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あなたのとりこ 511 [あなたのとりこ 18 創作]

 頑治さんは珍しく一人で昼食を摂って早々に帰社すると、二人だけで話したい事があるからと土師尾常務に喫茶店に誘われるのでありました。考えてみたら土師尾常務と差しで話しなんか今迄した例がなかったから、頑治さんとしてはその誘いを何となく訝しく思うのでありました。しかしまあ、無下に断るような理由もなかったし、それにこれは誘いと云うよりは上司の命令なのでありましょうから、従うしかないと云うものであります。
 会社近くの多分土師尾常務行きつけの、如何にもありきたりで大して魅力的な店構えでもなく、何となく店内が妙に明るくて落ち着いた雰囲気が無さそうだったから今迄入った事もなかった喫茶店の、二階に通じる狭い階段下の奥まった席に着いてから、二人揃ってフレンドコーヒーを注文して、暫くしても土師尾常務はなかなか話を始めないのでありました。何やら気軽には云い出しにくいような類の話しなのでありましょうか。
 ま、目を合わせないでやや俯いて対面に仏頂面で座っているその顔つきと、大体が愛想も洒落っ気も全く感じられない、高々五分で済む程度の話しを持って回ったような云い回しで態々二十分をかけて、さも大仰に深刻めかして語ろうとするその何時もの話し振りでありますから、会話していて楽しかろうとは端から期待はしていないのでありました。これ迄も、もたもたと愚にも付かない戯れ言をしていないで、さっさと簡潔にして端的に話しを切上げてくれないかと思う局面が頑治さんには幾度あった事でありましょうか。
 先程注文したコーヒーを盆に載せて中年のウエイターが席の横に遣って来るタイミングで、それまで重々しく閉じていた口を開いて土師尾常務はようやくに喋り始めるのでありました。そっぽを向いていた頑治さんは目を徐にその小顔に向けるのでありました。
「なかなか思った通りに業績が回復しない」
 土師尾常務はコーヒーカップを持ち上げようとして、思いもしなかったその熱さに驚いて反射的に指をカップの取っ手から離すのでありました。「片久那君が辞めたので人件費はかなり節約出来たが、業績が回復しないと結局どう仕様もない」
 これは今迄片久那制作部長が如何に多額の報酬を受け取っていて経営を圧迫していたかを、暗に仄めかそうとしているのでありましょうが、それよりも多い額を自分も受け取っていたし今でも受け取り続けているという事実を脇に置いての言であって、真面目に聞くにはちゃんちゃら可笑しいと云うべきものでありましょう。そんな事情を頑治さんが、或いは従業員全員が全く知らないとでも本気で思っているのでありましょうか。
 それに、片久那君、と、まるで格下扱いするような云い草は、実に片腹痛いと云うものであります。片久那制作部長が居る時は、片久那制作部長、とか、片久那さん、とか、傲慢に取られないように大いに畏れて気を遣いながら呼んでいたくせに、その人が居なくなった途端、俄かに自分の部下だったような呼ばわり方をして見せるのは、これは逆に往時は全く頭が上がらないで小さくなっていたその鬱屈を、不注意にも自ら吐露して見せたという事になるでありましょう。慎に体裁のよろしくない仕業と云うべきでありますか。
 そんな風に頑治さんは土師尾常務の底意を秘かに嘲笑うのでありました。こんな頑治さんの心気を知ってか知らでか、まあ、知らでか、の方でありましょうけれど、土師尾常務は少しばかり調子に乗って片久那制作部長への評言を縷々続けるのでありました。
(続)
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