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あなたのとりこ 437 [あなたのとりこ 15 創作]

 夕美さんは落語家の名を記した幟のはためく末廣亭の出入口辺りに立って、何をそんなにと云うくらいせっかちに行き交う往来の人通りを眺めるともなく眺めながら、つんと澄ましたような無表情で頑治さんを待っているのでありました。
「随分待たせたかな?」
 目の前に立つ迄頑治さんに気付かなかった夕美さんは、そう声を掛けられて一瞬驚きの表情をするのでありましたが、すぐに頑治さんと認めて相好を崩すのでありました。
「ううん、そうでもないけど」
 夕美さんは首を小さく何度か横に振るのでありました。
「未だ昼席が終わらないか」
 頑治さんは腕時計に目を落とすのでありました。
「そうね。でも入場券は買って置いたわよ、二枚」
 夕美さんは左肩から右腰に袈裟に掛けていた黄色のポシェットから、入場券を二枚取り出して頑治さんの目の前に示すのでありました。
「夜席まで何処かで間を潰すにはちょっと時間が少ないし、かと云って行列も出来ていないここで待っていると云うのも何となく間抜けだしなあ」
 頑治さんは苦った顔をして見せるのでありました。
「そうね、中途半端な待ち時間の長さよね。でもまあ、時節柄寒くも暑くもないし、ここで人通りを眺めながら手持無沙汰に二人で待っているのも悪くないんじゃない」
 夕美さんは頑治さんの手を握るのでありました。手を握られた途端、頑治さんはそれもそうかと心持ちの結び目みたいなものが緩むような気がするのでありました。夕美さんが生来持っているところの大らかさが掌から浸みてきたのでありましょう。
「でものんびり田舎暮らしを始めた夕美には、こんなに気忙しそうに人の行き交う街の光景なんかは、気疲れして仕舞うんじゃないの?」
 頑治さんは冗談七分に訊くのでありました。
「そうでもないわよ。東京を引き払ったのは一月ちょっと前なんだから、未だそれ程田舎者にはなっていないわ。でもまあ、こういう光景が懐かしいような気分に今なっていると云う事は、つまりもう充分田舎者になったと云う事かしらね」
「俺なんか東京に住んでいても、向こうから出て来て以来、ずっと田舎者でい続けているような気がする。こういう人混みは何年見ていようと未だ何となく苦手かなあ」
「田舎者云々より、その人の持っている気質に依るって事でしょう」
「俺は人間観察はどちらかと云うと好きな方だけど、こういう処に立っているとそれは矢張り疲れるかな。観察するにしてもやけにせわしないからね」
「じゃあ喫茶店にでも入って時間を潰す?」
 夕美さんは、要するに頑治さんがここで立って待っているのが苦痛であると訴えているのだろうと思ったようでありました。「もうチケットは買ってあるから、少しくらい開演時間に遅れても大丈夫だし、多分そんなに混まないような気もするから」
「それも何となく無駄なような気がするなあ」
(続)
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