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あなたのとりこ 201 [あなたのとりこ 7 創作]

「いや、二社共私が専門に担当していると云う訳じゃない。部長だって関与している会社じゃないですか。どう云う用事か知らないけど顔出しも偶にしているようだし」
 日比課長は抗弁するのでありましたが、何となく責任逃れの言葉のように聞こえるのでありました。日比課長としては受注が来なかったのは自分だけのせいだと暗に責められているように受け取って、それは大いに不本意だと表明したかったのでありましょう。
「でもその二社から受注があった時は日比君の実績として何時も評価している」
 そう云われて日比課長はそれ以上の反論は控えるようでありました。まあ、本当に日比課長の実績として土師尾営業部長が認識しているかどうかは別にしても。
「確かにウチの業績は特注任せのところがありますからねえ」
 袁満さんが土師尾営業部長と日比課長の遣り取りをそれ以上険悪にさせないためか、そう云ってから土師尾営業部長に話の先を促すような目を向けるのでありました。
「袁満君がそんな風に云うとはがっかりだね。そんな人任せみたいな無責任な事を云う前に、落ち込み続けている出張営業をどう立て直すか考える方が先じゃないのか」
 土師尾営業部長は袁満さんの、場を穏やかに保とうとする意を台無しにするような事を口にするのでありました。袁満さんは憮然として土師尾営業部長の口元を一瞬睨むのでありましたが、特に日比課長のように抗弁はせずに、慎に控え目で及び腰の舌打ちをしてからそっぽを向くのでありました。返す言葉を失った、と云った仕草でありましょう。
「まあ良いけど」
 土師尾営業部長は不愉快そうに呟いてから、ここで仕切り直しをする心算か咳払いをして徐に眉間に皺を寄せて手に持つ紙に目を落とすのでありました。

 土師尾営業部長は顔を起こしてから続けるのでありました。
「その二社に引き摺られた訳じゃないだろうけど、特注営業全般で売り上げが昨年より落ちているし、今現在、大口の受注が殆ど無い状態です」
「長い目で見れば、そう云う時期もあるんじゃないですかね」
 ここで山尾主任が口を開くのでありました。
「そんな事を云って楽観している余裕は無いよ。不謹慎な発言は慎んでくれるか」
 土師尾営業部長は鮸膠も無く即答するのでありました。「制作部はある意味で売り上げの実情に無関心だから、そう云う危機意識の無い事を平気で云えるんだろうけど」
 ここで今まで全く口を開く事の無かった片久那制作部長が如何にも聞こえよがしに鼻を鳴らすのでありました。これは土師尾営業部長への一種の牽制でありましょう。つまり業績の実状だけではなく会社そのものの実状を一番知っているのは、お前さんじゃなくてこの自分だろうが、と云う謂いを籠めた一挙放出的な鼻息音でありますか。
 土師尾営業部長はビクッとして、横の片久那制作部長をたじろいだ目で見るのでありました。片久那制作部長の方は顔を動かさないで、不機嫌そうに前上方一点に視線を向けているだけでありました。貫録の差がここで歴然と現れたと云った按配でありますか。
「勿論、片久那制作部長も業績について良く承知しているけど」
(続)
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あなたのとりこ 202 [あなたのとりこ 7 創作]

 土師尾営業部長は慌ててそんなフォローを口に上せるのでありました。
「しかし俄かにオロオロし出しても始まらないじゃないですか」
 山尾主任は土師尾営業部長の片久那制作部長に対する見苦しい程の小心さか、或いはそれ以前に、事をやけに大袈裟に深刻化して、それに依って人を圧倒し委縮させようとする遣り口に反発したのか、呆れたような表情でぞんざいに吐き捨てるのでありました。
「オロオロなんかしていないよ」
 頑治さんが思った通り、土師尾営業部長はすぐに相を険しくして感情的に反応するのでありました。この人を興奮状態にさせるのはいとも簡単なようであります。
「ああそうですか」
 何時もながらに手に負えない、或いはこの儘相手をするのは如何にも億劫だと思ったようで、山尾主任はそう皮肉っぽく云ってその後口を閉ざすのでありました。
「皆、危機意識が薄いんじゃないの」
 山尾主任が舞台袖にすごすごと引っ込んだためか土師尾営業部長は、今度は社員全員に憤怒の唾をぶちまけるのでありました。「会社が今まで経験した事の無いような危機にあると云うのに、全員が全員、どうしてそんなに呑気な事を云っていられるんだろう。到底理解に苦しむよ。そんな事だからマトモな仕事も出来ないんだ」
 全員に話す時でも、丁寧な言葉遣いはもうすっかり止したようであります。「頼んでもきちんと用を果たせない。云われた事を上の空で聞いているから同じ失敗を繰り返す。それでいて反省も無いから同じ不手際をしても少しも懲りない。決まった給料さえ貰えれば会社が今どんな状況に在るかにも無関心だし、会社に貢献しようと云う気も無い。手を抜く事ばかり考えている。お客さんや、目上や役職の上の人に対してちゃんとした言葉遣いも出来ない。全員がそんな調子なら、危機を乗り切る事なんか絶対出来る訳が無いよ」
 これはもう単に、日頃の鬱憤、或いは自分を軽んじているらしき他の社員への恨みつらみを、手当たり次第に投げ散らかしていると云ったところでありましょうか。頑治さんは駄々を捏ねて、掴んだ玩具を無闇に投げ捨てて八つ当たりしている子供を見ているような気がするのでありました。こうなると落ち着くまで相手にしないのが得策であります。
「そんな事はどうでも良いよ、今は」
 ここで片久那制作部長が我慢し切れなくなったのか、荒げた言葉で土師尾営業部長の嘴をグイと掴んでそれ以上開かせないようにするのでありました。土師尾営業部長は嘴を掴まれた儘、気後れした瞳を微動させながら片久那制作部長の顔を見るのでありました。
 一瞬で場が緊張するのでありました。土師尾営業部長の万言よりかは、片久那制作部長の一言の方が遥かに一種の破壊力があると云う事でありますか。
「さっさと本題に入ったらどうだろうな」
 片久那制作部長は土師尾営業部長に穏やかに云うのでありました。これは判らんちんの子供を諭すような云い草に似ているのでありました。
「ええと、本題、と云うと、・・・」
 土師営業部長はオドオドと縋るような目を片久那制作部長に向けるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 203 [あなたのとりこ 7 創作]

「人事の事以外にあるかな」
 片久那制作部長は土師尾営業部長の顔にそこで視線を向けるのでありましたが、その眼相に恐れをなしたかのように土師尾営業部長は慌てて視線を逸らして、俯いて手に持つ紙を見るのでありました。手が心なしか震えているように見えるのでありました。
「では先ず、制作部の山尾君ですが、・・・」
 土師尾営業部長はまた丁寧口調に戻って先を続けるのでありました。「特注営業の梃入れと云う事で、好都合にも制作の過程や原価とかを把握していると云う今迄の経験を生かして、二月からは営業部の方に移って貰いたいと思っています」
 そう云われた当の山尾主任はどこか他人事のような無表情でありました。云われた事がどう云う事なのか即座に呑み込めないと云った様子であります。寧ろ離れた処に座って居た那間裕子女史の方が困惑したように小さな唸り声を発するのでありました。その唸り声のために俄かに我に返ったのか、山尾主任の顔にようやく表情が戻るのでありました。
「営業部に移るのですか?」
 山尾主任は先ず土師尾営業部長を、それから片久那制作部長を見るのでありました。
「そう。山尾君なら先方との話しの中で、すぐに見積額とか納期の話しが出来るだろうから話しがスムーズになる。これからは営業の即戦力として意欲的に活躍して欲しい」
 土師尾営業部長が仕儀の説明をするのでありました。山尾主任は土師尾営業部長に説明されている間も、片久那制作部長の顔の方に視線を向けているのでありました。
「その話しは制作部長も納得されているんでしょうか?」
 山尾主任は土師尾営業部長にではなく、片久那制作部の方に目を据えた儘で訊くのでありました。興奮と動揺のためか、声が心なしか尖っているのでありました。この提案は山尾主任にとって全く寝耳に水と云うところでありましょう。
「当然、納得しているよ」
 片久那制作部長は陰鬱気に眉根を寄せて、眼鏡の奥の目を山尾主任から逸らすのでありました。山尾主任の配置異動に関して何となく心苦しさがあるようであります。
「詳しい説明が欲しいですね」
 山尾主任は片久那制作部長のつれない対応に不信と憤懣を覚えたようでありました。
「経緯とかは後で、差しで話すよ」
 片久那制作部長は瞑目するのでありました。この場ではそれ以上喋らない心算のようであります。頑として口を噤むといった了見か、取りつく島も無いような顔であります。
「勿論、嫌ならそう云ってくれればこちらも再考する用意はある。但しここですぐにではなく、一度じっくり考えてからにして貰いたいけどね」
 土師尾営業部長が横から言葉を挟むのでありましたが、山尾主任はそちらには一顧も呉れず、自分と目を合わせない片久那制作部長の方に目を釘付けているのでありました。
 暫くしめやかな緊張の時間が場に重く沈殿するのでありました。
「それから出雲君だけど、・・・」
 土師尾営業部長がどこか無神経そうに泥んだ重い空気を掻き乱すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 204 [あなたのとりこ 7 創作]

 次に名前を呼ばれた出雲さんは、ビクッと体を小さく震わせてから顔を起こすのでありました。これ迄の話しの流れからすると、今度は自分に対して好都合でない理不尽な提案がなされるものと身構えたのでありましょう。
「出雲君も今迄の出張営業から特注営業の方に回って貰います」
 土師尾営業部長は出雲さんの動揺に頓着せずに続けるのでありました。「と云っても都内や近郊の特注営業ではなく、地方の特注営業と云う事になります」
「地方の特注営業、ですか?」
 出雲さんは云われている事柄が良く呑み込めないと云った顔をするのでありました。
「そう。今までの特注営業は都内とか精々埼玉や神奈川辺りの会社に限られていたけど、これからはもう少し地方の街に在る会社にも営業の範囲を広げて行こうと云う計画なんだよ。先ずは千葉や水戸や高崎、それに宇都宮辺りの日帰り出来るエリアからね」
「そう云うのは都内にある広告代理店なんかに任せていた筈ですけど?」
 日比課長が首を傾げるのでありました。
「それでは貴方任せでしかないから、ウチで直接営業しようと云う事だよ」
「ウチで直接動くとなると、今迄取引きしていた代理店とかから文句が来ないかなあ」
 日比課長は首を傾げた儘で懸念を表するのでありました。
「でも代理店任せだとなかなか仕事が来ないのも事実だろう。代理店だってウチの商品だけ力を入れてセールスしてくれている訳じゃないんだから」
「日比さんはウチと代理店との間で培ってきた信義の点を心配しているのでしょう」
 袁満さんが日比課長の方に顔を向けて横から口を挟むのでありました。直接土師尾営業部長の方に云うのは畏れ多いと云うより、この人によくある傾向から判断して、すぐに自分に逆らったと思って感情的に反発される面倒が億劫なためか、袁満さんは日比課長に話し掛ける体裁で意見をものしたのでありまししょう。
「まあそう云う事だけど」
 日比課長が頷くのでありました。
「そんな事云ったって、代理店任せだと仕事が来ないのなら仕方ないじゃないか」
「でも、若しウチが直接営業を掛けていると知れたら、代理店だって得意先荒しをされているようで面白くないと思いますよ。そうなったら今後、その代理店からの仕事は無くなるかも知れない。そっちの方が寧ろ、損失が大きいんじゃないかなあ」
 日比課長はあくまで慎重論の内に立て籠もって異論を繰り返すのでありました。
「そんな消極的な思考しかしないから売り上げが落ちるんだよ。代理店に知れないように上手に営業すればいいんで、それは営業手腕と云うか手際次第だろう」
 土師尾営業部長は目を吊り上げて、早速苛立たしそうな感情的な口調になるのでありました。日比課長は何時もの事だからげんなりした表情で瞑目するのでありました。
「営業先とウチとの関係が、そこと今まで付き合ってきた代理店との関係より密になれば、それはバレないかも知れないけど、そこ迄密になるには時間が掛かるんじゃないかな。その前に注進されて、結局ウチと代理店との信頼関係が壊れるような気がするなあ」
(続)
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あなたのとりこ 205 [あなたのとりこ 7 創作]

「そう云う風にしか考えないから袁満君はダメなんだよ」
 口を閉ざした日比課長の代わりにと云う訳ではないでありましょうが、及び腰ながら反論を試みた袁満さんに土師尾営業部長は頭ごなしの否定を投げ付けるのでありました。
「でもウチみたいな人数の少ない小さな会社は、他社との関係こそ何より大事だと考えるなら、思い付いた事を後先考えないで勝手都合で何でもして良いという事にはならないでしょう。ひょっとしたらそれは命取りにもなりかねないんじゃないですかね」
 袁満さんはめげずに、至極まともらしい懸念を表するのでありました。
「何でもして良いなんて誰も云っていないじゃないか」
 土師尾営業部長は顔を紅潮させて目尻を吊り上げるのでありました。「営業の手際次第でその辺はどうにでもカバー出来る問題だろう」
「第一、今迄特注営業の経験が何も無い出雲君が、その辺の機微をいきなり上手に処理出来る筈はないし、営業経験が豊富な部長にしたって、おいそれとどうにでも出来るとは思えないわね。怒るだけで説得力のある根拠も方法も示さないのはダメよ」
 営業部の袁満さんは云い難いと思ってか、ここで那間裕子女史が揶揄雑じりの言を吐くのでありました。何時もなら山尾主任がそう云う役割を担うのでありましょうが、先に制作部から営業部への鞍替えを云い渡された事で心の内で動揺があるらしく、この場に於いては何も言葉を発しないのでありました。かなりショックであったようであります。
「じゃあ、那間君ならやれるとでも云うのか」
 土師尾営業部長のこの買い言葉は支離滅裂とも云えるでありましょう。頑治さんは余りのピント外れに思わず吹き出しそうになるのを必死に堪えるのでありました。
「それこそ、誰もそんな事は云っていないでしょう」
 那間裕子女史はげんなり口調で呆れて見せるのでありました。「何でそんな風に、人の意見を僻耳でしか聞く事が出来ないのかしらねえ」
「僻耳でなんか聞いていないよ」
 土師尾営業部長は熱り立つ、或いは熱り立つ真似をするのでありました。
「もう、話しになりそうにないわね」
 那間裕子女史はクールな云い様をするのでありましたが、心根の内の軽蔑と憤怒をつまりそう云う云い様で表現しているようでありますか。
「那間君も、そのくらいにしとけよ」
 片久那制作部長が怒ったように声を上げるのでありました。一瞬で場の空気が凍り付くのでありました。さすがの迫力であります。更に、那間君も、と云うこの、も、を云う事で暗に土師尾営業部長に苦言を呈したのであろうと頑治さんは思うのでありました。
 土師尾営業部長も那間裕子女史も、それにこの場に居る全員が緊張の面持ちで次の片久那制作部長の次の言葉を待つのでありました。
「集まったのは人事の件だとさっきから云っているんだから、あれこれ余計な話しはもう沢山だ。それに営業の細かな話しは営業部の会議でやってくるかな」
 片久那制作部長は横に座っている土師尾営業部長の方に顔を向けるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 206 [あなたのとりこ 7 創作]

 土師尾営業部長も一瞬顔を向けるのでありましたが、怖じたようにすぐに目を逸らして手元の紙に視線を落とすのでありました。それから声のトーンを今迄とは違ってやけに落として、本題を続けようとするのでありました。
「ええと、それから日比君だけど、・・・」
 ここで名前が出た日比課長が少し背筋を伸ばすのは、お次は自分がとんでも無い配置転換を云い渡されるのかと体を強張らせたからでありましょう。

 土師尾営業部長は紙に目を落とした儘で続けるのでありました。
「山尾君が特注営業に回るんだから、年度末までに今迄日比君が担当していた会社を山尾君に順次引き継いでいって貰いたいんだ。その後新年度からは、今迄の特注営業の経験を生かして、出雲君の地方特注営業の仕事を監督指導していって貰う事になる。出雲君と協力して新しい仕事に邁進して貰いたい。会社としては大いに期待しているから」
 この土師尾営業部長の言を聞いて出雲さんが不意に小さく頷くのは、特注営業に関しては経験も無く、何も知らない自分が一人で暗中模索しなければならないのかと大いにたじろいでいたので、日比課長と一緒だと聞いてほんの少し安心したのでありましょう。
「出雲君と一緒に地方の特注営業ですか。・・・」
 日比課長が一つ唸った後に顎を撫でながら呟くのでありました。
「そう。これは会社の営業活動の新しい柱として大きく成長させたいんだ」
 土師尾営業部長は鼓舞するような口調で日比さんに頷いて見せるのでありました。しかしどことなく、そう云う割には妙に芝居っぽい風情がその物腰にあると頑治さんは感じるのでありました。本当は然程の期待は抱いていないくせに日比課長と出雲さんをこの場だけ納得させるために、あれこれ言を弄しているのではないかと思ったのであります。
「今迄の特注営業から外れろと云うわけですか」
 日比課長は不満且つ億劫そうな気配を見せるのでありました。それはそうでありましょう。これ迄日比さんが長い時間を費やして自分なりに培ってきた取引先との関係を無にして、あっさり山尾主任に譲れと云われているのでありますから。
「新しい地方の特注営業先を開拓して貰いたいと云っているんだよ」
「未だちゃんとした形も方法も無い、それどころか、そう云う市場があるかどうかも知れない仕事のために、これ迄遣ってきた仕事を離れろと云うのですね」
「何度も何度も、そんな消極的な云い方は止してくれるか」
「いや、消極的と云うのか、突然そう云い渡されても、ねえ。・・・」
 日比課長は苦った顔で土師尾営業部長を見るのでありました。頑治さんはふと、戦国時代の織田信長の家臣だった明智光秀の事を思い浮かべるのでありました。確か石見と出雲を攻めるに際して、そこは未だ毛利領であるけれど攻め取り次第だと、未だ取ってもいない領地を担保に現有の丹波と南近江の領地を召し上げられたのでありましたか。
 何となく土師尾営業部長はそんな条件を日比課長に示しているような按配ではないでありましょうか。まあ、土師尾営業部長が信長程の器量があるかどうかは全く別として。
(続)
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あなたのとりこ 207 [あなたのとりこ 7 創作]

「どうして日比君は何時もそうなの。新しい仕事にもっと意欲的な態度を示しても良いじゃないか。そんな事だから今迄も新規開拓がちっとも出来なかったんだ」
 土師尾営業部長の云い草は、この事だけに限らず、日比課長に対する日頃の苛々が混じっているように聞こえるのでありました。これはなかなか険悪な雰囲気であります。
「やれと云われれば、そりゃあ、やりますけどね」
 日比課長は話しても無駄だと思ったのか、ふてたような投げ遣りな云い方をするのでありました。ただ、日比課長は本気で鞍替えを受け入れる心算でありましょうか。そう云えば最終的には智光秀は謀反に及んだなあと頑治さんは思うのでありました。
「そう云う云い方をされるのは不愉快だな」
 進取の気象も果断な行動力も、思い切りの良さも新しもの好みも、厳切な権威もカリスマ性も信長には遠く及ばない、グッと俗っぽいながら頑迷と虚勢と強欲と執念深さ辺りに限定すれば、多少は似ていなくもない土師尾営業部長が日比課長の言辞にいちゃもんをつけるのでありました。日比課長は如何にも、面倒になっただけで畏れ入った訳ではないと云う辺りを表するべき苦笑いを浮かべて、それ以上言を重ねないのでありました。
「さっきから再三云っているけど、本題以外の余計な話しは後にして、さっさと人事の話しを終えてくれないかな。こっちは未だ仕事が残っているんだから」
 片久那制作部長が少し語気を強めて、日比課長を睨みながら云うのでありました。しかし視線は日比課長に向いてはいるけれど、日比課長一人だけにそう苦言を呈しているのではなく、寧ろ横に座っている土師尾営業部長をより強く意識して発せられた言葉であろうところが充分知れるのは、何も頑治さん一人に限った事ではないでありましょう。
 勿論、土師尾営業部長もそれが判るようで、反射的にほんの少しながら片久那制作部長から身を遠ざけるような仕草をするのでありました。片久那制作部長が僅かばかり表しただけの剣幕にすっかり怯えたようであります。こういう辺りに、性根の全く座っていない臆病な本性が見事に表れて仕舞ったと云うところでありますか。
「若し文句があるのなら、後で営業会議を開くからその場でじっくり日比君の云い分を聞くよ。その代りこっちも遠慮無く云いたい事を云わして貰うからな」
 自分と片久那制作部長の格の差が思わず露呈して仕舞ったのを繕うためか、土師尾営業部長はそんな脅し台詞を吐いて天敵を見るような目で日比課長を睨むのでありました。こんな直情的で子供じみた意趣返しをすぐして仕舞う辺りが、益々この人の株を下げているのになあと頑治さんは軽蔑六分に遣る瀬無さ三分、同情一部で思うのでありました。
「ええと、それから、・・・」
 土師尾営業部長が暫く紙に目を落としてから少し気を取り直したようにそう云いかけたところで、無愛想面で意気消沈の沈黙を保っていた山尾主任の横に、今迄気後れして居心地悪気にソファーに小さくなっていた袁満さんが徐に口を開くのでありました。
「出雲君が抜けるのなら、これ迄出雲君が担当していた地方の出張営業は一体どうする心算なんですかね。俺一人じゃあとても手が回りませんよ」
「だからそれを、これから説明しようとしていたんだよ」
(続)
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あなたのとりこ 208 [あなたのとりこ 7 創作]

 土師尾営業部長が今度は袁満さんの方に険しい視線を向けるのでありました。
「ああそうですか」
 袁満さんは少しふてた語調でそう云ってその後は口を噤むのでありました。
「確かに袁満君一人で全国を出張でカバーするのは難しい事になる。だから勿論、一部の地域は暫くの間は出張を継続して貰う事になるだろうけど、後は漸次電話を駆使するとかあれこれ、他の適切な遣り方を袁満君自身で考えて貰いたいと思っている」
「後の事は俺にすっかり丸投げですか」
 日頃からあんまり怒った顔は見た事が無い袁満さんが、やや興奮した口調でそう云い捨てて目を吊り上げるのでありました。出張営業の大変さを、実は全く理解していないと思しき土師尾営業部長にはここで改めてげんなりしたと云ったところでありましょう。
「そう云う云い方は止めてくれるか。日頃から感じていたけど、袁満君は何も自分では考えないで、従来通りの営業のやり方に安穏と乗っかっているだけだったけど、それじゃあ売り上げがじり貧になるのは当たり前だ。ここはそう云う態度を改めて、今迄の効率の悪い出張営業の在り方を見直す良いチャンスだと捉えるべきじゃないか」
 これは趣旨として、前に酒の席か何かで那間裕子女史からも聞いた話しだと頑治さんは思うのでありました。しかし土師尾営業部長の云い口には一種の無責任さが感じられるのでありました。それは出張営業をさして大切にも思っていないような気色と云うのか、幾つかある贈答社の営業手段の数にも入れていないような軽々しさと云うのか。まあ、那間裕子女史もそんなに責任ある切実な気配で云ってはいなかったのでありましたけれど。
 袁満さんが今恐らく秘かに危惧しているように、土師尾営業部長は袁満さんにすっかり丸投げして、結果が出せないなら出張営業と云う営業形態を容赦無く切り捨てる心算でいるのかも知れません。若しそうなら、袁満さんにとっては忌々しき問題であります。
 無愛想に黙り込んでいた日比課長がここで声を上げるのでありました。
「部長の今云っている事は、あれもこれも無茶ですよ」
「何が無茶なんだ」
 土師尾営業部長は日比課長を睨んでムキになるのでありました。
「だって、今の話しを聞いているとまるで出張営業を切り捨てようとしているように聞こえるじゃないですか。それじゃあ袁満君も立つ瀬が無いと云うものですよ」
 日比課長も頑治さんと同じような危惧を土師尾営業緒部長の話し振りから感じたようでありました。恐らく袁満さんも他の社員も、この辺は同じでありましょうか。
「じゃあ聞くけど、この儘何も手段を講じないでいたら、日比君はウチの会社はどうなると思うんだ。この儘推移すれば、業績回復が見込めないから、厳しい事を云うようだけど今年一杯持つかどうか判らないからね。それでも構わないと日比君は云うのか」
「そんなに喧嘩腰にならなくでも良いですよ」
 日比課長は皮肉っぽく笑って、対抗上至極穏やかに返すのでありました。それがまた土師尾営業緒部長の怒りを増幅させるのでありました。
「誰も喧嘩腰になんかなっていないよ!」
(続)
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あなたのとりこ 209 [あなたのとりこ 7 創作]

 土師尾営業部長は声を一オクターブ程上げて荒げて見せるのでありました。紛う事無く見事に喧嘩腰になっていると頑治さんは秘かに笑うのでありました。

 片久那制作部長が背凭れから上体を起こして横の土師尾営業部長の方に視線を向けるのでありました。片久那制作部長の挙動の一々を終始過剰に気にしていたのであろう土師尾営業部長は、その自分に向けられた視線に思わずおどおどと狼狽えるのでありました。
「もういい加減にしてくれないかな」
 大人しい云い様ではあるけれど、ドスの利いた不愉快そうなその声に土師尾営業部長の体が瞬時に固まるのでありました。ここでも格の違いが如実に表れた格好であります。
 ここに於いてはっきり自分に向けられた片久那制作部長の怒気に、土師尾営業部長は眼鏡の奥の眼球をせわしなく搖動させながらたじろぐのでありました。
「営業の話しは営業会議でとさっきから云っているじゃないか」
「ああ、そうだったね。・・・」
 土師尾営業部長はしどろもどろに云って、反射的に出て仕舞ったのか、お追従笑いのような笑みを片久那制作部長に向けるのでありました。
「この先の人事と云うか仕事の担当は、先ず日比さんは新しく特注営業に回る事になった山尾君に漸次仕事を引き継いで、その後は新しい地方特注営業を受け持つ事になった出雲君と一緒にそちらを専任で受け持つ。それから袁満君は出張営業の遣り方を根本から見直して二月迄には一定の見通しを立てる。勿論日比さんと出雲君はもっと長いスパンで考えて構わない。そう云う方向でこれから頻繁に営業会議を開いて検討してくれと云う事だ。日比さんと山尾君、それに出雲君は新しい分野の仕事に携わる事になるし、袁満君は今の自分の仕事の遣り方を見直せ、と云うのが今日集まって貰って伝えようとした趣旨だ」
 片久那制作部長が纏めるのでありました。確かに余計な事を喋らずこれだけ淡々と述べれば、無意味な紛糾は生じなかったかもしれません、いやまあ、話しの内容が内容だけに、単なる伝達事項として終わる事は無かったかも知れませんけれど。
 それでも、日頃からちっとも心服されていない体裁上のボスである土師尾営業部長の口から乱暴に伝えられるよりは、誰からも畏れられている実質的ボスたる片久那制作部長の威を以ってクールに伝えられた方が、社員の方も途中で話しの腰を折るとか、すぐに反論を口にする事も恐らく出来ずに、もう少しくらいはこの会合は早く終了していた事でありましょうか。まあ、矢張り話しが話しだけに、それは俄には判りませんけれど。
「それじゃあ一つお伺いしたいのですが」
 今迄悄気ていた山尾主任が声を上げるのでありました。「自分達の配置転換とかの提案は判りましたけど、それならば営業部長の仕事振りはこれ迄同様で何の変更も無いのですか? それに不謹慎かも知れませんが業績不振を招いた、敢えて云えば制作部長も含めた両部長の会社運営上の責任と云う問題は、ここでははっきりされないのですか?」
 この言を聞いてすぐにまた土師尾営業部長が迂闊に熱り立って反射的に何か口走ろうとするのでありましたが、片久那制作部長がやおらそれを手で制するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 210 [あなたのとりこ 7 創作]

「勿論それは当然の言葉だ」
 片久那制作部長は山尾主任に向けていた視線を下に落とすのでありました。「営業部長の仕事振りに関しても色々改善すべきところはあるし、この自分の仕事に関しても反省点はある。しかし今日は再三云っているように人事の件が主題だ。その話しをし出すととても時間が足りなくなるから、今日のところは勘弁してくれるか」
 自分の仕事振りに改善すべきところがあると云われた時に、土師尾営業部長が眉間に皺を寄せて横の片久那制作部長の方を窺いながら小さな身じろぎをするのは、その言に異議がある故の反発からなのか、或いはそう云われて確かに身に覚えがあると緊張した故なのかはよく判らないのでありました。人柄から察すると、前者でありましょうけれど。
 しかし片久那制作部長の威厳に気圧されて反論も吐けないようでありました。ここで異を唱え出すと片久那制作部長が血相を変えて、自分に対して怒声を浴びせて来るかも知れないのを小心に恐怖したのでありましょう。土師尾営業部長は何か云いた気に唇をモゴモゴと動かすのでありましたが、まあそれが精々の反発の仕草でありましょうか。
「お二人に関しての、今提示された我々の人事や配置の変更を、我々が受け入れるに足るような、と云うのか、ちゃんと納得が出来るような仕事の遣り方や管理の在り方の具体的な改善策を、今日とは云わないけれど、また別の機会に示してくれるのですね?」
 山尾主任も片久那制作部長の威に気押されている気配はあるものの、しかし片久那制作部長の事物に対する公平感覚や信頼感を頼りに、ここは引かないのでありました。
「勿論そうする心算だ。山尾君達だけに責を押し付けるような真似はしないよ」
 片久那制作部長はこれ以上無いと云った真面目な顔付きをして、山尾主任の目を凝視しながら一つ頷くのでありました。自分に対する山尾主任、或いは他の全社員の畏れとか心服とか依頼心とかの心情を充分弁別していて、それをここで最大活用しているような、一種芝居じみた顔付きのように頑治さんには見えるのでありました。まあ、だからと云ってそれを殊の外不愉快に感じたと云う訳ではないのでありますが、ただ、自分とは全く異なる人種であるのだろうなあと云う疎遠観みたいなものは強く感じるのでありました。
「判りました。その改善策が早く出て来る事を望みます」
 山尾主任はどうせこれ以上、片久那制作部長には逆らえないと観念したように意外にあっさりと云うのでありました。「しかし僕が、或いは僕等が、この場で今示された人事や配置転換をおいそれと受け入れると云う訳ではありませんよ。考えさせては貰うけど」
「あれこれ考える迄も無く、受け入れなければ君等に将来は無いよ」
 すっかり場のヘゲモニーを片久那制作部長に奪われて、隅に置かれたような格好で居た土師尾営業部長がここで俄かに、無神経な自己の存在主張をし出すのでありました。
「将来は無い、とはどう云う事ですか」
 山尾主任がすぐに目を怒らせて突か掛かるのでありました。「要するに、若し受け入れないのならば、会社を辞めろと云っているんですか」
「そう云う事だって、まあ、あるかも知れない」
 ここで片久那制作部長の遠慮の無いやけに大きな舌打ち音が響くのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 211 [あなたのとりこ 8 創作]

 すぐさま反発の言葉を発しようとしていた山尾主任が、思わずその言葉を飲み込むのでありました。山尾主任だけではなく土師尾営業部長も驚いて身震いするのでありました。他の全員も急に呼吸を忘れるのでありました。
「さっきから好い加減止めろと云っているだろうが」
 片久那制作部長はドスの利いた声で、これははっきりと土師尾営業部長に向かってぞんざいな口調で云うのでありました。土師尾営業部長はオドオドと畏まるのでありました。片久那制作部長の舌打ちが自分達ではなく土師尾営業部長に向けられたものである事がはっきり知れて、ここでようやく他の全員は少し息を吐く事が出来るのでありました。
「この後の話しは、営業部は営業部、制作部は制作部でじっくり詰めると云う事で、時間も大分経ったから今日はこれで散会と云う事にしたいけど」
 片久那制作部長がそう宣するなら勿論誰も異論は吐かないのでありました。

 立ち上がって制作部の自席に戻ろうとする少し憔悴した様子の山尾主任に向かって、片久那制作部長が声を掛けるのでありました。
「山尾君、この後何か予定があるか?」
「いや、別にありませんけど」
「じゃあ、ちょっと話をしたいから、良いかな?」
「ええ、判りました」
 屹度山尾主任が先程提示された配置転換を受け入れやすいように説得、或いはあれこれ説明をしようと云うのでありましょう。
「それから、那間君と均目君、それに唐目君もほんの少し少し良いかな?」
 制作部の三人が呼ばれるのは判るけど、そこにどうして業務の頑治さんが入ったのかはよく判らないのでありました。今度の配置換えには頑治さんは特に無関係のようにも思えるし、直属の上司は片久那制作部長ではなく土師尾営業部でもある事だし。
 那間裕子女史も均目さんも断らないのでありました。頑治さんもその日は特に夕美さんと逢う約束もしていなかったから、云われる儘に制作部の方に向かうのでありました。
 制作部スペースへ向かう後ろの気配でしか判らないのでありましたが、土師尾営業部長もこの後に営業会議を提案したようでありましたが、それは営業部の三人にあっさり断られた様子でありました。それはそうでありましょう。これから土師尾営業部長と喧嘩腰であれこれ遣り取りするのは、営業部の三人にはもうげんなりでありましょうから。それから甲斐計子女史も、大凡自分は関係無いからと早々に退社するのでありました。
「山尾君が抜ける事になったら、仕事の割り振りを再編しなくてはならなくなる」
 片久那制作部長が自席に着いてから、前のライトテーブルを囲むように立った三人に云うのでありました。「既存の地図や出版物、それに他の製造物の修正作業や管理は、山尾君が担当していた分は那間君が引き継ぐ事として、制作仕事の発注先や発注タイミングとかの管理は当面、主に均目君にやって貰う事になる。良いかな?」
 何となくぶっきら棒な云い方であるのは、この人の何時もの物腰でありますか。
(続)
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あなたのとりこ 212 [あなたのとりこ 8 創作]

「何となく、もう山尾さんが営業に移る事が決定した云い方ですよね、それって」
 那間裕子女史が抑々のところに拘るのでありました。
「まあ聞け」
 片久那制作部長は那間裕子女史の言葉を掌で制するのでありました。「地図なんかの修正作業は地域が新しくなるだけで要領は何時もやっているのと変わらないが、材料類の管理とか発注に関しては少し面倒臭い。商品在庫が多いと資産になって課税対象になるからなるべく在庫としては置いておきたくない。倉庫のスペースも限られている。それとの兼ね合いで発注を掛けたりするから些か面倒なんだ。均目君はその辺を早く熟せるようになってくれ。まあ今後、適時教えていくからそんなに心配しなくても良いけどな」
 均目さんは面倒臭い仕事を割り振られるようでありますが、まあ、均目さんの事でありますから慣れるのもそんなに時間はかからないでありましょう。その連携で倉庫を管理する自分もこの場に呼ばれたのだろうと頑治さんは思うのでありましたが、その割にその点の具体的な話しは片久那制作部長の口からはここでは特段出ないのでありました。
「それから唐目君だが」
 片久那制作部長は頑治さんの顔に視線を向けるのでありました。「営業部の仕事の改変で袁満君や出雲君の動きがどうなるかは未だ不確定だけど、恐らく会社に居る時間はこれ迄よりは増えるだろう。その場合営業関連の出庫や入庫、それに発送業務は二人に任せる事にして、その分制作の仕事を今より多く手伝って貰う事になるだろう」
 交通案内図の駅間所要時間調べを手伝って以来、その仕事振りを片久那制作部長に認められたせいか、頑治さんは時折製作部の仕事を手伝う機会があるのでありました。と云っても地図の製図とかフイルム修正と云ったそれなりの経験が要る仕事はおいそれとは手伝う技術も無いので、調べものとか外部のデザイナーとかカートグラファー、それにイラストレーターなんかへの制作物の受け取りやら受け渡しやらと云った仕事であります。
 頑治さんは特に意識は無かったのでありますが、均目さんに依れば社内での細々した制作物修正作業なんかよりは、そちらの対人仕事の方が余程本来の制作部の編集仕事であろう云う事でありました。でありますからそう云う人に逢う場合は業務仕事の作業服と云う訳にもいかず、些か身綺麗な体裁をしていかなければならなかったし、逢う相手に依っては一張羅のスーツとネクタイを着用しなければならない場合もあるのでありました。
 頑治さんとしては物を相手の作業服での業務仕事の方が気楽で好きだったのでありますが、なかなかそうはいかない羽目になったのであります。まあ、片久那制作部長に見込まれて命じられる仕事なら何でもやらなければならないと観念するのでありましたが。
「判りました。何となく益々制作部専用の業務担当、と云う感じになるのですかねえ」
「ま、そう云ったところかな」
「そうなると、聞き様に依っては不謹慎な質問かも知れませんが、自分の仕事上の直属の上司は土師尾営業部長なのでしょうか、それとも片久那制作部長なのでしょうか?」
「まあ、本来の業務仕事も兼務するからから、名目は営業部長、実質は俺の配下かな」
「ああそうですか。何となく曖昧且つ小難しい身分となる訳ですね」
(続)
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あなたのとりこ 213 [あなたのとりこ 8 創作]

 頑治さんのその云い方が如何にも気楽そうな感じなので、片久那制作部長と那間裕子女史、それに均目さんは笑いを漏らすのでありましたが、山尾主任は陰気そうな表情を変えないのでありました。自分のこれから先の境遇の変更に対する不安で頭が一杯で、頑治さんの呑気な物腰になんかには気持ちが回らないのでありましょう。
「三人に云う事は、今日はそれくらいだ」
 片久那制作部長は今度は山尾主任に目を向けるのでありました。「それから山尾君とは少し二人で話したいから、ちょっと付き合ってくれるか?」
 片久那制作部長は右手で杯を持ってそれを呷るような仕草をするのでありました。山尾主任はその謂いをすぐに理解して一つ頷くのでありました。
 五人は揃って会社を出るのでありました。片久那制作部長は山尾主任と二人で、馴染みにしている神田の居酒屋に向かうために御茶ノ水駅方面へと歩き去るのでありました。頑治さんは二人と一緒に歩いて帰るのは何となく気詰まりであったから、少し間を測ってから那間裕子女史と均目さんにさようならと云うのでありました。
「帰ってから何か用でもあるの?」
 那間裕子女史が小首を傾げて頑治さんに訊くのでありました。
「いや、別に何もありませんけど」
「だったら三人で少し飲んでいかない?」
「ああ、それは構いませんけど」
 均目さんにお誘いの言葉をかけないのは、自分が飲むと云ったら、均目さんは必ず付き合うと決めてかかっているからだろうと頑治さんは推察するのでありました。
「じゃあ、新宿に行く、それともこの辺にする?」
「俺としては新宿に出るのは少しかったるいから、この辺でと云う事にしたいですね」
 その頑治さんの要望を入れて、三人は神保町交差点から春日通りを水道橋方面に少し歩いた辺りにある居酒屋へと向かうのでありました。

 何となくその日はビールよりも日本酒が飲みたいと三人意見が一致したので、猪口で乾杯した後那間裕子女史が話し始めるのでありました。
「今頃、片久那制作部長と山尾さんの二人もこうして飲みながら、山尾さんの処遇についてどうだこうだと話しをしているのでしょうね」
「向こうの居酒屋は神田駅から結構歩いた日本橋辺りにあるから、未だ屹度到着してもいないと思うけど、まあ、到着したらそんな話しが始まるだろうな」
 均目さんが少し時間に厳格な辺りを補足するのでありました。
「均目君はその居酒屋を知っているの?」
「いや、行った事はないけど、前に片久那制作部長から聞いた事はある」
「屹度二人で陰々滅々とした雰囲気で杯を傾けるんでしょうね」
「そうだろうなあ。同席するのは真っ平御免と云った風の飲み会だろうな」
 均目さんは顰め面をして猪口を傾けるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 214 [あなたのとりこ 8 創作]

「山尾さんは処遇変更を受け入れると思う?」
「片久那制作部長にこれから縷々説得されて、結局受け入れるんじゃないかな。それに結婚と云う大切な私事をすぐ目の前に控えているから、ここで色々微妙な立場に追い込まれたり、最悪の場合会社を辞めたりはしたくないだろうしなあ。まあ、実は既に、営業部への配置転換を受け入れる心算になって居酒屋に同行したのかも知れないし」
「何となく気の毒な気がするなあ」
 頑治さんは山尾主任に同情するのでありました。
「タイミングと云う点で最悪だよな」
 均目さんが頷くのでありました。
「山尾さんの結婚式は何時だっけ?」
 那間裕子女史が均目さんに首を傾げて見せるのでありました。
「ええと、確か一月二十日だったかな。前日の十九日に空路グアムに飛んで、二十三日迄新婚旅行旁滞在する、とか聞いたけど」
「ふうん。信州の軽井沢でもハワイでもなくて、グアムか」
 那間裕子女史はその辺の事情を何も知らないようでありました。山尾主任にそれを態々訊く機会も無かったし、訊く気も大して無かったのでありましょう。
「そうするとグアムに五日間程滞在、と云う事だ」
 頑治さんが指を折って日数を数えながら云うのでありました。
「そうなるかな。毎年の事だけど二月に入ったら、年度替わりまで仕事が急に忙しくなるから、一月の内にと云う当初の目論見だったんだろうけど、ここに来て営業部に移るとなると、結果として目算が外れたと云う事になるかなあ」
「毎年一月の後半から忙しくなるわよ」
「ま、それはそうだけど」
「この時期に一週間会社を休むと云うのも、ちょっと弁えが足りないんじゃないかしら」
 那間裕子女史は無愛想な顔で批判的な事を口走るのでありました。
「まあ、相手の人がこの時期しか都合が好くなかったのかも知れないし」
 均目さんが山尾主任を擁護するのでありました。
「良く片久那制作部長が許したわね」
「だって慶事だもの」
「幾ら慶事だろうと、四月以降にするとか時期を考えるべきだと思うわよ」
 那間裕子女史は山尾主任に対してあくまでつれないのでありました。
「山尾主任はそう云う考えだったとしても、向こうさんの事情もある事だし」
「この時期に山尾さんが一週間も休む事で、こっちに累が及ぶのは叶わないわ」
「仕事の分担があるから那間さんはそう心配する事も無いんじゃないの」
「ま、それはそうか。それに、こうなったら、山尾さんの仕事がこっちに回って来るのは、もう山尾さんのせいじゃなくなる訳だしね」
 那間裕子女史は不機嫌顔ながらも頷いて見せるのでありました。
(続)
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