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あなたのとりこ 573 [あなたのとりこ 20 創作]

 それに若し相談をしたとしても、片久那制作部長は自分がこれから始めようとしている仕事に那間裕子女史を誘う気はないようでありましたから、好い機会だから会社を辞めて自分の方に来たら、とか云うアドバイスは先ずしないでありましょう。寧ろ曖昧で一般論風の、明快な言葉を避けた助言に終始したろうと考えられるのであります。
 では均目さんに相談したと云う目は無いでありましょうか。均目さんと那間裕子女史はなかなかに親密な関係だと頑治さんは踏んでいたので、これはかなりな確率であり得べき事ではありますか。均目さんなら、新宿駅で頑治さんや袁満さんと別れた後の那間裕子女史がどこかの酒場か、若しくは自分の家に呼び出す事も如何にもありそうであるし、或いは均目さんの処に那間裕子女史の方が行くと云うのも実にあり得る事でありましょう。
 しかし何となく二人の仲にはここのところ齟齬の薄紙が一枚挟まったような、どことなくギクシャクとした気持ちの行き違いが生じているようではありましたか。それが何に起因するのかは頑治さんには確とは判らないのではありますけれど、多分制作部の責任者となった均目さんの頼り甲斐に対する那間裕子女史のちょっとした見込み違いだとか、その内秘かに片久那制作部長の方へ行く心算でいる均目さんの、それを未だ打ち明けていない後ろ暗さであるとかお呼びの掛かっていない女史に対する忌憚とか、まあ、色々。・・・
「兎に角、那間さんに今会社を辞められると、組合としては非常に痛い」
 袁満さんの苦渋の声が頑治さんの思念の中に流れ込んでくるのでありました。「組合として、と云うだけでなく、会社存続と云う点でも、衝撃が大きいと思うよ俺は」
「まあ、それはそうでしょうかね」
 組合としてとか会社存続の観点からと云うよりは、那間裕子女史の突然の辞意表明に一番ショックを受けて冷静さを喪失しているのは、どちらかと云うと何に依らず事態の激変を嫌う、のんびり気質の袁満さん自身でありましょうか。
「那間さんは明日にでも辞表を提出する心算でいるんだろうか?」
 袁満さんが頑治さんにそんな事を訊くのでありまあした。しかしそれは元より頑治さんには判断の付かない事でありました。
「何時提出するとか、そこのところは電話で那間さんは云わなかったですか?」
「うん。取り敢えず会社を辞めると云う決断を、電話で俺に知らせたという感じかな」
「まあ、実際に会社を辞める時期としては、明日辞表を提出したとしても、提出から一か月後、と云う事にはなりますかねえ」
「いやいや、そう云う事ではなくて、俺としては那間さんに辞表そのものを出して欲しくないと思っているんだよ。会社を辞めないで欲しいと」
「しかし辞めるとか辞めないとかは個人の判断だし」
「何だか、唐目君は冷たいんだなあ」
「いや、冷たいとか温かいとか云う話しではなくて、進退は結局本人だけの意志だと、単にそう云っているだけですよ、俺は」
「つまり他人にはどう仕様もないと、すげなく云っている訳ね?」
「まあ、そうです」
(続)
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