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あなたのとりこ 191 [あなたのとりこ 7 創作]

「それで、お母さんの件もあるからここはちょっと帰るか、と云ったところかな」
「そうね、そんな感じ」
 夕美さんは箸を置いて手をテーブルの下に隠すのでありました。恐らく別にどうと云う心算ではない何の気無しの仕草でありましょうが、頑治さんの目には何やら改まった風に映ったものだから、ふと心の中で小さな不安が閃くのでありました。
 ひょっとしたらこれから先に起こる諸々の経緯から、最終的に夕美さんは東京を離れて故郷に帰る決心をするのではないかしらと頑治さんは考えるのでありました。大学院に残るでもなく、在京の企業に就職するでもなく、それは頑治さんにしたら最悪の先行きであります。まあ、あくまでも特段の根拠もない予感だけではありますが。
 しかしこれ迄に自分のそう云った予感が、見事に当たったのはどのくらいの確立だったでありましょうか。当然ながら厳密な統計を取った訳ではないから、不明、と云う愛想もクソも無い回答が正解でありますが、しかし一端そう云った予見を頭の中に描いた以上、頑治さんの心根は波静かではいられないのでありました。
 好ましい予感は大体に於いて外れて、好ましからざる予感は往々にして当たって仕舞うものであります。世俗的にそう云う風に云われがちだと云うのは判っているのでありますが、しかし頑治さんの主観の上では結構リアリティーがあるのも事実でありました。
「頑ちゃんどうかした?」
 頑治さんが目を上げると夕美さんが覗き込んでいる目と出会うのでありました。
「いや、別に」
 頑治さんは取り繕うように苦笑うのでありました。「正月に帰った時、若し諸般の事情が許せば、お母さんに俺がお大事にと云っていたと伝えてくれるかな」
 夕美さんは頑治さんと同じように苦笑を浮かべるのでありました。
「うーん、頑ちゃんとの事は、お母さんにもお父さんにも実は喋っていないから。・・・」
「ああ、そう云う事なら今の俺の伝言は取り消しと云う事で」
「でも有難う。お母さんの事心配してくれて」
「病院の精密検査で、別に何でもないと云う診断が下される事を祈っているよ」
 その頑治さんの言葉に夕美さんはもう一度、有難う、と云って、テーブルの上に手を出して箸を取り、暫く休めていたその動きを再開させるのでありました。
「明日もゆっくり出来るのかな?」
 頑治さんが訊くと夕美さんはコックリと頷くのでありました。
「そうね。論文の目途も立ったしね」
「じゃあ明日は、新宿に出て映画でも見て、それから新宿御苑辺りを散歩するか」
「良いわね。ゆったりとした休日って感じ」
「末広亭で落語を聴くと云う手もある」
「じゃあ、映画を観て、その後御苑散歩で、夜は落語、と云うのはどう?」
「そんな予定満載じゃあ、ゆったりとした休日にしては目まぐるしい」
「そうだけど、久しぶりだから頑ちゃんと二人で欲張りに色々したいのよ」
(続)
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