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あなたのとりこ 164 [あなたのとりこ 6 創作]

 袁満さん経由の山尾主任の指示はすぐに均目さんから那間裕子女史に、それから倉庫で仕事をしている頑治さんにも齎されるのでありました。内心の安堵も午前中だけで、矢張りその日の従業員会合は開かれると聞いて頑治さんは少しの落胆を覚えるのでありました。別に流れたからと云って夕美さんと逢える訳ではないけれど、秘かな億劫であるのは間違いの無い事でありました。前日考えたように特段の益も無いのでありますし。
 仕事が終わってから頑治さんが均目さんと那間裕子女史と三人で揃って事務所を出て、重くなりがちの足取りを隠しながら、件の御茶ノ水駅近くの喫茶店に到着すると、既に山尾主任と袁満さんは来店しているのでありました。それにその席には、二人に挟まれて真ん中にもう一人、白と茶色のチェックのセーターを着たなかなかに体格の良い、山尾主任よりも年嵩に見える見知らぬ男が一緒に着席しているのでありました。
 遅れて到着した三人は夫々座席に腰を落しながら、その、四角い顔で密集した強そうな短い縮れ毛を頭に載せた、髭剃り跡も青々しい、やや強面の男を気後れがちに窺い見るのでありました。頑治さんが学生時代にアルバイト先の建設現場でよく見かけた事のある、肉体労働専一に今迄仕事をしてきたと云ったようなタイプの男でありますか。
「紹介しておくよ。この方は全国労働組合総連盟の横瀬兼雄さん」
 山尾主任が横に居る男を、掌を上にした手で遠慮がちに指し示しながら紹介するのでありました。強面の男は「よろしく」と云って小さく頭を下げながら、向かいの席に並んで座った均目さんと那間裕子女史、それに頑治さんに、膝の上に置いていた黒皮のコートのポケットから取り出した名刺を順に手渡しながら小さく頭を下げるのでありました。
 受け取った名刺には上部左に空押しのマークとその横に続けて、全国労働組合総連盟、とあって、その下に当人の名前が少し大き目の明朝体文字でほぼ真ん中に記してあり、名前の上には、小規模労組・組織部担当委員、と云う肩書きが小さなゴシック体で書いてあるのでありました。右下には組合の郵便番号と所在地、それに電話番号がこれも肩書きと同じゴシック体文字でやや小さく書かれているのでありました。
 恐らくボーナス支給日の当日に、土師尾営業部長の前に並べるべき文句の数々を考えていて、考えに窮した山尾主任が些か早手回しの誹りは免れないかも知れないけれど、電話かそれとも態々訪ねて行ってか、労働組合に助言を求めたのであろうと頑治さんは推測するのでありました。それを受けて速やかに労働組合総連盟が動いたのでありましょう。
 その男の不意の出現で那間裕子女史は屹度、山尾主任の早手回しを早速誹りたそうに眉根を寄せているのでありましたが、当の男の手前、それは流石に憚るのでありました。頑治さんもその出現の唐突感と、事が急に大袈裟になったような雲行きに驚きを覚えるのでありましたし、均目さんの方も頑治さんと同様でありましょう。
「昨日の話し合いで、俺達だけで何やかやと話していても始まらないように思ったから、独断だったけど全国労働組合総連盟に相談を持ち込んだんだよ」
 山尾主任が経緯を語るのでありました。
「袁満君と一緒に?」
 那間裕子女史が眉根を寄せた儘で袁満さんの方に小首を傾げるのでありました。
(続)
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