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あなたのとりこ 621 [あなたのとりこ 21 創作]

「それはご免蒙ります」
 那間裕子女史はきっぱりと云ってから、自分の前の未だ一口か二口程しか飲んでいないビールジョッキをやや重そうに持ち上げるのでありました。
「均目君にさっさと辞めろと云って置いて、それは無責任なんじゃないの」
 対面に座っている甲斐計子女史が持ち上げていたウーロン茶のグラスをテーブルの上の厚紙トレーに置いて云うのでありました。全体会議中は終始沈黙していたのにここで声を上げたものだから、皆の視線が甲斐計子女史に集中するのでありました。
「あたしの無責任を論う前に、均目君の無責任を追及して貰いたいものよね。断っておくけどあたしは本の編集とか、地図やその他の図版のデザインとか、そう云った仕事はやるけれど、制作部の請求書の整理とか材料在庫の管理とかの、細々した事務仕事には入社以来一貫して無関心を決め込んでいたんだから、今後も遣る気は一切ないんだからね」
 那間裕子女史は不貞腐れたような云い草をするのでありました。
「まあ、そう云った態度だったのは何となく判っていましたけどね」
 袁満さんが渋い顔をして納得の頷きをするのでありました。
「でも大企業の、製作部員が何人もいる会社じゃないし、均目君が辞めるとなったなら、残った那間さんが、好きも嫌いも、否も応もなく引き受けるしかないんじゃないの」
 甲斐計子女史は那間裕子女史の不貞腐れ具合に負けないくらいの、やけにつんけんした云い草をするのでありました。
「そんな事勝手に決めないで貰いたいわ」
 対抗上、那間裕子女史が不機嫌に云い棄てるのでありました。この二人は普段からそんなに親しく会話をする仲と云う訳ではなかったけれど、かと云ってこう云う風の喧嘩腰で屡云い争いをするような険悪な間柄でもなかったのでありました。
「それじゃあうちの会社はどうなるのよ?」
 甲斐計子女史は明らかに甲斐計子女史が制作部の責任者を引き受けない事に腹を立てているようでありました。腹を立てるべき第一番目はそこではないと頑治さんは思うのでありましたが、それを云ってもここでは詮ないと思って沈黙を守るのでありました。
「だって、土師尾さんが制作部を潰すと云っているんだから、ウチの会社がその後にどうなるのかは土師尾さんに訊いてみたら良いんじゃないの。そう云い出したんだから、屹度明確な将来像があるんじゃないの。あたしはそんなのにちっとも興味はないけど」
「甲斐さんとしては要するに、兎に角会社だけは存続して欲しいと云う立場かな?」
 袁満さんがやや首を傾げて訊くのでありました。
「それは、失業するよりはマシよ」
 甲斐計子女史は無愛想に云うのでありました。直截にそうだと明言しないし、云い草が無愛想であるのは、つまりそう考えている事がまるで裏切り行為を働いている時のような後ろめたさが、気持ちの隅の方に少しくあるからでありましょうか。部署の廃止とそれによって発生する就労環境の変化とか待遇の改悪とか解雇なんかの労働問題よりも、取り敢えず多少切り下げられても給料が保証される方を個人的には願う、と云うような。
(続)
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