 220 [あなたのとりこ 8 創作]

「何が入っているんだい?」
 頑治さんは旅行カバンの方を差し上げてそれに目を凝らすのでありました。そうしたからと云って別に中が見える訳ではないのでありますが。
「カバンの方はあたしの衣類とか色々。紙袋の方にはこっちで配るお土産とか、向こうで預かって来た親戚に届ける物とかが入っているの。駅に見送りに来て、その場で誰彼に渡してくれって急に頼まれるから正直困るのよね」
「紙袋の重さからすると、大勢に盛大に見送られてきたってところかな」
「何だか知らないけど、誰かが東京に行くとか、まあ、列車で旅行に出るとか聞くと、ウチの両親は元より、親戚の伯母さんとか従妹なんかがが見送りに来るのよ。結構頻繁に行き来しているんだから、今時そんなのあんまり意味が無いと思うんだけどね」
「まあ、田舎の昔からの風習と云うものだろうなあ。旗とか幟振って、餞別を一杯出して集まった皆で万歳三唱して、盛大に送り出すのが礼儀作法だと云う風に思っているところが未だあるはあるな。田舎の人間の素朴さと云えばそうとも云えるんだろうけど」
 頑治さんは車窓の夕美さんがホームに居並ぶ大勢の参集者から見送られて、戸惑いながらお辞儀している風景を想像して、何となく可笑しくなって笑むのでありました。
「届け物係として丁度良いからよ。そんなの郵便局から小包とかで送ればいいのに、送料をケチる魂胆よ。あたしは走り使いじゃないって云うの」
 こうやって憤慨して見せるところを見ると夕美さんは駅で急に手渡された荷物の多さ、或いは重さにげんなりだったのでありましょう。まあ、荷を託す方も託される方の負担にはうっかり気が回らないところはあるにしろ、特段の悪気があっての事ではないでありますか。しかしだからこそ、余計に始末に困るとも云えるでありましょうけれど。
「ああそうそう、頑ちゃんのカルメ焼きもその中に入っているわよ」
 夕美さんは旅行カバンの方を指差して見せるのでありました。
「ああそう。それは有難う」
 頑治さんは嬉しそうな笑みを夕美さんに向けるのでありました。
「こうして頑ちゃんの笑い顔を見ると、郷里に帰っている時よりもホッとするわね」
 夕美さんも笑い掛けるのでありました。そう云う事を云う辺りを見ると、ひょっとしたら夕美さんは修士課程を終えた後、郷里に帰って博物館か高校に職を求める事を止して、東京に残って博士課程に進む道を選ぶ決心をしたのではないだろうかと頑治さんは期待を込めて竟、お先走りの読み等をして仕舞うのでありました。
 この後二人は何処にも寄り道しないで、中央線と小田急線を乗り継いで夕美さんのアパートに向かうのでありました。確かに荷物係が居なかったら夕美さん一人で、デイパックと旅行カバンと紙袋を持ってこの路程を移動するのはしんどかったろうと頑治さんは想像するのでありました。まあ、それならそれで夕美さんは何とかしたでありましょうが。
 頑治さんが夕美さんのアパートを訪れるのは稀なのでありました。夕美さんの親戚の家に近いので、頑治さんが出入りしている姿を見られるのは何となくマズいと云う理由であります。頑治さんにも一人暮らしの女性の部屋を訪う事への気兼ねもありましたか。
(続)
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あなたのとりこ 221 [あなたのとりこ 8 創作]

 まあ、何を今更そんな遠慮は無意味と云えば無意味でありましょうけれど、しかし頑治さんには自分なりの規矩があるのでありました。紳士たる者、関係に狎れてどんどんと相手への配慮を喪失していくのは厳に慎むべき態度であると。
 何処でどのような経緯でこのような倫紀を創り上げたのか自分でも良くは判らないのでありましたが、頑治さんには昔から一方に妙に堅物の横顔があるのでありました。それを一種の可愛気と取る向きもあれば、つまらない気取りと観る向きもあり、エエ恰好しいのポーズと勘繰る向きもあるのでありましたが、まあ、受け取られ方には頑治さんの関知の他であります。嫌でも応でもそう思って仕舞うのだから、仕方が無いのであります。
 夕美さんのアパートに着いてから頑治さんはお土産のカルメ焼きと、これは特に頼んではいなかったのでありましたが、故郷のデパートの初売りで見付けて竟買って仕舞ったと云う夕美さん見立ての空色と薄草色のセーター二着を貰うのでありました。
「へえ。夕美が選んでくれたんだ」
「そう。頑ちゃんトレーナーとかは持っているけどセーターは持っていないでしょう」
「そう云えばそうだな」
 頑治さんは嬉しそうに手渡された二着のセーターを交互に眺めるのでありました。
「冬は上着の下にセーターを着ていると温かいのよ」
「ふうん。いやしかし、どうも有難う。何となく申し訳無いような気がするけど」
「ううん、気にしないで。あたしが勝手に買って来たんだから」
 成程、カルメ焼きの他にこのセーター二着が旅行カバンを余計に膨らませていた一因であったようで、そう考えると道中の持ち辛さがここで一気に霧消するのでありました。
 アパートで夕美さんが淹れてくれたコーヒーを飲みながら暫く談笑して、頃合いを見て二人で外に出て駅前のレストランで夕食を共にして、その後その儘頑治さんは電車で本郷の自分のアパートに帰るのでありました。ここまでで、夕美さんの今後の進路についての話しは特に何も出ないのでありました。週末に夕美さんが頑治さんのアパートに来ると云う事なので、その折にそちら方面の話が何かあるのかも知れません。
 今日話が出なかったと云う事は、すぐには報告し辛い夕美さんの決定がなされたからかも知れないと頑治さんは電車のつり革につかまって、車窓に映る自分の姿をぼんやり眺めながら思うのでありました。と云う事はひょっとしたら矢張り、夕美さんは修士課程修了後に郷里に帰って、博物館か高校に就職する事を決めたのでありましょうか。
 夕美さんの「頑ちゃんの笑い顔を見ると故郷に帰っている時よりもホッとする」と云った先の言葉を、それを聞いた当座は、東京に残る事の遠回しの表意かと喜んだのでありましたが、ここ迄に何も話されないと云う事実の方が、自分に好都合な浮付いた解釈なんかよりも強力で厳粛な気がするのでありました。頑治さんは手に下げた、お土産のセーターとカルメ焼きを入れた紙袋が急に重くなったような気がするのでありました。

 混乱と不信と大儀を一方に、山尾主任はグアム島に結婚旅行へと出発するのでありました。人生の一大事なのに、只管楽しい旅となりはしないような具合でありましたか。
(続)
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あなたのとりこ 222 [あなたのとりこ 8 創作]

 山尾主任は旅行から帰ったら那間裕子女史と均目さんへのこれまでの仕事の引き渡し、新しい営業部仕事の日比課長からの引継ぎ、それに労働組合結成のための準備と大忙しになるでありましょう。先行きの不安で一杯と云った有り様でありましょうから、とても新婚気分を謳歌、とはいかないのは気の毒であると頑治さんは同情するのでありました。全く間の悪い巡り合わせでありますが、何とか切り抜けて貰いたいものであります。
「山尾主任は営業に移るけど、待遇面では今迄と変わらないらしいよ」
 頑治さんは均目さんからそんな事を訊くのでありました。「主任手当の四千円はその儘貰えるらしいし、新たに家族手当が、配偶者だから八千円付くと云う話しだ」
「条件としてそのくらいはして貰わないとね。これで主任手当てもカットとなると、踏んだり蹴ったりと云った按配だろうしなあ」
 頑治さんは山尾主任の気持ちを慮るのでありました。
「まあ、主任手当はその儘で減額されないけど、役職としては主任と云う訳ではなく平の社員になるようだぜ。名目の上では、まあ、降格だな」
「給与の減額が無いと云う事が、営業に移るのを承諾する条件だったのかな」
「居酒屋で片久那制作部長から縷々説得されて、その条件は保証して貰ったらしい」
「山尾主任が居なくなると制作部もこれから大変かな」
 頑治さんが訊くと均目さんはすぐに頷かないで考える風を見せるのでありました。
「人が減れば残った人間の仕事量は増えるのは当たり前だけどね」
 この均目さんの応え方は然程の気持ちの負担は無いような云い草であります。「でも俺に関して云えば、製作工程の管理の仕事を山尾主任に代わってやる事になる訳だけど、今迄山尾主任がやっていたような仕事なら俺にでも、明日からでも充分熟せそうな気がするけどね。そんなに複雑多岐に亘る面倒臭い仕事でもなさそうだったからね」
「でも、山尾主任がやっていた今迄のような仕事振りより、もっと能動的で自主的な、片久那制作部長の指示を待っていたり、色んな面でその手を煩わせなくとも済むような、自律的な仕事振りを期待されているんだろう?」
「はっきりそう釘を刺された事は無いけど、まあ、そう云う期待もあるんだろうな」
「あれこれ大変だろうけど、ま、頑張ってくれよ」
 頑治さんはこの言葉が、均目さんを適当にあしらうような調子に聞こえないように少し気を遣った語調で云うのでありました。
「唐目君も多分これから製作関連の仕事を多く云い付かる事になるぜ」
「そう云えば片久那制作部長にそんな事を云われたなあ」
「片久那制作部長は唐目君を大いに買っているみたいだぜ。何を頼んでもそつ無く熟すし丁寧だし手際も良いし、面倒で複雑な仕事でもきっちり期待通り、いや、期待以上の結果を出すし。片久那制作部長は将来、唐目君に制作部に来て貰う心算でいるんじゃないのかな。俺や那間さんなんかより余程有能で育て甲斐があると見ているような気配だ」
 そう云われて頑治さんは、自分が片久那制作部長に認められていると云う辺りはそんなに悪い気はしないのでありましたが、一方に多少のげんなり感も持つのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 223 [あなたのとりこ 8 創作]

 頑治さんは元々、給料とか待遇は特に高望みはしないけれど、その日の内にその日の課業が完結するような小難しくない仕事で、格式張った服装をしなくて済む比較的社風ののんびりした、冗談や洒落の判る上司の居る、あんまりこの先発展しそうにないながらもしかし、なかなか堅実に続いて行きそうな会社、と云う希望を以て就職先を探したのでありました。その希望と現状は何やらかなりズレてきていると云うのに、この先これ迄以上に七面倒臭い仕事を仰せつかるのは、これはもう、初志に反すると云うものであります。
「しかし俺としては業務仕事の方が性に合っているんだけどなあ」
「でも、制作部に移る方が給料が上るぜ」
 確かに制作部の三人は基本給自体が営業や業務や経理よりも多いのでありました。
「それはまあ、そんなに重大事には考えていないから」
「何と云うか、欲が無いなあ、唐目君は」
 均目さんは呆れ顔をするのでありました。「まあそう云う風に何事にもガツガツしていないで、あっさりしている辺りが唐目君らしいと云えばらしいかな」
 この均目さんの言葉は、一種の褒め言葉として受け取って良いものか、それとも哀れみの籠められた言葉なのかは頑治さんには良く判らないのでありました。

 頑治さんは時々、那間裕子女史と均目さんと三人で昼食を共にする事があるのでありましたが、その日は丁度均目さんが午前中からすっと外に出ていたので、那間裕子女史に誘われる儘会社近くの日貿ビルの地下に在る中華料理屋に二人で入るのでありました。ここは本場四川料理の名店を謳う少々お高い店でありましたが、那間裕子女史が驕ってくれると云うので頑治さんはその尻に付いてノコノコ階段を降りるのでありました。
 昼食時には日替わりで五点の料理が揃えてあり、それに飯と中華スープでランチと云う形式でありました。二人は蟹玉と海老チリソースそれに麻婆豆腐の三点を注文するのでありましたが、他にその日は青椒肉絲と鳥の唐揚げと云うラインアップで、本場四川料理と謳う割に麻婆豆腐以外はそれに合致しないように頑治さんは思うのでありました。ま、ランチのメニューは別で、よくある一般的に知られた中華料理と云う事でありましょう。
「山尾主任は今頃、グアムでの結婚旅行を楽しんでいるでしょうかね」
 頑治さんがそんな事を訊くと那間裕子女史は一つ鼻を鳴らすのでありましたが、それは山尾主任の挙行したグアムへの結婚旅行を侮蔑する心算で発せられたのではなく、うん、と云う返事をしようとして些か余計に鼻腔に掛かったために、まるで鼻を鳴らしたように聞こえたもののようでありました。女史自身が全く意図もしなかったそのような自分の返事の仕様に自分で少したじろいだようで、繕うような笑い顔をするのでありました。
「帰って来た後の自分の処遇や新しい仕事に対する不安で、とても楽しめるような気分じゃないでしょうね。酷いタイミングでそれを発表したものよ、全く片久那さんは」
「まあ山尾主任を営業にコンバートしたのは土師尾営業部長の考えでしょうけど」
「そうでもないんじゃない」
 那間裕子女史はここで正真正銘に鼻を鳴らすのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 224 [あなたのとりこ 8 創作]

「土師尾営業部長の発案ではないんですか?」
 頑治さんは箸の動きを止めて那間裕子女史の顔を見るのでありました。
「土師尾さんと山尾さんはお互い相手を心根の内では小馬鹿にしていて、息も合わないし馬も合わない同士なのに、それを敢えて自分の部署にコンバートなんかすると思う」
「息も馬も合わないけれど仕事の上で有効であればするかもしれないじゃないですか」
「土師尾さんにそんな器量とかクールさとか、したたかさとか、あると思う?」
 そう訊かれれば、まあ、殆ど無いと応えるしかないでありましょうが。
「と云う事は、片久那制作部長から発した案であると云う事ですかね」
「その可能性も大いにあるんじゃないかしらね」
 那間裕子女史は蟹玉入りの口をモグモグさせながら頷くのでありました。「山尾さんは片久那さんとも馬が合わなかったし、片久那さんも山尾さんをそんなに買ってもいなかったし、自分の部下として内心持て余していたようだから、この際自分の元からから手放そうとしたと云う風に考えられなくも無いわね。ま、実際のところは良く判らないけど」
「若しかしてそうであるとしても、情義と云う点ではちょっと無神経ですよね、このタイミングで山尾主任に移動を申し渡すと云うのは」
「ま、上司として愛情を感じていなかったのね、つまり。それを云うならあたしも均目君も片久那さんに、部下としてそんなに大事にされているとも思えないけど」
「そうですかねえ」
 この頑治さんの言は、いやそんな事も無いでしょうけれど、と云うやんわりとした那間裕子女史への気遣いを滲ませた表現と云うよりは、本当にそうなのかどうか頑治さんには全く判らないと表明しようとする言葉付きでありましたか。
「片久那さんは何もかにも自分一人でグイグイやるタイプの人だから、部下が居ると返って間怠っこいし煩わしいのかもしれないわ。大体に於いて他人を全く信用していない人なんだし、そっちに気を遣うエネルギーが勿体無いものね」
「でも、間怠っこいと考えているとしても、そう考えるだけ未だ少しは部下に対して気を遣っているという事でしょう。誰かさんとは違って」
「その誰かさんと比較するのは片久那さんが可哀想よ」
 那間裕子女史はそう云って箸を持つ手を口元に添えて笑うのでありました。この手の雑談が落ち着く先は結局何時も、土師尾営業部長に対する不信と軽蔑と云った辺りでありますか。自業自得であるとは云うものの、実に損な役回りの人であります。
「片久那さんが期待しているのは、山尾さんでもあたしや均目君でもなくて唐目君よ」
 那間裕子女史は蓮華で中華スープを掬いながら云うのでありました。
「俺ですか? でも俺は制作部の人間じゃないし」
「それでも矢張り唐目君よ。接し方で判るわ」
 そう云う風な事を均目さんからも聞くのでありましたが、頑治さんは均目さんの時と同様、ここでもまたげんなりするのでありました。もし本当にそうであるなら、片久那制作部長は一体どのような了見でいるのでありましょうか。
(続)
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あなたのとりこ 225 [あなたのとりこ 8 創作]

「ところで唐目君、大学院に通っている彼女とお付き合いしているんだって?」
 那間裕子女史が突然話題を変えるのでありました。頑治さんは直前に口に入れた海老のチリソースを拭き出しそうになるのでありましたが、それはかろうじて堪えて上目で那間裕子女史の顔を窺うのでありました。那間裕子女史は頑治さんが見せた少しのたじろぎを面白がるように、悪戯っぽい目付きをして見せるのでありました。
「それは、均目君から聞いたのですか?」
 均目さんには何かの折に、自分には付き合っている彼女が居て、それは大学時代の同級生だと云う辺り程度は話しているのでありました。他にそんな事を打ち明け話しした人は会社の中には居ないのでありますから、均目さんから那間裕子女史に齎された情報と云う以外には考えられないのでありました。ま、別に均目さんに口止めした訳ではなかったのではありましたが、那間裕子女史からその事を云われて驚いたのであります。
「その子は大学院で考古学をやっているんだってね。女子としては少し変わり種かな」
 頑治さんの質問には応えないで那間裕子女史は話しを先に進めるのでありました。
「まあ、そのようにも云えるしそのようでないとも云えるし」
 頑治さんは曖昧に受け応えて海老をもう一尾口に放り込むのでありました。
「お付き合いして、もう長いの?」
「いや、四年生の時からですので、そうでもないですね」
「切っ掛けは唐目君が声を掛けたの?」
「いや、向こうから声を掛けてきたんです」
「ずっと前から目を付けられていたのかしら」
「いや、偶然再会してそれで、・・・」
「再会?」
 那間裕子女史は小首を傾げるのでありました。「前に見知っていた子?」
「故郷の中学校時代の同級生です」
「へえ、中学校時代の同級生と偶然東京で再会したの」
「ええまあ、そう云う事になります」
 何やらこれ以上那間裕子女史の質問ペースに乗せられると、根掘り葉掘りあれこれと話しをさせられそうで頑治さんは少しげんなりと云った心持ちになるのでありました。
「同じ大学の学生でしょう?」
「・・・・・・」
 頑治さんは小さな頷きだけを返すのでありました。
「再会するまでお互いに同じ大学に通っている事を知らなかったの?」
「・・・・・・」
 頑治さんは一回目よりも振幅を小さくして億劫そうに頷くのでありました。
「高校は違う高校だったの?」
 頑治さんはもう頷かないで、那間裕子女史の質問が聞こえなかったような素振りで、皿に最後に残った一尾の海老に箸を出すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 226 [あなたのとりこ 8 創作]

「何、これ以上あたしには話したくないって素振りね」
 那間裕子女史は頑治さんの反応にいちゃもんを付けるのでありました。「ま、いいや。あんまり話したくないなら、それはそれで」
 那間裕子女史はテーブルの上のあら方空いた皿を見渡して箸を置くのでありました。

 頑治さんが倉庫で梱包作業をしていると出雲さんが上の事務所から下りて来るのでありました。出雲さんは当初の予定では二月迄出張は無いのでありましたが、二月から近郊の特注営業の仕事に回る事になったために、これ迄担当していた東北や北海道と云ったエリアの出張先に、もう車で出向く事はないけれど電話注文と云う形でこれ迄通りのお付き合いをよろしくと、挨拶の電話にここのところ掛かり切りなのでありました。
 その電話がなかなか骨の折れる仕事のようで、ちょっと息抜きと云う心算で倉庫に下りて来たようでありました。出雲さんは作業台の傍らで頑治さんの仕事の邪魔にならないように遠慮がちな様子で佇んで、会社のすぐ傍の自動販売機で買って来た缶コーヒーを飲んでいるのでありました。その口から時々溜息が漏れるのでありました。
「どうです、なかなかあの日以来目まぐるしい様子ですけど?」
 頑治さんがそう声を掛けると出雲さんはニンマリと愛想笑って見せて、もう一口コーヒーを喉に流し込んでからまた溜息を吐くのでありました。
「北海道のお土産屋とか東北の山奥の温泉宿なんかは冬場には閉店していたりするところが多くて、なかなか連絡が付かないからちっとも捗りませんよ」
「ああ、そういう処は冬場は観光シーズンではないでしょうからね」
 そう云う訳でこれ迄は、二月一杯出雲さんは出張を免れていたのでありました。
「未だ、日比課長と新しい仕事で外を回ってはいないんですか?」
「日比さんも仕事が代わるんで、今迄の得意先とかへの挨拶なんかであれこれと忙しそうですからね。それに山尾主任が旅行から帰って来れば、引き継ぎで一緒に得意先回りもしなければならないでしょうから、新しい方の仕事は未だ目途も立っていませんよ」
 出雲さんはここ迄云ってまた溜息を吐くのでありました。
「でも一方では、あんなに億劫がっていた東北や北海道への長い日数の出張から解放されるんだから、そちらに関しては、これからは少し気が楽なんじゃないですか?」
「まあ、それはそうですけどね」
 出雲さんはこれ迄は出張に出る二日前辺りから、目立って気が重くなって口数が減り、自分からは冗談も云わなくなり、こちらの冗談に対しても全くノリが悪くなるのでありました。長く東京を離れて仕舞う出張の仕事は大いに苦痛のようでありました。
「東京近郊とか遠くても北関東辺りなら、若し出張で行く事があるとしても精々二泊で済むんでしょうね。そっちに関しては今迄よりは楽になるんじゃないですかね」
「ま、どうなるか未だ何も判りませんけどね。多分出張の日当とか宿泊代をケチるだろうから、泊りの仕事は無いけれど、早出と遅帰りばかりの毎日になるかも知れないし、実はそっちの仕事に対するイメージが、未だ何も掴めませんからね」
(続)
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あなたのとりこ 227 [あなたのとりこ 8 創作]

 出雲さんの不機嫌と溜息は、未だ当分解消しそうにない模様でありますか。
 そんな出雲さんとの話しの途中で袁満さんが倉庫に顔を見せるのでありました。
「出雲君、日比さんが営業から帰って来たから、上の事務所に上がれってよ。土師尾営業部長と日比さんと三人で、新しい仕事に関してこれから打ち合わせだそうだ」
 袁満さんにそう声を掛けられた出雲さんはまた溜息を吐くのでありました。察するところ打ち合わせと云われても、何を打ち合わせすれば良いのかさっぱり判らないと云ったところでありましょうか。それに日比課長と二人での打ち合わせならまだしも、そこに土師尾営業部長が加わるとなると余計げんなりと云った心持ちなのでありましょう。
 出雲さんが陰鬱気な表情で事務所の方に向かっても、袁満さんの方は倉庫に残るのでありました。こちらも出張営業の遣り方が変更になるから屹度忙しい筈でありますが。
「袁満さんは上に戻らなくて良いんですか?」
 頑治さんは先程の出雲さんと同じように作業台の傍らで、別に何するともなく佇んでいる袁満さんに声を掛けるのであました。
「ちょっと息抜きだよ」
 袁満さんも出雲さんと同じ科白を吐くのでありました。「今日は珍しく土師尾営業部長が外に出ないで事務所の中に居座っているから、上は空気が悪く息も出来ない」
 まるで光化学スモッグみたいな扱いであります。
「仕事内容が代わったら、袁満さんは出張日数が減るんですか?」
 頑治さんは梱包作業を続けながら愛想にそんな事を訊くのでありました。
「どうかな。ま、電話中心の注文取りと云う事になるけど、ひょっとしたら出雲君が回っていた地域にも出張回りする場合もあるかも知れないから、下手をすると出張が増えるかも知れない。未だ今のところはどうなるか良く判らないけど」
「これ以上出張が増えると、殆ど一年中会社に出てこられないんじゃないですか?」
「そうね、代休も取れなくなるかもね」
 袁満さんはここで溜息を吐くのでありました。どうやら営業部はここのところ溜息の大棚浚えと云った按配のようであります。
「でも出張経費の抑制と云う点で、日数は減る方向なんじゃないですか?」
「そうね。土師尾営業部長は口を開けばそればっかり云っているよ。経費削減を第一番目に考えろとか、無駄な出張はこれから先は許さないとか何か厳めしい顔して凄んでいる。今迄だってこっちは別に無駄に出張していた訳じゃないんだけどね」
 恐らく土師尾営業部長の事だから、まるで袁満さんや出雲さんが経費の事なんか考えないで、のんびり旅行気分で気楽に出張を楽しんでいたのであろうと、手前勝手な誤解をでもしているのでありましょう。出雲さんの出張前の気鬱を慮れば、年間百日を軽く超える出張スケジュールが気楽な訳がない事は充分に判りそうな筈であるのに。
 袁満さんとて、これ迄も出来れば出張日数を減らしたかったでありましょう。そう云えば前に冗談紛れではあるけれど、自分が結婚出来ないのは出張仕事が影響していると、まあ、実際はそれだけではないにしろ、袁満さんは零していた事がありましたか。
(続)
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