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あなたのとりこ 441 [あなたのとりこ 15 創作]

「未だ夏休み迄は時間があるから、色々じっくりお互いに摺り合わせして、何とか目論見通り二週間一緒に夏を過ごしましょうよ」
 夕美さんはそう云いながら頑治さんの手を握るのでありました。頑治さんとしてもこの先の夕美さんとの逢瀬の算段が付いたような気になって嬉しくなるのでありました。
 列車が入線するぞと云うアナウンスが頭上に響くのでありました。夕美さんと頑治さんは下に置いていた夕美さんの旅行カバン二つを夫々取るのでありました。愈々これでゴールデンウィークの夕美さんとの逢瀬は終わるのであります。
 夕美さんの頑治さんと繋いでいる手に力が籠るのでありました。頑治さんもそれに応えて強く握り返すのでありました。上手くゆけばまた三か月もしない内に逢えるのではありますが、頑治さんとしては矢張り夕美さんとの別れが寂しいのでありました。夕美さんも名残り惜しそうに頑治さんの顔を見上げているのでありました。

 出雲さんは出社してすぐに土師尾常務の机の傍らに赴いて退職願いを机の上に置くのでありました。頑治さんはその少し前に土師尾常務の机上の伝票入れから、その日の発送指示書を取ってその場で暫し眺めていたのでありましたが、出雲さんが傍に遣って来たのでそれと察して立っている位置を出雲さんに譲ったのでありました。
 土師尾常務は机上に置かれた退職願いと万年筆で表書きしてある封筒に暫しの間目を落としてから、ゆっくりと無表情に出雲さんを見上げるのでありました。
「どう云う事かな?」
 どう云う事も何も、出雲さんの手で退職願いが机上に置かれたのでありますから、事態としては慎に明快な筈で、頑治さんにはこの土師尾常務の問いは如何にも間抜けに聞こえるのでありました。事態が把握出来ないくらい土師尾常務が取り乱したと云う訳ではないでありましょう。まあ要するに、この人なりに勿体を付けているのかも知れません。
「会社を辞めたいと思います」
 出雲さんは生真面目な表情でそう云って一礼するのでありました。
「もう少し詳しく話を聞こうか」
 土師尾常務は立ち上がってから事務所の出入り口の方に向かって顎をしゃくって見せるのでありました。ここではなく外で話そうと云う事でありますか。まあ恐らく、社長室に出雲さんを連れて行こうと云う心算なのでありましょう。
 会社の実務は一応体裁の上だけでも土師尾常務が司っているのでありますから、殊更大袈裟に社長同席の上で一緒に出雲さんの辞めたいと云う気持ちを聞き質す必要は無いと云うものであります。社長へは事後報告で済む話しでありましょう。
 それを敢えて社長同席で話しを聞こうとするのは、これは会社を辞めていく出雲さんに一種のプレッシャーを感じさせようと云う魂胆で、出雲さんの気持ちを弄んで面白がってやろうと云う悪心からでありますか。人が窮地に、或いは緊張状態にあると見たらそれに対して嬲って喜ぼうとするのはこの人の得意芸の一つであります。出雲さんも社長室に連れていかれるとすぐに踏んで、少しの狼狽を見せるのでありました。
(続)
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