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あなたのとりこ 112 [あなたのとりこ 4 創作]

「刃葉さんはご両親と一緒に暮らしているんでしたよね?」
 頑治さんが懸念を眉宇に湛えて訊くのでありました。
「そうだけど」
「ご両親は刃葉さんの網走行きを承諾されたのですか?」
「ああ、ウチの両親ね」
 刃葉さんはあっけらかんと笑うのでありました。「それは何も問題は無いな。ウチの両親は出来損ないの俺の事なんか、もう疾の昔から眼中にないからね。何処で野垂れ死にしようと知った事じゃないだろう。それに俺には兄貴が居て、こちらは結構大きな会社に就職していて真っ当なサラリーマンをやっているし、俺になんかに頼る必要は全く無い」
「ああそうですか」
 頑治さんはその、ある意味好い気で自分勝手な返答に疑わしさを表する心算で、敢えて無表情をして少しばかりの不愉快を籠めた声音で云うのでありました。「網走の先生とやらの農園は、一度くらい訪ねた事はあるんですか?」
「いや、ないよ」
「先生個人には東京の道場か何処かでお逢いされた事はあるのですか?」
「それもない」
「こんな云い方は失礼かも知れませんが、その先生は信頼が置ける方なのですか?」
「道場の師範が云うには、向こうは大いに乗り気だったと云う事だ。今時奇特な漢だと俺の事を感心して、俺にその意志と覚悟があるのなら是非鍛えてみたいと云ったらしい。まあ、道場の師範はなかなか出来た人だし、その師範が云うんだから間違いないだろう」
「ああそうですか」
 頑治さんは先程と同じ文句を、先程と同じ顔付きと声で繰り返すのでありました。矢張り体良く東京の道場を追っ払われて、網走で賃金の殆ど掛からない都合の良い労働力として期待されているだけのような気もするのでありましたが、そんな憶測を今の段階で大乗り気になっている刃葉さんに対して表明するのは何となく及び腰になるし、第一頑治さんがそんな心配をする謂われも無いと云えば全く無いのでありますし。
「来年の正月明けには俺は網走に行くから、唐目君に逢うのはこれが最後と云う事になるな。まあ、逢ったのは全くの偶然だったけど。つまりそう云う訳で、・・・」
 と、ここで刃葉さんは口調を改めて頑治さんに笑い掛けるのでありました。「唐目君も、今の会社でしっかり頑張れよ。その内良い事もあるよ」
 刃葉さんは別に名残惜しそうでもない口調で頑治さんを励ますのでありました。アンタに激励されたくもないし余計なお世話だと頑治さんは内心鼻を鳴らすのでありましたが、そう云う真似もせず如何にも邪気の無さそうな笑い顔をして見せるのでありました。
「じゃあ、まあ、刃葉さんもお元気で」
 頑治さんが云うと刃葉さんは片手を上げてそれに応えるのでありました。それから頑治さんにクルリと背中を向けてその場を去っていくのでありました。少し強い初冬の風が吹いて、刃葉さんの着ているジャケットの裾を翻すのでありました。
(続)
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