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あなたのとりこ 175 [あなたのとりこ 6 創作]

 那間裕子女史が片久那制作部長の居る前で冗談めかして、山尾主任に向かって結婚を間近に控えてこれでは式の資金の足しにもならないだろう、等と勿論ボーナスを支給する側の片久那制作部長に当て付けるためにものしたところ、片久那制作部長はその言葉を聞きとがめて、出せるものなら俺だってもっと出したいよと、如何にも不愉快そうに横から口を挟んだと云う事でありました。これは後に均目さんから聞いた話しであります。
 片久那制作部長も、暮れのボーナスが満足に出せなかった事に後ろめたさがあったのでありましょう。社員に対して顔向け出来ないような気持ちから、那間裕子女史の揶揄に敏感に反応したと云うところでありますか。依ってその義侠的な引け目が、苛々した言葉付きとなって表れたのだろうと頑治さんは憶測するのでありましたが、均目さんは首を横に振りながら皮肉な笑いを浮かべて頑治さんの解釈を否定するのでありました。
「それは、多少はそんな気持ちもあったかもしれないけど、要するに自分の貰い分も少ないと云う事が、あの不機嫌の第一番目の理由だろうな」
「ふうん、そうかね」
「この会社の何から何まで実質的に動かしているのは自分だと云う自負もあるから、事もあろうにその俺様に対して社長は一体何を考えているんだ、と云った、公憤と云うよりは非常に個人的な憤怒が腹の底に蟠っていたものだから、折良く、と云うか悪く、那間さんが気に障る事を口走ったので、それに乗っかって不快をぶちまけたんだろうよ」
「ふうん。そうなのかねえ」
 頑治さんはそう無表情で受けて、それ以上は話しを深くしないのでありました。序に云えばこの時に先の、入社一年未満の社員にはボーナスは出さない決まりだと土師尾営業部長から聞いた事が嘘だと、はっきり均目さんから聞き出したのでありました。それに頑治さんに二万円の慰労金が出たのは片久那制作部長の意からである事も。
「その土師尾営業部長の恩着せがましさも、自分の不満を解消するためのものだろう」
「不満を解消するために恩着せがましい物腰になるものかね」
「まあ、直ではないけど、紆余曲折の思いの結果的な発露として、恩着せがましい事の一つも云って置きたくなったんだろう。そう云うところはあの人の天性でもあるけど」
「ふうん、そうなのかねえ」
 頑治さんは先程と同じ口調で同じ事を繰り返して、これもそれ以上話しを進めないのでありました。まあ、頑治さんとしては二万円とは云え給料以外の支給があった事に、不満ではなく喜びを多く実は秘かに感じていたのでありましたから、均目さんとの会話を態々刺々しく愉快ならざる方向に進める謂れは全く無かったのでありますから。

   労働組合

 神保町二丁目の白山通りから一筋外れた細い道の、二階建てや三階建ての小さな建物が立て込んだ街区にある雑居ビルの三階にその貸し会議室はあるのでありました。頑治さんは均目さんと那間裕子女史の二人と連れ立ってそこへ向かうのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 176 [あなたのとりこ 6 創作]

 山尾主任と袁満さんは既に来ているのでありました。それに先日喫茶店で逢った横瀬氏と、その折横瀬氏が一緒に連れて来ると云っていた組合関係の男が二人、横瀬氏を挟むようにして大きな会議用テーブルの奥の一辺に並んで座っているのでありました。山尾主任と袁満さんが窓を左手に見る辺に座っていたので、遅く到着した三人はその向かいの窓を右に見る席に、那間裕子女史を真ん中に挟んで着席するのでありました
「惨憺たる支給額だったね」
 山尾主任が向かいの三人にがっかりしたような笑いを浮かべて云うのでありました。
「そうね。せめて賃金の一か月分くらいは出ると楽観していたけどね」
 那間裕子氏が受けて、頷きながらこちらも落胆の語調で応えるのでありました。
「まあゼロじゃなかったけどね」
 袁満さんもそう云いながら表情は冴えないのでありました。
「こうなったら春闘で暮れのボーナス分も取り返すしかない」
 山尾主任が決意表明するのでありましたが、そうは上手く事が運ぶかしらと頑治さんは不安を感じるのでありました。この暮れに金が無いのなら余程の事が無い限り年が明けて三か月で急に金回りが良くなるとは考えられないのでありました。
「さて、初お目見えの二人を紹介しておきます」
 横瀬氏がこの日の本題に入ろうとするのでありました。「こちらは出版部会の教育地図出版労組の派江貫統仁さんです」
 横瀬氏は自分の右手に座る仁を、掌を上にした手で指し示すのでありました。
「どうも。全総連傘下出版部会に属する教育地図出版の派江貫です」
 小柄で丸顔の茶色の大柄な千鳥格子模様のジャケットに身を包んだ、やけにレンズの分厚い黒縁眼鏡を掛けた、ぼちぼち頭髪の後退が目立ち始めた、横瀬氏より年嵩と思われる風貌の男が頭を下げた後、頑治さん達全員に律義に名刺を配るのでありました。
「それからこちらは小規模単組連合の木見尾太助さんです」
 横瀬氏は左隣りの仁を手で指し示すのでありました。
「小規模単組連合の木見尾です」
 こちらは痩せた中背の、無地の紺色ジャケット姿で、目鼻立ちがやけに地味で気の弱そうな、縮れた強い頭髪を頭の上にこんもり載せた、矢張り黒縁眼鏡を掛けている男でありましたが、こちらは特に名刺を配る事はしないのでありました。
「贈答社はギフト業と云う事ですけど出版みたいな事もやっているし、前身が地名総覧を出版していたと云う事なので出版部会から派江貫さんと、それから従業員二十人未満の小規模の会社の組合員が集まって、一つの単組として連合して活動をする組織が小規模単組連合で、一応そこに属して貰う事になるから木見尾さんにも来て貰ったのです」
 横瀬氏が二人を連れて来た理由を説明するのでありました。「序に付け加えておくと、派江貫さんは全総連の書記局員でもあります」
 そう云われて名刺に目を落とすと、確かに全総連書記局員と云う肩書きも記してあるのでありました。それ故に派江貫氏は組合支給の名刺を持っているのでありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 177 [あなたのとりこ 6 創作]

「さて、今云いましたようにこちらの組合は小規模単組連合の贈答社分会として活動していただく事になりますが、分会の第一回会議を始めるに当たり先ず議長と書記を選出して貰いたい訳ですが、何方か自分がやると云う立候補はありますか?」
 横瀬氏が左右に居並ぶ社員連中を見渡すのでありました。「特に立候補が無いようですから、ここは僭越かもしれませんが私の方から提案させていただきますが、山尾さんに議長を、那間さんに書記をお願いしたいと考えますが、如何でしょうか?」
 社員連中は無言で顔を見合わせるのでありました。雑談が俄かに会議の様相を帯び始めるのでありました。いきなりのそんな空気の変化にたじろいで、今の提案に賛成も反対もすぐには表明出来ないと云う戸惑いが皆の顔に浮き出るのでありましたか。
「まあ、年季とか歳の上下から、妥当かな」
 袁満さんが遠慮がちにそう呟くのでありました。
「そんな、急に書記をやれって云われても、・・・」
 那間裕子女史が及び腰を見せるのでありましたが、山尾主任は落ち着いているのでありました。屹度この会議が始まる前に横瀬氏から段取りを聞かされていて、既に自分が議長に就く事を承知していたのであろうと頑治さんは推察するのでありました。
「まあ、この会議の議事録の作成のためですから、仕事としては適時メモを取っていただければそれで良いのですよ。後で清書して貰う事にはなりますが」
「別に大それた事をお願いされている訳でもないから、気楽に引き受けてよ」
 山尾主任が無表情の嫌に平静な物腰で促すのでありました。そんな初段の手続き事を決める辺りで時間を浪費するのは無意味だから、さっさと首を縦に振れと云う一種の圧力と云うのか、逸り、みたいなものがその平静さの中に仄見えるのでありました。
「判ったわ。じゃああたしがこの会議の書記をやるわ」
 那間裕子女史は不承々々ながらも頷いて、膝上に置いていた白い麻布製のバッグから文庫本サイズのノートと銀色のシャープペンシルを取り出すのでありました。
「じゃあ、山尾さんが議長、那間さんが書記と云う事で決まりですね?」
 横瀬氏が確認のためにまた皆を見渡すのでありました。
「異議無し」
 と、これは派江貫氏が発した言葉でありました。組合の会議に於いては、こう云う場合は空かさずそう発語する事が仕来たりなのでありましょうし、それを会議初体験の贈答社の社員連中に暗黙に教えるためにも派江貫氏は声を出したのでありましょう。しかし初心な社員連中にしたら、それに続いて発声する事を尻込みして、戸惑い顔と落ち着かない素振りを見せるだけで口を開く事はとうとう出来ないでいるのでありました。
「特に反対意見は無いようですから、これは承認されたものと見做します」
 横瀬氏が断じるのでありました。「では山尾さん、後はよろしくお願いします」
「判りました。ええと、一応全会一致で今議長に選ばれた山尾登です」
 山尾主任は口調を改めて横瀬氏のように社員連中を見渡すのでありました。貴方が山尾登と云う名前の人である事は疾うに知っている、と頑治さんは思うのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 178 [あなたのとりこ 6 創作]

 会議と云うものはとかくこのような形式張った体裁を取るのでありましょうが、考えて見れば奇妙で一種ちゃんちゃら可笑しい律義さに溢れているものなのでありましょう。しかし形式と云うものを無性に有難がる人種も居るようで、山尾主任はどうやらそう云ったタイプの人なのかも知れないと、目の前で現在進行している営為とはさして関係の無い事を頑治さんは考えているのでありました。まあそれは人夫々の勝手でありますが。
 山尾主任は自分の後に那間裕子女史も同じように自己紹介するものと思ったようであありますが、女史は阿保臭いと思ったのかそれとも単に億劫だったのか、机の上に広げたメモ帳に目を落とした儘何も云おうとしないのでありました。然程に長時間ではなくほんの数秒程度ではありますが、待っていても一向に女史が顔を上げそうにないものだから、山尾主任は少し調子が狂ったのを咳払いで修正して話しを続けるのでありました。
「この会議では先ず、全総連小規模単組連合加盟の贈答社分会として労働組合分を結成する事に賛成か反対かの採択から始めようと思いますが、異議は有りませんか?」
 この舌を噛みそうな、全総連小規模単組連合加盟云々、と云う呼称を山尾主任はきっちり覚えてはいないようで、机に置いているカンニングペーパーを見ながら云って、異議は有りませんか、のところで徐に顔を起こすのでありました。
「そのために集まったんだから、今更そんな事、必要?」
 那間裕子女史が多少うんざりしたような表情で山尾主任を見るのでありました。
「会議なんだから面倒でも一つ々々の議案を、順を追って採択していく必要があるだろう。後でそんな事決めていないなんて紛糾するのを避けるためにも」
「ああそう」
 那間裕子女史は無感動に云ってメモ帳の方に目線を落とすのでありました。女史も頑治さん同様、この手の形式にげんなりしているようであります。
「異議はありませんか?」
 山尾主任はもう一度繰り返すのでありました。
「異議は無いわよ」
 那間裕子女史が先ず云うのでありました。それに続いて夫々が、異議無しの声を戸惑い気味に上げるのでありました。最後に頑治さんが小声で締め括るのでありました。
「異議無し、と認めます。では次に組合の目的と今後の闘争方針の裁決に移ります」
 山尾主任はまた机上のカンニングペーパーに目を落とすのでありました。どうやらこの議事進行は予め横瀬氏と打ち合わせしていたようで、日頃の山尾主任の口からは到底聞けないような俄仕込みの会議用語や組合用語が跳び出すのでありました。
「闘争方針、ねえ」
 均目さんが興醒め顔で山尾主任の言葉を繰り返すのでありました。「そんなの我々の中で今迄話し合った事も無いのに、ここで急に採択とか出来るのですかねえ」
 均目さんは山尾主任を見据えるのでありました。多分、打ち合わせしたようにポンポンと用語を繰り出して会議をリードしようとする山尾主任の、と云うよりは横瀬氏の魂胆を警戒して、それにおいそれとは乗らないために茶々を入れたようでありました。
(続)
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あなたのとりこ 179 [あなたのとりこ 6 創作]

「しかしそう云ってもここは話しを進めるために、・・・」
 山尾主任は口籠もって困じたように横瀬氏の方を見るのでありました。
「まあ、形式、と云うだけです」
 横瀬氏が助け舟を出すのでありました。「初回の会議の手続きみたいなものです」
「形式的手続きなら、省いても構わないのじゃありませんか?」
「いやいや、幾ら形式的手続きだと云っても、手続きは手続きですから、人が集まって創る組織である以上省けません。そう云ったものをきちんと踏む事は必要です」
「阿吽の呼吸、と云うものがあるじゃないですか。だから省略出来るものは省略して本題を早く話し合う方が、会議を進行する上で効率も良いでしょうに。何十人とか何百人の会議と云うならまだしも、高々当事者五人の会議ですしねえ」
「抑々、会議は阿吽の呼吸で進めるものではありません。それに曖昧なところも有ってはいけません。全員が全員、貴方のように血の巡りの早い気の働く人じゃありませんから、堅実に、低い段差の階梯を一歩一歩、誰が遅れる事も無く進める方が良いのです」
 横瀬氏は少しの揶揄を添えて均目さんを窘めるのでありました。
「ああそうですか。まどろっこしいですね」
 均目さんは鼻を鳴らすのでありました。
「本筋じゃないところに拘って、進行を遮る方が余計話しをまどろっこしくさせているんじゃないのかい。自分の才気走った辺りを見せたいのかも知れないけど」
 これは横瀬氏ではなく、派江貫氏が割り込むように発した言葉でありましたが、派江貫氏の眼鏡の奥の目が均目さんを敵意に満ちた光で捉えているのでありました。「何となく見ていると、さっきから身を斜に構えたようにしてこの会議に臨んでいるけど、この会議そのものに云いたい事があるのなら、議事が始まる前に云って置くべきだろう」
 激した風ではないけれど、逆にそれ故になかなか迫力のある云い草と云えるでありましょうか。如何にもこのような会議で論争慣れしていると云った風情でありますか。
「まあまあ、派江貫さん」
 横瀬氏が派江貫氏の口調をやんわり抑えるのでありなした。

 横瀬氏は均目さんの方に目を戻すのでありました。
「闘争、と云う言葉が気に入らないのですかな?」
「枝葉ですが、それも、まあ、あります。如何にも大袈裟で、左翼っぽくて」
 均目さんは先程派江貫氏に咎められたのが少し利いているらしく、派江貫氏を見ないで横瀬氏の顔のみに目を釘付けるようにして頷くのでありました。
「では、活動、と云えばそんなに引っかからないで済みますか?」
「その方が左翼っぽくはないかな、ほんの少しは」
「どっちだって同じだよ」
 派江貫氏が舌打ちの後にドスの利いた声で割り込むのでありました。
「まあまあ派江貫さん、そんなにカリカリしないで」
(続)
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あなたのとりこ 180 [あなたのとりこ 6 創作]

「闘争、と云う言葉は別に左翼の専売特許と云う訳でも無いよ」
 頑治さんが唐突に云い出すのでありました。「ヒトラーの『我が闘争』と云う著作もあるんだし。ヒトラーは確か左翼じゃなかったと思うけど。いやまあ、俺は高校生の時にはあんまり世界史の勉強が好きじゃなかったから記憶違いかも知れないけどさ」
 その頑治さんのほんの少し冗談を交えたような云い草を聞いて、横瀬氏と隣の派江貫氏が頬の緊張を緩めるのでありました。頑治さんは均目さんにもムキになって反論されないように、言葉にとろみを付けようとしてそう云う口調で云ったのでありました。
「ここは一つ、言葉に拘るよりも会議を前に進めようよ」
 議長役の山尾主任が提案するのでありました。
「俺も別に会議の進行を邪魔しようと思っている訳ではないですよ。使われる言葉はその組織の性格に関わるから大事な問題だと思うけど、しかしまあ、ここは時間が勿体無いから話しを前に進めましょう。ええと、活動方針の採択ですよね?」
 均目さんは、使われる言葉はその組織の云々、とか云う何とも潔くない、自説のような申し訳のような事を口にしながら取り敢えず話しの本筋に復すのでありました。
「じゃあ、闘争方針だけど、・・・」
 山尾主任は結局均目さんの意は酌まずに、闘争方針と、あっさり云って会議を先に進めようとするのでありました。「この暮れの一時金の件に象徴されるように、贈答社の労使関係は経営側に労働者が全く一方的に従属すると云う形態で、我々は仕事に於いても待遇に於いても、発言権も異議を申し立てる権利も剥奪された状態で放置されてきました」
 山尾主任は俯いて机上の紙を見ながら云う、と云うのか、読むのでありました。これも予め横瀬氏と摺り合わせた文言なのでありましょう。
 頑治さんはボーナス支給の経緯を考えると、現に社員は異議を申し立てようとしていたし、その結果として労働組合と云う選択をしたのでありますから、異議を申し立てる権利そのものはあるのか無いのか、その前提自体はあやふやではなののではないのかと思うのでありました。例え申し立てた異議が撥ねつけられる結果だったとしても。寧ろ後日の労働組合結成と云う目的のために異議申し立てを控えたのは従業員の側でありますし。
 均目さんもその辺の山尾主任の述べる前提が少し気になったようでありましたが、先程派江貫氏に怒られた事が意外に身に染みている所為か、特に異論を差し挟む真似は控えているのでありました。これは均目さんの気後れ故か億劫故かは確とは判りませんが。
「労使の在り方としてそれは不健全であり、延いては会社の将来的発展をも阻害する要因でもある事から、働く者の正統な権利獲得と経営側に対する発言権確立は急務であると判断されます。一方に、単なる企業内組合としてでは健全な労使関係構築のために行使出来る闘争力も限界があるので、全総連の適切な指導の下に、一企業だけに止まらない全国規模全産業の労働者の連帯に加わって、その後ろ盾を武器に働く者の権利拡大のために闘争を展開していくものである、と云うところが贈答社労働組合の闘争方針ですが、・・・」
 山尾主任は一気にそこ迄云って、と云うか、詠み上げて、社員全員の顔をゆっくりと見渡すのでありました。「この闘争方針に異議がありますか?」
(続)
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あなたのとりこ 181 [あなたのとりこ 7 創作]

「要するにウチの問題も然る事ながら、ウチの組合の活動は全総連と云う上部団体の活動方針に強烈にコミットしなければならない、と云う事になる訳ね、そう云う方針なら」
 那間裕子女史が首を傾げるのでありました。
「いや、何を置いても単組個別の問題が最優先です。ただ加盟単組の中には贈答社よりも深刻な、雇用を守れるかどうかとか、或いは会社内差別の問題に直面しているところもあります。そう云った単組も仲間として応援をしていくと云う事ですよ。全総連の方針を無理強いすると云うのでは全くありませんから、そこは誤解の無いように」
 横瀬氏が一応頷くのでありました。
「持ちつ持たれつ、と云う事だよ」
 山尾主任がその後に空かさず続けるのでありました。
「まあ、それはお互い様と云う事だからなあ」
 袁満さんが横瀬氏及び山尾主任の説明に理解を示すのでありました。
「お互い様と云うのなら、ウチの新たに結成する組合に対して、全総連ではどのような具体的な支援が予定されているのかしら?」
 那間裕子女史はもう一度首を傾げながら、敢えて横瀬氏や山尾主任の方に視線を向けないで独り言のような体裁で呟くのでありました。
「そうですねえ、今の時点であれこれ明確なところを云うのは何ですが、今迄の事で云うなら、勿論全総連は当該単組の希望に沿うようにあらゆる支援をいたします。それに一例ですが既存の組合の結成までの色々なノウハウや経緯なんかをその単組の人に来て貰って直にレクチャーして貰えます。組合結成の経営への通告及び要求提出の日には全総連中央は勿論、小規模単組連合や千代田区共闘のお茶の水や神保町界隈に在る単組、それに恐らく出版関連や卸業関連の単組等が街宣車を動員して百人規模の支援集会を会社前で行います。これは結構界隈の耳目を引きますから経営への強烈なプレッシャーになりますよ」
「へえ、それは面白そうだな」
 横瀬氏の言の後に袁満さんが目を輝かせて云うのでありました。「社長や土師尾営業部長の慌てふためく様子が今から目に浮かぶなあ」
 袁満さんはこの支援集会を痛快な意趣返しの行動と捉えたようでありました。
「そう思うだろう。一泡吹かす絶好のチャンスだ」
 山尾主任も同調して見せるのでありました。
「土師尾さんの狼狽する姿を見るのは決して不愉快では無いけれどね」
 那間裕子女史も意地悪そうに笑みながら面白がるのでありました。
 この三人の喜び様に対して、均目さんはげんなりと云った表情を浮かべているのでありました。社長や土師尾営業部長の醜態を見て留飲を下げるために組合を結成しようとしているのかと、少々あきれていると云ったところでありましょうか。
 頑治さんも大方に於いて均目さんと同じような心持ちでありましたか。頑治さんも袁満さんや山尾主任、それに那間裕子女史と云う先輩三人のあっけらかんと呑気に面白がる様子が、不謹慎にも如何にも頼り無いようにも見えるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 182 [あなたのとりこ 7 創作]

「先程の山尾主任が喋った、と云うか、多分その目の前の紙を読み上げたんだろうけど、贈答社の闘争方針、とやらは今ここで考えたんじゃないですよね?」
 均目さんが山尾主任に笑い気皆無の表情で質問するのでありました。
「うん。横瀬さんと予め練ったものだよ。まあ、結成時に採択される闘争方針の、よくあるパターンとかを教えて貰って、無難な辺りを文章にしたんだ」
「方針と云うのは、我々がこれから創る贈答社労働組合の性格を決定する大事なものだと思いますけど、それはここに居る全員で討議しないで、横瀬さんと山尾主任の二人だけの打ち合わせに依って決めて良いものなんですかね?」
「まあ、闘争方針の採択は一種の体裁と云うのか儀式と云うのか、手続きの一つみたいなもののようだから、一般的な言葉の羅列で、それらしい事を謳ってあればそれで良いじゃないのかな。具体的な辺りは後でじっくり討議するとして」
 山尾主任はそう返しながら横瀬氏の方を窺うのでありました。
「今迄の労使関係が健全でなかったと云うところと、会社の発展を願えばこそ、と云うところと、そこに働く者の正統な権利を守るためにと云う辺りが盛り込まれていれば良いんじゃないですか。贈答社は無茶苦茶な労働環境にあると云う事でも無さそうだし、聞いてみると未だマシな方だしね。まあ、穏当な辺りで纏めて置くのが良いんじゃないかな」
 横瀬氏が補足するのでありました。
「いや俺が少し引っかかったのは後段の、全総連の適切な指導の下に云々、と云うところで、贈答社個別の問題よりも全総連の方針とか都合の方が優先されると云うニュアンスが含まれているような、そんな気がしたものだから」
「いやあ、そんな事はありませんよ。先程の繰り返しになりますが、贈答社個別の問題が何より優先です。これは敢えて云う迄も無くて、判り切った事ですから」
 横瀬氏は均目さんに向かって、それは考え過ぎだと云った風の笑いを向けながら云うのでありました。しかしそれにしては均目さんを見据えるその目が笑ってはおらず、穏和な語調に全く等比してはいないように頑治さんには感じられるのでありました。何となく、それについてはこれ以上つべこべ云うな、と云った風の威圧的な眼容と云うのか。
「一々小さな点に拘らなくも良いんじゃないの」
 那間裕子女史が均目さんに少しげんなりしたような目を向けるのでありました。「体裁みたいな手続きみたいなものなら、ちゃっちゃっと済ませてしまおうよ」
「そうだよ。まわりくどい事を縷々云っていないで、それより議事を前に進めようよ」
 山尾主任も頷くのでありました。日頃あんまり仲のよろしくない同士がここでは珍しく意見の一致を見たと云った按配でありますか。
「そうね。ぼちぼち腹も空いてきたからさっさと片付けて仕舞いたいものだな」
 袁満さんも些か無責任な同調の模様であります。
「若しこの闘争方針で何か問題が起こったなら、その時は立ち戻って討議して修正すれば良いんじゃないですか。ま、何も起こらないと思いますけどね」
 横瀬氏はまた均目さんに目の全然笑っていない笑いを向けるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 183 [あなたのとりこ 7 創作]

「ああそうですか。それならそれで。・・・」
 均目さんとしては情勢不利、と云ったところでありましょうか。均目さんが逐一無意味で些末な議論を小賢し気に持ち出す事で、徒に議事進行を滞らせていると云った雰囲気であります。そんな軽率なヤツと思われるのは大いに心外であるためか、均目さんはそう皮肉っぽく云ってからその後は目立って口を開くのを慎むのでありました。
「じゃあ、この闘争方針に異議はありますか?」
 山尾主任が一同を見回すのでありました。
「もう一度云ってみて」
 那間裕子氏が、目が合った時にそうリクエストしたので山尾主任はもう一度先の闘争方針を、紙を見ながら繰り返すのでありました。
「まあ、異議無しね」
 那間裕子女史は聞き終えて頷きながら山尾主任から目を離すのでありました。
「俺も異議無し」
 袁満さんも追随するのでありました。暫し間が空いて頑治さんも同意を表するのでありました。間が空いたのはその次に均目さんが態度表明する番だと思っていたからで、しかし均目さんが何も云わないものだから頑治さんが先に返答をしたためでありました。
「均目君は異議があるのかな?」
 山尾主任が不審そうな語調で訊くのでありました。
「いや、意義はありませんよ」
 均目さんは山尾主任の方を見ないで、はっきり不貞腐れた様子とは窺えないながらも、やや冷えた云い方をするのでありました。
「それじゃあ全会一致で、この闘争方針は採択されました」
 山尾主任が宣すると派江貫氏とそれまで言葉を殆ど発しなかった木見尾氏が、小声ながら力強く「よし」と云って拍手するのでありました。なかなか堂に入ったタイミングで、これはこう云う場でのこの人達の作法なのだろうと頑治さんは思うのでありました。
 釣られて那間裕子女史も袁満さんもそれから頑治さんも拍手するのでありました、均目さんも愛想から気乗りしない素振りの無精な拍手をするのでありました。
「それではこの後は組合正式結成迄の暫定的な委員の選出に移りたいと思います」
 山尾主任が次の議事に移ろうとするのでありました。

 山尾主任は暫し机上の紙に目を落としてから、徐に顔を上げて云うのでありました。
「こんな少人数だから立候補を募って投票して、とか云うのも如何にも大袈裟だから、こちらで一応案を練ってみたんだけど、・・・」
 山尾主任はまた目を紙に戻すのでありました。「ええと、公平に全員が役付きと云う事にして、委員長が山尾登、副委員長が円満丸也、書記が那間裕子、それから残る均目志信、唐目頑治、今日は出張で居ない出雲衣奈造の三人が執行委員と云う事でどうかな」
 山尾主任は云った後にまた夫々の顔を順に見渡すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 184 [あなたのとりこ 7 創作]

「何でまた俺が副委員長なんですか?」
 袁満さんが少し口を尖らせるのでありました。そんな大それた名前の役職は荷が重いじゃないかと云った顔付きであります。「俺は出張がちだから副委員長に任命されてもその仕事をちゃんと果たせないんじゃないかな、何の仕事をするのか良く判らないけど」
「いや、それだからこそ副委員長になって貰う心算なんだよ」
 山尾主任が説明するのでました。「大概は会社に居る俺が委員長だから、その補助的役割りと云うところで、副委員長だよ。それに制作と営業から正副委員長を出すのが落ち着きが良いと思うからさあ。因みに年齢と就業年数の長さから俺が委員長と云う事だよ。俺が委員長になる事に反対意見が多いなら、勿論俺はその職に就かない心算だけど」
「良いんじゃないの、山尾さんが委員長で」
 那間裕子女史が山尾主任の案に賛同するのでありました。これは自分がそんなご大層な役職を引き受けるのはまっぴらご免蒙りたいと云う逃避的魂胆からでありましょう。
「じゃあ、那間さんが書記と云うのもOKだね?」
 山尾主任が空かさず訊くのでありました、
「書記、ねえ。何をすればいいの?」
「その都度、会議の議事録を取るのが第一です。それから多分お金の管理ですね」
 横瀬氏が山尾主任の代わりに解説するのでありました。
「お金の管理もあたしがやるの?」
 那間裕子女史は書記の仕事にそんなのがあると云うのが解せないようでありました。それは会計と云う役職を設けてそちらでやれば良いだろうと云う了見でありましょう。
「まあ、直接的な書記の仕事ではないけれど、少人数だから兼務と云う事で」
 これは山尾主任が云うのでありました。
「あたしが兼務するより、執行委員が三人もいるんだから、その内の一人を会計と云う役職にすれば良いじゃないの。大体あたしは自分のお金の管理もルーズなんだからね」
「いや、執行委員はあれこれ細々とした用事をやって貰わないといけないから」
「その、細々とした用事、と云うのは何ですか?」
 均目さんが質問を割り込ませるのでありました。
「会議の会場確保とか飲食物の手配とか、若し必要なら会議用とかのプラカードや垂れ幕の作成とか、全総連本部とか他の単組への使い走りとか、ま、色々」
 山尾主任は一々指を折りながらそんな説明をするのでありました。
「ふうん。雑用係と云う事ですね」
「まあ、そう云えばそうかな」
「成程、そう云う三下の仕事は那間さんにやらせる訳にはいかないか」
 均目さんはあっさりと妙な納得の仕方をするのでありました。
「唐目君、会計の仕事、やってくれない?」
 那間裕子女史が急に頑治さんにそう提案するのでありました。
「え、俺が、ですか?」
(続)
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あなたのとりこ 185 [あなたのとりこ 7 創作]

「唐目君の仕事振りは手堅いし律義だし、信頼感もあるからうってつけだと思うけど」
「そうですかねえ」
 頑治さんは那間裕子女史のこの評価に戸惑うのでありました。前に会社に居た刃葉さんと比べればそれは確かに堅実な仕事振りかも知れませんが、しかしそれはあくまでも刃葉さんとの比較の上に成り立つ印象であって、自分の仕事振りが世間一般の評価軸の上ではそんなに堅実であるとは頑治さんには思われないのでありました。
 那間裕子女史は単に面倒な金銭管理の仕事を免れたいがために、頑治さんをここで煽ててその気にさせようとしているに過ぎないと思われるのであります。
「と云う事で、執行委員は均目君と出雲君の二人と云う事にして、会計の仕事を唐目君がやると云う事で構わないわよね?」
 那間裕子女史は頑治さんの意向を無視して山尾主任に訊き糺すのでありました。
「それは別に構わないけど、どうかな、唐目君は?」
 山尾主任は頑治さんに小首を傾げて見せるのでありました。頑治さんは急いで執行委員の仕事と会計の仕事のどちらが億劫でないかを頭の中で考えてみるのでありました。
 走り使いのような仕事よりは机上で計算をしていれば良いのでありますから、身体的には会計仕事の方が楽でありましょう。それにメンバーは六人だけなのでそんなに多額の金銭を管理すると云う訳でもないでありましょう。逐次の帳簿付けは小煩いとしても。
「俺は執行委員でも会計でもどちらでも構わないですよ」
 この話しの流れの中でこう返事すると云うのは、会計の仕事に就く事を承諾した事になるのだろうなあと、頑治さんは云いながら思うのでありました。
「じゃあ、これで決まりね」
 那間裕子女史は満足気に笑むのでありました。
「ところで、管理する金銭と云うのは、今のところ何も無いですよねえ?」
 頑治さんが山尾主任に訊くのでありました。
「そこなんだけど、・・・」
 山尾主任はそう呟いて机上の紙にチラと目を遣るのでありました。「この十二月の給料から、支給額の一パーセントを活動費として徴収したいんだけど」
「え、支給額の一パーセントを徴収?」
 袁満さんが少したじろいだ顔をするのでありました。「手取り額の一パーセントですか、それとも税金や保険料とか諸々を引かれる前の、額面の一パーセントですか?」
「基準内賃金の一パーセントだよ」
「何ですか基準内賃金と云うのは」
「一時金や時給算定の元になる賃金だよ。ウチでは基本給に役職手当を加えた額」
「へえ、それを基準内賃金と云うんですか。迂闊にも初めて聞く言葉だ」
 袁満さんは見開いた目で瞬きを繰り返しながら頷くのでありました。
「あれこれお金もかかるだろうから、それは仕方が無いわね」
 那間裕子女史は意外にあっさり、納得気にこちらも頷くのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 186 [あなたのとりこ 7 創作]

「じゃあ、取り敢えずは委員長が俺で副委員長が袁満君、それから書記が那間さん、会計担当が唐目君、均目君と出雲君が執行委員と云う人事案は承認と云う事で良いかな?」
 山尾主任が先ずそちらの方の了承を全員に求めるのでありました。那間裕子女史が異議無しの態度を表すると他の連中も積極的な反応ではないにしろ頷くのでありました。
「それから組合費の一パーセント徴収の件はどうかな」
 こちらも積極的賛成とは云い難いながらも全会一致で了承されるのでありました。ここ迄がその会議の主な議題と云うところでありましたか。外部の横瀬氏も派江貫氏も木見尾氏も基本的な事項が先ずは決まった点に概ね満足の様子でありました。

 この後は少しの雑談時間となるのでありました。
「それにしても今季の暮れのボーナスには参ったよなあ」
 袁満さんが愚痴を零すのでありました。「歳が越せないよ、これじゃあ」
 前に可処分所得との絡みで、年が越せない、と云う不満表現の言葉は現実の置かれている境遇に鑑みると、あんまり適切とは云えないと云う話しを喫茶店でしたのを頑治さんは思い出すのでありました。その折袁満さんは成程と納得したとばかり思っていたのでありましたが、しかし袁満さんは性懲りも無くまたここであっけらかんとそう云う表現を用いるのでありました。単なる迂闊からなのか、それとも心底から先の会話を納得した訳ではなかったと云う事なのか、その辺の袁満さんの心根は良く判らないのでありました。
「袁満さん、今のご時世、そう云う表現は苦境の表現としては現実味も説得力にも欠ける、と云う事を前に話したじゃないですか」
 均目さんがその辺りを指摘するのでありました。頑治さんと同じで均目さんも袁満さんの粗忽にちょっとがっかりしたのでありましょう。
「ああそうだったっけ」
 袁満さんは特段恥じる様子も無くのんびりした口調で云って、別に頭も掻かないのでありました。もう前の話し等すっかり忘れている様子であります。
「歳が越せないとか、生活が出来ないとか云う言葉は団交の場で我々も良く使うよ」
 派江貫氏が均目さんに反駁するのでありました。その語調の挑みかかるような感じや軽くあしらおうとする色合いから察すると、派江貫氏は先程の均目さんとの遣り取りから、均目さんの事をどうやら胡散臭い、気に障るヤツだと思いなしたようでありました。
 派江貫氏の気分が均目さんにも充分伝わるものだから、均目さんとしても対抗上竟々、遠慮無しの挑戦的な物腰になるのでありました。
「今だにそう云う苔の生えたような常套句を日常的に遣っているようだから、特に若い者の間で労働組合離れが起こっているんじゃないですかね」
「どう云う事だ?」
 派江貫氏が少しムキになるのでありました。
「あなただって現実の問題として、食うや食わずの生活を送っていらっしゃる訳ではないでしょう。着ている服もセンスと云う点は別にして、一応パリッとしているし」
(続)
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あなたのとりこ 187 [あなたのとりこ 7 創作]

 均目さんは派江貫氏の服装への揶揄を交えて、如何にも意地が悪そうに体を斜にして見せるのでありました。意地から、先程黙って引き下がったのはアンタの剣幕にたじろいだからではないと云う意志表明を、ここで敢行しようとしているのでありましょうか
「俺がどんな服装をしようと俺の勝手だ」
 派江貫氏は憮然として均目さんから目を背けるのでありました。
「勿論その通りです。好みは人夫々ですからね。それにそのセンスに対して俺がどんな感想を持とうが、それも俺の勝手に属する事です」
「俺に喧嘩を売っているのか、お前は」
 派江貫氏はまた黒縁眼鏡の分厚いレンズの奥にある目を均目さんの顔に据えるのでありました。小刻みに黒目が動くのは、若し殴り合いにでもなった場合、均目さんが自分の手に余るのか収まるのか、その辺りを値踏みしているためかも知れないし、それとも均目さんのふてた態度に単に怖じた故かは頑治さんにはよく判らないのでありました。
 均目さんの細っこい体と派江貫氏の小柄ながらもそこそこ体重の有りそうな体躯を比べると、些か派江貫氏の方に分がありそうな気もするのであります。しかも派江貫氏の方が向こうっ気の強さでは些か優っているような気配でもありますし。
「まあまあ派江貫さん、あんまり興奮しないで落ち着いて。初会議でもある事だから、ここは一つ穏便に行きましょうよ」
 横瀬氏がまた宥めに掛かるのでありました。
「コイツが俺に対して個人攻撃を仕掛けてきたので、それは許せないからね」
 派江貫氏は均目さんを指差しながら横の横瀬氏に云うのでありました。
「服装の趣味は自由だと云うのは均目さんも認めているようです」
 頑治さんが唐突に云い出すものだから、この会議室に居る全員の視線が頑治さんに集まるのでありました。「それにその服装に対してどんな感想を持とうと、それも確かに人の自由勝手ではあります。しかしどんな感想を持とうと自由でも、その感想を当人を前にして口にするかしないかは、勝手放題と云う訳にはいかないじゃないかな」
 その言葉を収める辺りで頑治さんは横の均目さん方を見るのでありました。察しの良い均目さんは頑治さんの云わんとしている辺りをすぐに了解したらしく、頑治さんに対して恥じるような申し訳無いような笑いを送ってくるのでありました。
「それもその通りだ。確かにさっきの俺の云い草は不謹慎と云われても仕方が無い」
 均目さんは今迄とは打って変わってしおらしい物腰になるのでありました。「俺のさっきの態度はこの場に相応しくないマナー違反でした。謝ります」
 均目さんは派江貫氏にやや深くお辞儀して見せるのでありました。あっさりそう云う風に出られると、派江貫氏としても矛を収めるしかないと云うところでありましょうか。
 均目さんは一瞬で人変わりしたように至極素直なのでありました。均目さんとしても引くに引けない切羽詰まった辺りで、好都合にも頑治さんがそれとなく仲裁の言を吐いてくれたのが大いに有難かったのかも知れません。均目さんは誇り高く意地っ張りで頑固なくせして、案外気の小さい意気地無しのところもあるようでありますから。
(続)
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あなたのとりこ 188 [あなたのとりこ 7 創作]

「これから同じ目的に向かって共に闘おうとしている同士が、今から角突き合わすような関係になるのは幸先が好くないわ。協調性と云うところを均目君はもう少し考えた方が良いと思うわよ。第一、目上の人に対してさっきのもの云いは遠慮が無さ過ぎね」
 那間裕子女史が、重い空気に言葉の接ぎ穂を失ったように誰もが沈黙している中でその打開を図ろうとしてか、そんなご高説をしかつめ顔で垂れるのでありました。日頃の言動に鑑みれば、ここに集う連中の中では協調性の欠如とか無礼と云う点にかけては随一と思われる女史がそう云うのが、頑治さんには何となく微笑ましく映るのでありました。
「何をニヤニヤしているの、唐目君?」
 頑治さんのその様子を横から窺い見て、那間裕子女史は自分の言動に対する頑治さんの不謹慎を詰る口調で問うのでありました。
「ああ、いや、別に」
 頑治さんは急いで誠心誠意の顔を作って那間裕子女史を見返すのでありました。
「あの那間さんが、嫌にしおらしい正論を吐くんで唐目君が思わずニンマリしたんだよ」
 均目さんが冗談口調で、概ね正鵠を穿った解説を入れるのでありました。
「何、それ」
 那間裕子女史は今度は均目さんに険しい目を向けるのでありました。
「いやまあ、那間さんは可愛らしい人だなあと、途中の説明を荒っぽく端折って云えば、つまりそう云う事だよ。なあ、唐目君」
「ええまあ、そんなような、そんなようでないような。・・・」
 頑治さんはまたニンマリ顔で曖昧に返すのでありました。
「何よ、そのはぐらかすような云い草は」
 那間裕子女史は語気を強めるのでありましたが、何だか良く判らないながらも可愛らしいと云われてほんのりと悪い気はしていないような風情ではありましたか。そんな那間裕子女史の心根と同じに、この遣り取りで場の緊張が少し緩むのでありました。
「じゃあ、まあ、最初に採択するべき最小限の事項も採択された事だし、今日の会議はこれでお開きとする事にしますか」
 横瀬氏が折角和んだ空気を壊さないように気を遣ってか、そんな事を緩い口調で提案するのでありました。「後は次回の会議の日程を決めておきましょう。出来るなら十二月と一月は週一回くらいのペースで開くと良いと思います。これから先、やらなければならない事は山程ありますし、春闘の一斉要求提出日まで時間が有るようで無いですからね」
「判りました。じゃあ今度の会議は、週の内水曜日が全員集まり易いようだから、来週の水曜日と云う事で良いかな。それから那間さん、今日の議事録を清書しておいてね」
 山尾主任のその言葉で初回の会議は、まあ恙なく、閉会するのでありました。

 地下鉄丸ノ内線の本郷三丁目駅から、両側に立ち食い蕎麦屋とか結納用品屋とか洋服屋や甘味処、それに喫茶店などが並ぶ細い通路を本郷通りに抜けた辺りにある中華料理屋で、頑治さんは夕美さんと差し向かいで夕食の膳を囲んでいるのでありました。
(続)
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